読書感想 『モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く』 尹雄大 「問い続け、考えをやめないことが生み出す力」
子供の頃から聞かされていた「人の迷惑にならないように」という言葉があって、「人って、誰だろう。あなたのことでは?」というようなことを思っていたが、それを問うのは一種のタブーだったようにもどこかで感じていた。だから、問い続けることは、できなかった。
だけど、どこかで、この妙な「圧力ワード」は、自分が成長していく中で、なくなっていくのではないか、とも思っていた。それは、世の中には「まともな大人」も多いはず(リンクあり)だから、そうした人たちが考えてくれて、この「迷惑をかけちゃいけない」が、どうして、「圧力」に感じるのか。それが、無駄に人の自由を奪っていないか。そんなことを冷静に合理的に明らかにしてくれて、そこから少しは解放されると感じていた。
それは、その言葉を使う人間が、当然だけど、子供の自分よりも、年上の人が使っていて、実は古い価値観に属する言葉だから、これから未来が進んでいけば、使われなくなっていくのだろう、といった期待もあった。
でも、子供の頃は、見えないくらいに未来だった21世紀でも、「迷惑」という言葉は、圧力を保ったまま、びっくりするくらい、健在のままだ。
「モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く」 尹雄大
この著者は、ずっと考え続けている。それは、「モヤモヤ」したことがあったら、その「モヤモヤの正体」がわかるまで、(何年かかろうが)諦めない姿勢に思える。だから、読んでいる方も、考えざるを得なくなって、そして、そうした結論についても、「いろいろある」や、「難しい」といった課題の先送りをするような解釈ではなく、様々なことに関して、著者なりの結論を出し続けている。
それは、これだけが正解、と押し付けているというよりは、結論を示すことによって、ここまでは考えた。あとは、読者はどう思う?と問えるし、そのことによって、問題の難しさを分かったりするだけでなく(それも大事だけど)、その先が見えるきっかけを作ってくれ、背中を押されているようにも感じる。
たとえば、迷惑について一時期語られていたテーマは、電車内のベビーカーのことだった。私自身は育児の経験がないとはいえ、義母を介護している時は、クルマ椅子で電車に乗ったし、満員の時は避けるようにしていたが、病院の検査など、本当にやむを得ない時は、混んでいる電車に乗って、身を潜めるような気持ちでいたのだけど、迷惑そうにする人がいる一方、親切な人も少なくなかった。違うけれど、ベビーカーの問題と質は似ていると思えた。
その「ベビーカー問題」について、著者は、こんな書き方をしている。
「いや、そうじゃない。通勤ラッシュの時間帯だから問題だと言っているだけで、満員電車でなければ別にベビーカーで乗り込んでも構わない」といった意見もSNSでちらほら見ました。冷静でまともな見解に聞こえます。
でも、本当にそうでしょうか。なぜ「乗り込んでも構わない」と許可を下す立場に自分がいられると思えるのでしょう?それは労働と生産のほうが上位にあるからだと信じているからではないでしょうか。それが悪いと指摘したいのではありません。一見すると「冷静でまとも」な考えが立脚しているところを問うてみると、私たちが信じている価値や感性のありかがわかってくるのではないか、と言いたいのです。
考えをさらに進めることで、見えることが変わってくる。そんな思考する姿勢を具体的を見せてくれると、たとえば、「迷惑をかけてはいけない」について「モヤモヤ」としながらも、どこかで波風を恐れて、考えるのをやめたかもしれない自分のこれまでを振り返り、改めて反省するような気持ちに、いつのまにかなっていた。だから、読み進めると、微妙な後ろめたさも共に感じていた。
「迷惑とワガママ」について、考えをさらに進めていく
物議を醸す出来事に対し、「迷惑とワガママ」とラベリングする人のほとんどが実は怒りの感情をたぎらせていると思うからです。
この本のタイトルは「迷惑とワガママの呪いを解く」で、だから、そのテーマはずっと流れ続けているが、他にも様々な「モヤモヤ」に対して、著者自身で考え、そして、一応の結論を出し、それで、読者には、そこからさらに先へ行くことを促している。
だから、おそらく受動的な姿勢だけでは、いられないのだけど、その「迷惑とワガママ」については、さらに踏み込みが続いていく。
「みんな」が「自分にはわかってもらえるだけの価値がない」という体験を同じようにしていたとしたらどうでしょう。「迷惑とワガママ」のジャッジが「みんなが迷惑だと感じている」「みんながそんなワガママをすれば世の中はおかしくなる」と論拠なく「みんな」をあてにできるのは、同じような体験で犠牲を払った記憶を多くの人が共有しているからではないでしょうか。それが意識化されない文化として、私たちを抑制する空気を醸成することになっているのかもしれません。
この不自由さは、とても根深いものでもあるのだけど、それでも、仮説とはいえ、その根っこが少しでも明確さを増すことで、その「正体」が分かることに近づけば、いつか、その「呪い」が解ける日もくるのだろう、と思えてくる。
同時に、その「呪い」が解けることが、みんなに一斉に訪れることになってしまったら、それは形が変わっても、違う種類の「呪い」に過ぎないから、個々人で考えていき、それぞれが「呪い」を解いていく、という道筋の目安はつけてくれていると思う。
これからを生きていくとすれば
本来であれば、引用が多すぎる本の紹介は、あまりいいものとは言えない。それは分かってもいるのだけど、この著者の思考の粘り強さや豊かさや、そして、表現は、できたらそのまま伝えたほうが、今、「モヤモヤ」を通り越して、生きていくのが辛くなっている人にほど、届くように思えた。
そして、もちろん、ここに長めに引用したことで、この著書の全部が伝わるわけではないので、この引用部分に興味が持てた人には、ぜひ、一冊全部を読んで欲しい。そして、私とは違う方向や、異なる豊かさに向かって考えることで、どうしようもない21世紀に対して、違う視点を獲得し、そして、少しだけ成長した自分になることによって、想像もしなかった未来が見えてきそうな文章でもある。
惑うこと疼きを感じること。痛みや弱さを感じること。多くの人が感じないようにしているのは、みんなが信じる正しさや克服といった価値観に背かないためです。無意識のうちにそのやり方に多くが依存しているのだとしたら、自分自身を理解する道を進もうとすれば、必ずやマイノリティになります。心細いかもしれません。しかしながらこの世界に溢れている言葉は「誰かのようになるための文法」で成り立っています。その中でもパワーワードになっているのが迷惑とワガママです。誰かと同じような言葉を語り続けることで一生を終えたいでしょうか。それらを手放さないと新たな言葉は手に入れられないでしょう。
後生大事に抱えた言葉の群のせいで、現に私たちは空の手を誰かに差し伸べることにも、差し伸べられた手を握ることにも恐れを抱くようになっています。
決して、すごくわかりやすいわけではない。だけど、読んで、考えて、少しゆっくり読むことで、自分の内面に働きかけてくる文章でもある。
本格的なコロナ禍の前に出版された本でもあるけれど、コロナ禍によって、すっかり変わってしまった世界のあとにも、確実に引き継がれていく課題を考えた本なので、これまでと、これからを真剣に考えたい人に、特にオススメです。
(他にもいろいろと書いています↓。読んでいただければ、うれしいです)。
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