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テレビについて②「放送作家の笑顔が、怖く思える時」。

 特定の誰か、というわけでもなく、決して非難ではないのだけど、いわゆる「売れっ子放送作家」という人たちの、陰りのない笑顔が、怖く感じる時がある。

 放送作家という仕事があるから、長い間、テレビを見ることができていたと思うし、ありがたいと思う反面、ある「何か」が、明るい笑顔にあらわれている気がして、そこに怖さを感じる時は、たぶん自分が行き詰まっていたり、それなりに悩みがあったりする時だと思うが、何より孤立感を感じている時かもしれない。

「売れっ子放送作家」という存在

 昔は、放送作家に関しては、そういう仕事がある事自体を知らなかった。今でも詳しく理解しているわけではないと思うが、それでも、放送作家という人たちがテレビ画面で話したり、ラジオで語っていたり、という機会は増えてきたから、一方的になじみは増している。以前は完全に裏方として、表に出てくることはなかったのだけど、いつの頃からか、そうした人たちも弁がたつので、目にする機会が増えてきたような印象がある。そうした、その内輪ウケのような感覚も、テレビの面白さとして、かなり「活用」されてきた背景もあるように思う。

 そうした環境があるので、あまり考えたことがなかった「放送作家」という仕事で、成功するということはどういうことだろうと、時々思うようになった。それならば、いわゆる「売れっ子放送作家」は、どういう特徴なのだろうと、そんなに意識をしていなくても、時々気にするようになった。

 現代で、コミュニケーションが重視される仕事で成功している人は、みんなそうなのかもしれないが、「売れっ子放送作家」という人たちの、個人的な印象は、やたらと明るい事。発言が短いこと。反射神経での言葉が多いこと。その場の流れに逆らうような発言はしないこと。自信に満ちている事。それ、おもしろいですね、ということが多いこと。断言すること。話している途中での沈黙がないこと。少し早口なこと。その場にいる人を不快にさせない話術があること。

 たぶん、こんな要素だと思うのだけど、それぞれ、今の社会で生きていく上では、必要な能力で、会社組織でも重要になることかもしれない、と思う。

 ただ、おそらく、そうした「売れっ子」といわれるような人たちとは、自分とは全く違う人間なので、おそらくはひがみみたいなものもあるとは思うのだけど、その笑顔の明るさや、声の湿り気のなさや、揺るぎのなさが怖く思えるのは、どうしてなのか、と時々考えて、検討して、そして、個人的で、間違っているかもしれませんが、一応の結論は出たので、これから、さらに伝えたいと思います。

「売れっ子放送作家」が怖く感じる理由

 いわゆる「売れっ子放送作家」の、さっきあげた特徴を、もう少し抽象的にすると、たぶん、こんな感じだと思う。

 常に多数派にいる才能がある。
 多数派が好むことを、即座に差し出せる能力がある。
 現状の肯定力が高い。
 多数派の好みが変わったら、そこへの適応力も優れている。
 たぶん、自分が、こうしたいという意志よりも、どうすれば多数にウケるのかを、常に優先させて考える、というよりも、感じることができる。

 こういう人が怖いと思えるということは、自分が少数派にいることが多いからだろう、と改めて思った。自分が、多数派に巻き込まれて、場合によっては、つぶされてしまうような気持ちになることもありえるから、放送作家の笑顔が怖く感じる時があるのかもしれない。その笑顔には、多分まったく悪気もないし、放送作家が悪いわけでもなく、ただ、勝手に個人的に、「民主主義の恐さ」を重ねているだけなのだと思う。そして、いわゆる「売れっ子放送作家」は民主主義への対応力が高いのだと思う。

「民主主義」の恐さ

 今は民主主義であって、一応、少数意見の尊重といったことも、その基本原則といわれているものの、現実的には、多数決で物事は決められて、少数派になったら、かなり状況が厳しくなることが多い。これから先は、少数派を、いかに切り捨てるのか、が「自己責任」という言葉と共に、進められていく予感がある。

 多数であることと、正しさとは、特に関係はない。
 多数が、その時に望むことを共有するのが、多数派である。
 だから、その基準が分からない。
 唯一の対処法は、自分がいつも多数派にいること。

 それは、個人的には、とても難しい。


 だから、もしかしたら、多数派にいる訓練というものが、学校というものや組織を通して、ずっと行われてきたのかもしれない。そして、私自身は、そこに微妙になじめないまま、成長し、しかも、反抗するようなエネルギーもなければ、突出するような才能もなく、そこに自意識過剰はあったとしても、自分がその時に思ったことを優先させてきたら、気がついたら、それほど意識しなくても、微妙な少数派になっていた。

 男性であることは社会的には多数派だと思う。大学を出て、企業に勤めて、自分がやりたいことを優先させてフリーランスになった。たいして才能もないが、一応は、微妙な感じだが、10年はやれた。そのあと、親の介護に専念するようになり、仕事も辞めざるを得なくなり、10年以上、無職で中年でただ介護をする時間が続いた。この頃は、少数派でもあるのだろうけど、単純に社会から落っこちていた感覚がある。それから、資格をとり、2年前に19年間の介護が終わり、今は細々と仕事をしているのだけど、携帯も持てない(リンクあり)貧乏な生活は続いている。結婚はしているが、子供はいない。

 もちろん、もっと避けようのない深刻な少数派ではないので、マイノリティと訴えるようなこともできない。自分自身で選択して、今に至っているので、立場としては、中途半端な少数派というように思っている。

 家電量販店に行き、「これが一番売れているんですよ」と言われても、自然に関心が持てないような人間になっているので、たぶん、多数派にいるような努力もしていないのだとは思うが、それでも、普段はそれほど、少数派を意識することはない。

 だけど、いわゆる「売れっ子放送作家」の、陰りのない笑顔と、どこまでも軽快なしゃべりを見た時に、それは、成功した人間への、ひがみもあるのかもしれないが、全く違う存在を見た気がして、なんだか怖くなる。ナチュラルに、それほど考えなくても多数派の発想ができ、それは、時には正しさとは直接関係のない多数派の象徴のようにも見えて、さらに場合によっては、多数派に踏みつぶされるような「民主主義の恐さ」も、その笑顔に感じているのだと思う。

「正しさ」とは関係ない「恐さ」

 もちろん、正しさを振りかざすことは、危険性もある。自分が、いつも正しいなどと思ったこともない。

 だけど、「正義の暴走」も危険かもしれないが、同時に「(大きな)不正の容認」も怖いのに、最近は、後者は肯定されている印象がある。そして、その方が、現在の「多数派」のようにも思える。
 さらには、少数派にとっては、正しさは武器になることもありえるのに、それを訴えても「正義の暴走」などと切り捨てられるかもしれない予感がする。

 これから先も不安になるのは、理不尽なことがあり、正当な抗議をしたとしても、その切実さは、少数派である限り「正義の暴走」と切り捨てられるだけでなく、もし、「売れっ子放送作家」の演出を通してしまえば、笑える光景にされてしまうような、そんな薄い恐怖がある。そして、それは多数派の娯楽として消費されてしまうだろう。

 これは、やっぱり多数派にいる才能や適性がない人間の、ひがみも入った妄想に近い発想かもしれないが、それでも、恐さは、消えない。

「才能のある表現者」であるための条件

 たとえば、誰もが知っているような楽曲を制作しているようなミュージシャンの発言が炎上したりすることがある。

 もちろん、本人に「こう思う」というのはあるにしても、大勢の人間に届く作品を作れるということは、どこかで、多数にウケることが感覚的に分かる、という才能があるのは間違いない気がする。だから、自然に、炎上するような発言をしてしまうのだろうけど、もしかしたら、炎上で見えにくくなってしまうが、そういう場合には、その発言している本人に確固たる思想があるわけでもなく、多数に、いま必要とされている言葉が、自然に出てしまっているだけで、実は支持している人のほうが多い可能性がある。

 人気が出る、というのは、売れ線を狙うといったマーケティング的な手法を超えた、もっと感覚的に、今はデータ上になくても、多数が必要であることが分かる、というのが「才能のある表現者」であるための条件、だと思うこともある。

 そうしたことを、戦時中の文化人の戦争協力と結びつけて、あんまり大雑把に、そして大げさに考えるのは不適切だけど、でも、真珠湾攻撃の時の太宰治の文章も、うまいというか、不安を消して、そちらへ行きたくなるような、見事に高揚感をあおる表現だと思う。それは、思想というよりも、多数が必要とされるようなことを自然に書けてしまうし、何しろ多数に支持されたいと強く思える、という才能が可能にしているように思う。


青空文庫 「十二月八日」 太宰治 

https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/253_20056.html

 1941年。真珠湾攻撃によって、アメリカも敵に回し、太平洋戦争にまで拡大してしまった日のことを、こんな風に書けてしまう凄さがある。

「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。」
 しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞えた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変ってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。

 そういえば、スキンヘッドの作家で、いろいろな話題を集めた人も、元・放送作家だった。もしかしたら、その作家の作品も、思想的なことよりも、今の時代なら、これが多数派にウケる、という感覚を元に書いているのかもしれない。だから、時代が変わったら、全く違う作品を書いて、それがまた多数派に必要とされる可能性もある。

 そんなことを思うと、自分自身が、多数派にウケないというひがみはあるかもしれないが、やっぱり、恐さは感じてしまう。そして、自分がもし、これから先、また社会的な立場が変わることがあれば、その見え方も変わってくるかもしれなくて、それも、たぶん薄い恐さにつながっている。



(他にもいろいろと書いています↓。よろしかったら、クリックして読んでいただければ、うれしいです)。

テレビについて①「オードリー 若林正恭 バラエティをドキュメンタリーに近づける力」

ラジオの記憶③「伊集院光に教えてもらったトム・ブラウンの凄さ」

暮らしまわりのこと。

いろいろなことを、考えてみました。

「コロナ禍日記 ー 身のまわりの気持ち」① 2020年3月 (無料マガジンです)。

「コロナ禍日記 ー 身のまわりの気持ち」② 2020年4月 (有料マガジンです)。


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