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「ごぼう抜き」が与えてくれたもの。

 もう、あまり言われなくなったのかもしれないけれど、陸上競技などの場面で、よく使われていた言葉が、「ごぼう抜き」だった。

リレーのアンカー

 例えば、小学校や中学校のリレー競技

   それも多人数が参加して、アンカーと言われる最終ランナーに至るまでに、すでにかなりの差が開いている。そして、最後のランナーにバトンが渡されて、その最後尾に近いところから、圧倒的に早いランナーだったら、前を走る人間を次々と抜いていって、場合によっては、トップでゴールを駆け抜ける。

 この状況を「ごぼう抜き」というのだけど、その時は、見ている側も、そのランナーと、それほど仲がいいわけでもなくても、不思議な気持ち良さがあった。

 それは、冷静に考えれば、小中学生くらいの年代は、成長の差があるのだから、そういう運動能力にも大きく違いがあるから、そういう現象が起こりやすくなるのは事実だった。

 さらに、自分も足が遅かったから、どう考えても、「ごぼう抜き」される方なのに、そういう場面では、次々と追い抜いていく側として見ていたのだと思う。

 だから、いろいろと考えると、こういう時は、足が速い奴がモテる、という俗説は、本当なのではないか、と思える瞬間だった。

強い者

 どれだけ人と争うのが好きな人であっても、実生活で勝ち続けることは、そんなに多くないはずだと思う。私自身は、足が遅い子でもあったし、スポーツもしていたけれど、勝つことの方が少なかった。だから、勝つことの快感や、勝てるという確信を持つこともほとんどないまま、生きてきた。

 その代わりとして、応援する、という行為に熱中する場合もある。その際は、強いチームや強い選手に肩入れをして応援をすれば、勝つ喜びを共有できる可能性も高くなる。

 そう考えると、高度経済成長期に、「巨人・大鵬・卵焼き」が、人気があるものの例えとして言われているのも、納得できる。巨人は、プロ野球チームの読売ジャイアンツで、V9といって、9年連続日本一になっているし、大鵬は相撲界で強い横綱だったし、卵焼きは、当時は、まだ多分、ちょっとしたご馳走だったのかもしれない。

 ただ、この言葉に微妙に感じるのは、薄い侮蔑感みたいなもので、当初は「子供が好きなもの」という制限がついていて、それは、見方が単純、ということとセットで語られていたのだけど、それを超えて、人気がある、という勢いと熱狂で、さらに広く定着していった言葉なのかもしれない。

 強い者に、自分の気持ちを託して、自分も強くなったような気がする。
 それは、単純だけど、人を力づけることもあると思う。

逆転

 「ごぼう抜き」は、それまで「負けて」いなければ、成り立たない。
 そして、考えたら、応援するチームが勝った時に、最も興奮するのは「逆転勝ち」ではないだろうか。

 自分自身が、そんなに熱心に、何かを応援した記憶が少ないので、あまり実感を持って語れないのだけど、逆転勝ちをするチームを応援するスタンドの熱狂は、とても強かった印象がある。

 本当に強かったら、ずっとリードしたまま試合は終わる。
 それはファンにとっては、面白いのかもしれないし、ずっと安心したまま時間が進むから、気持ちがいいのかもしれない。

 だけど、最初は負けていて、最終的に逆転して勝つ、という状況には、興奮が伴う。ああ、負けるのかも、というような不安感、そして、それでも諦めずに応援していると、あれ、勝つかも、という期待が盛り上がってきて、実際に勝っていく姿を目の前で見せられて、勝つ。

 それは、やっぱり興奮とともにあるから、たぶん、その日のビールはうまくなるし、一緒に応援している人がいたら、みんなで喜びあえる。

 こう書いていると、その逆転の主体者であるプレーヤーは、おそらくは、そこにいる誰よりも冷静な部分があるはずで、そうでなければ、不利な状況をひっくり返すことは不可能だと思う。

 だから、とても深い冷静さが、強い熱狂を生み出すのかと思うと、不思議な気はする。

 今は、コロナ禍で、現場で見られることは少なくなったといっても、競馬場で、または世界的な大会で、陸上競技だけでなく、球技であっても、奇跡的な逆転は、負けるかも、というネガティブな思いから、勝っていく過程を目の前で見せることによって、気持ちが急激に「上がっていく」という変化が起こり、熱狂を生んでいるのだと思う。

 そう考えると、逆転は、中毒性がありそうだし、どんどんと抜いていく、という逆転の連続でもある「ごぼう抜き」は、最も興奮を呼びそうだから、小学校や中学校のグランドで見た「ごぼう抜き」の印象があれだけ強かったのだと、少しは納得できる。

 今、その「ごぼう抜き」が最も見られる確率が高いのは、もしかしたら、正月に行われる「駅伝」かもしれない。「○人抜き」という見出しが、いまだにスポーツ新聞の見出しになっているということは、その「ごぼう抜き」の需要が今も高いことを示しているような気もするが、それを可能にするのは、圧倒的な力の差でもあるのだから、どこか残酷さもむき出しになっていて、実は、そのことも、中毒性の理由の一つかもしれない。

「ごぼう抜き」の現在

 最近、「ごぼう抜き」という言葉は、ほとんど聞かれなくなったと思う。

 かなりのこじつけかもしれないが、高度経済成長の頃は、強い者を応援しながら、いつかは自分も「強者」になれるのではないか、という希望をまだ持てていたのかもしれない。だから、逆転も「ごぼう抜き」も、負ける側や、抜かれる側のことを、そんなに考えずに、自分も一緒に逆転したり、追い抜く側に、少なくとも気持ちの面で立つことができたのではないか。

 それから、バブル期、バブル崩壊を経て、平成という時代には、ずっと停滞というよりは、降っていくような時間が長く続き、いわゆる「新自由主義」が、どこか「常識」のような時代になってしまうと、例えば、「ごぼう抜き」という現象を見たときに、昔の人間のように、どこか無邪気に「追い抜く側の視点」に立つことは難しくなっているのではないだろうか。

 階層が固定されがちで、資本主義自体がアンフェアなシステムではないか、と指摘されるようなこともある現在(個人的には「21世紀の資本」は、そういう書籍だと思いました)では、自分が、「追い抜かれる側」にいると思いやすくなり、「ごぼう抜き」という現象は、単純に興奮を呼ぶものではなくなり、だから今は、熱狂的な瞬間に結びつくのは難しいかもしれない。

 ただ、今でも、「ごぼう抜き」の熱狂を味わえるとしたら、ギャンブルの現場で、それも自分が賭けた相手が、「ごぼう抜き」をしていったら、それは他に変えようがない快感で、だから、ギャンブル依存という、別の次元の話につながっていく現象として、残っているのだろう。

「ごぼう抜き」の当事者

 学校のリレーで圧倒的に足が速く、「ごぼう抜き」の当事者だった人間は、その後、どうなっているのだろう。

「足が遅かった子の未来」は自分自身だから、それなりに想像もしやすいから、逆に、自分にとってはわかりにくい、若い頃に「勝ってきた」人間の未来にも興味はある。

 ただ、それよりも、勝っている当事者としての、その「ごぼう抜き」の瞬間は、やっぱりとても気持ちいいのかどうか。それとも、そんなことは感じていなかったのか。かなりの時間が経っているからこそ、改めて聞いてみたい気がする。

 トップアスリートになれば、「ごぼう抜き」から始まって、それが出来にくい、心身を削るような接戦の日常になるから、その初期の気持ちは、忘れてしまっている可能性もある、などと思ったが、それは、また別の話になるのだろう。



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