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『少女たちのお手紙文化 1890-1940展』------「思いの遺産」。2024.1.20~3.24。町田市民文学館ことばらんど。

 初めて、東京町田市の「ことばらんど」という場所に行った。

 そこで、切手デザイナーの講演会があるので、企画展が始まったばかりの時に、行けた。



少女たちのお手紙文化1890-1940展 〜変わらぬ想いは時を超えて

 施設は、入り口の印象とは違って、中は広く感じ、階段を上がると、その途中の壁に「最後のお手紙を書いたのはいつですか?」という文字がある。それを見て、確か先週に知り合いに、手書きではないけれど、手紙を書いたことを思い出す。

かつて手紙は、人々をやわらかく結びつける大切な役割を担っていました。そこに書き込まれた手書きの文字は書き手の人柄や想いを反映し、読む人にぬくもりを感じさせます。しかしインターネットの普及にともない、一時は最も主要な通信手段であった手紙も、今ではすっかり書く機会が失われてしまいました。ところが近年、デジタル化により時間に追われるようになった生活様式への反省から、文房具や手書き文字は再び注目を集めています。また、人々の行動範囲を制限した感染症の流行が、会えない相手との心のこもった交流ができるツールとして、手紙を見直すきっかけともなりました。

(「町田市」ホームページより)

 この企画展がおこなわれた理由も説明されているようだけど、手紙も「少女たちの文化」としての視点で組み立てられているらしい。

 本展では、封筒や便箋などのお手紙道具、明治期から昭和初期にかけてさかんに出版された手紙の用例集、文通の場として読者投稿欄を設けた少女雑誌、そして実際に書かれた手紙などを通して、近代日本において特に少女たちが担ってきた“お手紙文化” を振り返ります。本展を通して、人々をつないできたお手紙文化を見つめ直し、手紙を書くことの楽しさを感じていただければと思います。

(「町田市」ホームページより)

女学校

  展示室には、封筒や便せんが並んでいて、それは、確かに実用面から見たら、必要とは思えないような装飾があって、それは、例えば大正時代のものであっても、今でも「かわいい」と思えるものが並んでいる。

   そういうものを見ていると、確かに自分が学生時代の時も「女子たち」が授業中でも小さくたたんだ手紙を届けるために何人かの手を渡っていったことがあったり、「かわいい」封筒や便せんは、やはり「女子」が中心になって購入されていたし、今も、家の中にはそうした封筒や便せんが少なくないけれど、主に妻が買っているものだった。

 だから、最初、手紙文化を「少女たちが担ってきたもの」という見立て自体に無理があるかも、と思ってしまったが、実用的な手紙は別として、特に用事があるわけでもなくて、ただコミュニケーションを目的としたような手紙のやり取りは、確かに「少女たち」、それも特に戦前は「女学校」といわれる場所で学んでいる「少女たち」で盛んに行われていたようだ。

 この展覧会には、実際に当時、特定の誰かから、別の誰かに出された手紙も、名前の部分は伏せられているものの、そのまま展示されている。もう何十年も前の、それこそ、見聞したことの感想を伝えている、いってみれば、たわいもない内容なのだろうけれど、そこに何かしらの思いがあるのは確実で、それが、全く関係がなく、時代も違っていて、全部を読み切ったわけでもないのに、なんとなく、そこに柔らかいコミュニケーションがあるのは伝わってくるような気がした。

 自分だけが読むものではない。だけど、不特定多数ではなく、誰かに向けて書かれた文章というのは、書いた人が濃厚にそこにいるように感じるから、余計に不思議な気持ちになるのかもしれない、と思った。

 その一方で、こうした手紙のやり取りをしていた女学生は、文字もきれいで、もちろん教養もあるのだろうけれど、全体の人口だと、おそらくは本当に少数の、恵まれた層なのではないか。などと思ったのは、展示室に並んでいる「かわいい」手紙の道具は、おそらく、いわゆる茶封筒や、真っ直ぐにラインだけがあるシンプルな便せんよりは高額なはずで、そうした商品を日常的に使えるとなれば、やはり限られた人たちなのではないか、とも思っていた。

 ただ、文化というのは、そういうものでもあることを、再認識もできた。

竹久夢二と中原淳一

 手紙の道具だけではなく、手紙にまつわる雑誌なども展示されていて、その中で、目をひいたのが、竹久夢二中原淳一の作品だった。

 竹久夢二は、独特の美人画で知られる大正ロマンの頃の画家であり、詩人であり、デザイナーでもある存在だった。一方、中原淳一は、戦後に、それこそ「少女たち」に夢を与えた存在で、考えたらどこかで竹久夢二と印象も似ているかもしれない。

 二人の作家が描く女性や、少女たちは、今見ても「かわいい」し、こうした顔の現代のアイドルもいそうで、すでに大正の時代から、こうした価値観は確立していたのかと感心するような気持ちにもなる。

 もちろん、それは個人的な印象に過ぎないから、人によってはすでに古いものかもしれないけれど、それでも、ある時期の「少女」(女性だけではないかもしれない)といわれるような人たちであれば、普遍的に憧れるデザインがあるのかも、と思えるくらい、竹久夢二と中原淳一の描く「女性」は、それほど知らない人間が見ても、魅力的に見えた。

 特に夢二は、正式に美術教育を受けたこともないはずだから、独学で、こうした作品を生み出し続けたのは、やっぱりすごいのではないかと改めて思った。

ラブレター

 他にも、夏目漱石や、小川糸など、明治から現代まで、手紙を題材としている文学の紹介があったり、思った以上に広い分野のことについての展示があった。

 だから、あまり手紙を書かなくなった、と言われても、手紙という存在が、想像以上にどこか特別なものであるのはわかる。

 ただ、今後、本当に手紙を書く習慣が絶滅に近い状態になったとしたら、こうした展示自体が、そのときの鑑賞者にとっては、エジプトの遺物を見るような、そんな博物館に近い印象になるのかもしれなくて、そうなると、家にある手紙自体が、歴史的な存在になるかも、といった本筋とは関係のないことを思ったりもした。

 そうして、具体的な手紙として本人の名前も出ていた手紙があったのは、町田出身の詩人 八木重吉のものだった。(失礼ながら、八木重吉という人を知らなかった)。

 展示室内の説明によると、家庭教師をしていた女学生・島田とみが好きになってしまい、そのあとに結婚するものの、いわゆる遠距離恋愛になったような時期もあったようで、そうしたときに書かれた手紙もガラスケースの中に並んでいた。

 男性が書くにしては、当時でも「かわいい」便せんを使用していたし、その文字も達筆といった硬さがあるのではなく、どちらかといえば、もっと柔らかい書き方をしているし、その改行も比較的自由だったのだけど、それはどうやら、若い女性である、手紙の相手が気に入ってくれるように、あちこちに細心の注意と、とても熱量の高い好意がこもっているのが、全部を読んだわけでもないのだけど、伝わってくるようだった。

 とにかく好きでたまらない。

 手書きの文字。自分で選んだ手紙の道具。そうしたことも含めて、そういう思いが、まだそこにあるようだった。

 すごいラブレターだと思った。

1922年に島田とみと結婚。この頃から詩作に専念し、1925年には第1詩集『秋の瞳』を刊行した。これが縁で「詩之家」や「日本詩人」などに作品を発表したが、29歳の若さで病死。没後、生前自選の詩集『貧しき信徒』が、再従兄の作家・加藤武雄の尽力で出版された。1927年10月26日、結核のため29年の生涯を閉じた。

(「町田市ホームページ」より)

 結婚してから詩作に専念する、というのも、かなり大胆な選択だと感じるが、とても好きだった相手と結婚できて、子供も生まれ、楽しかったのではないか、と勝手に思いたいのは、その結婚生活も5年で、しかも八木重吉は、29歳の若さで病死してしまう事実も観客は知るからだ。

 それでも、とみさんは、大事に手紙を保管していたから、こうして100年経っても、見ることができる。


 ただの記録では伝わりにくい、抽象的な「思い」というようなものも、手紙という形で残されている限り、ずっと伝えてくれるから、日常的でもあるのだけど、手紙は時間を越える凄さを感じた。

 貴重な展覧会だと思う。




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