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読書感想 『地下アイドルとのつきあいかた』 ロマン優光  「 “歴史”の記録」

 それほど知られていないから、〝地下〟という形容詞がつくはずなのに、いつの間にかあちこちのメディアでも、一般でも使われることが多くなり、「地下アイドル」というのは、その言葉だけはメジャーになったように思う。

 あちこちで、「地下アイドル出身」という肩書きも聞くようになったけれど、考えたら、その人はすでに〝地下〟ではなく、メジャーな存在になっているはずなのに、そういう人を通して、何となく「地下アイドル」を、気がつかないうちに「知っているような」気持ちになっていた。

 それが、結局は勘違いに近いものだということを、こうした本を読むと、改めてわかる。

 地下アイドルを長年、一定以上の集中力でずっと見続けてきた著者だからこそ書ける書籍だと思った。「地下アイドル」に興味を持ったら、「ガイド本」としても機能する実用的で親切な部分もあり、そうした冷静さも含めて、「地下アイドルオタク」としての「歴史」を記したものだと感じた。


『地下アイドルとのつきあいかた』 ロマン優光

 最初は、「アイドルオタク」の捉え方に対しての、控えめな反論から始まっている。

テレビのようなメディアがとり上げるアイドルオタク像に偏りがあるという問題がある。

(「地下アイドルとのつきあいかた」より。以下、引用は断りがない限りすべて同著より)。

 全身を「アイドルグッズ」で飾り立て、ペンライトを持ち、ライブでは激しく「オタ芸」を繰り出す「アイドルオタク」は存在するが、多数派ではない。

 もっと、さまざまなスタイルで、いわゆる普通の「オタク」の方が多いのではないか、というような指摘をしているが、そうした外見的なことだけではなく、「アイドルオタク」の内面についても、丁寧な説明をしている。

 筆者がアイドルオタク以外の人と話していて落ち着かない気分にさせられるのが、「最近応援しているアイドルはどこなんですか?」といった類の言葉である。私はエンターテインメントを見にいき、その演者に対して惚れ込み、ある種の執着をしているだけで、べつに応援をしにいっているわけではないからだ。

 著者は、自身も「アイドルオタク」として自己弁護をしているのではなく、良し悪しではなく、「アイドオタク」という存在を、なるべく正確に伝えようとしているのは、フェアな姿勢だと思う。

オタクの良質な部分として理解されがちな「応援」というのも、欺瞞性に満ちたものが多くあるという現状がある。 

他者の不快な言動を嫌うオタクが、つねにどのアイドルに対しても配慮できる人物であるかというと、べつにそういうわけでもない。

地下を選んだアイドル

 そして、どうして「アイドル」として「地下」を選んだのか、といえば、もっとも多数を占めるのが、メジャーなアイドルのオーディションを落ちて、それでもアイドルをやりたくて、「地下」を選んだ、という人たちだという。

 それは、知らないとはいえ、なんとなく予想がつくようなことだったのだけど、それ以外の、少数とはいえ、ある意味では「地下」独特ともいえる存在にまで、著者の目は届いている。

自分がいま置かれている現状を認識できないまま、これをやっていればいつか成功するとなんの疑問ももたずに活動している人というのもいるのだ。ひどい場合はオリジナル楽曲すらないというのに。 

 それは、「地下」から「メジャー」になったアイドルが存在する、というような「夢」があるせいかもしれないし、私のように知らなければ、何となく、多数とは言わなくても、何年かに一組くらいは今も誕生しているような粗い錯覚をしていた。

 だが、著者によれば、2010年代以降、ももクロ、BiS、でんぱ組.inc 以外に、「地下」といっていい状態からメジャーアイドルになった例は現在までない、と断言しているから、この3組は本当に例外的な存在なのだと改めて知る。

 だけど、それだけ稀な例でも、存在すれば、それはもしかしたら、思った以上に「アイドル」だけではなく、「オタク」にとっても「希望」になってしまうのかもしれないが、それすらを超えて、あまりにも信じやすい人もいるようだ。

本気で現状を俯瞰で見つめることができずに信じている人もまれに存在する。志の低すぎる運営に小遣い稼ぎの手段として利用されている、いわば騙されている人であり、アイドル云々ではなく、その人の人生自体がいろいろと心配になる。

 それでも、いろいろ見てきて、知った上でも、著者自身の視点に迷いがないことを感じさせる言葉もあった。

ただ、だれに対してもいえることは、アイドルであるという状態でありたいと思って活動しているあいだはアイドルであるということである。

(「地下アイドルとのつきあいかた」より)

知られていない「接触」

「現場」を知らないと、当然のことながら、わからないことばかりだと、読む進めるたびに感じる。

 地下アイドルの魅力は、距離感の近さと地上のアイドルにはないニッチな表現のふたつである。 

 そして、「アイドルオタク」の現状についても、淡々と事実を伝えてくれる。

深い地下現場になればなるほど若者の数は少なくなるし、年々減っていっている。

 さらに、近年になって、すっかり一般常識になった「握手会」をはじめとして、一緒にインスタント写真を撮る「チェキ」と言われる行為など、アイドルとの交流が、「接触」と呼ばれている、ことも改めて知る。

 そして、その「接触」といわれるような行為が、例えば「握手会」などを「商品」として扱っているようなことも含めて、社会的には批判もされがちなことだと思うし、そうしたことが、「アイドルオタク」への偏見につながっている原因の一つのはずだ。

現実における「接触」の場では、オタクがいちばん求めているものはアイドルとの会話であり、彼女たちとコミュニケーションをとることである。

 同時に、こうしたこと↑を改めて知ると、「アイドルオタク」のことをあまり知らなければ、そのコミュニケーションがもっと密に、深くなるほど、「オタク」の需要を満たし、大勢の人が来るのではないか、といったことを思いがちだ。

 だが、この本を読み進めていくと、そんな単純でないらしい、というのは少しわかってくる。

 もちろん中には、さらに深い個人的なコミュニケーションをとることを望む「オタク」もいることも描写されているが、「オタクはより深いコミュニケーションを望むに違いない」という見方自体が偏見であることが、この本で紹介されている、ある企画の失敗によって、証明されているようにも思う。

 それは、握手会を超えて「ハグ会」が企画されたのだが、企画者の意図通りにはいかず、「アイドル」と「オタク」側の両方に戸惑いと混乱を生み、2回目以降は続かなかったらしい。

渡辺淳之介という外部からやってきた人間が、既成のアイドル界のルールを知らなかったり、無視したり、壊したりしながら進んでいったことでアイドルというものの領域が広がっていく一方で、弊害も生まれていく。

 渡辺氏は、「BiS」、今は「BiSH」のプロデューサーとしても著名な存在になったし、それこそ功績もあるのだけど、ここで著者が「弊害」として挙げているのが「ハグ会」だった。

誤解

 同様に、私自身もかなり強く思っていたのが、「アイドルオタク」には、いわゆる「ロリコン」が多いのではないか、ということだった。

 それ自体を、全てを完全に否定しているわけではないけれど、その見られ方の程度が「誤解」でもあって、その「誤解」を生んでいる構造まで紹介されていて、このことは、恥ずかしながら初めて知った。

 べつに性的嗜好が女児に向いているわけでもない人間が、まるで自分がそうであるかのように振る舞い、そういうヤバい発言をしたほうがより偉いという価値観が一部のオタクのあいだにあるのだ。「ロリコンしぐさ」とでもいえばいいのだろうか。
 こういったネット上での一部オタクの異常者ぶった発言が悪目立ちする影響で、実態以上に性的変質者がオタクに多いイメージが生まれているのだと思う。

(「地下アイドルとのつきあいかた」より)

 この「ロリコンしぐさ」自体は、全くほめられたことではないけれど、でも、こうした傾向があると知っただけで、「アイドルオタク」への見方は、少し変わるように思うし、同時に、少し古い話になるし、ややこじつけになるが、全く違う分野での問題になった発言を思い出した。

「田舎から出てきた右も左も分からない若い女の子を無垢、生娘のうちに牛丼中毒にする。男に高い飯を奢ってもらえるようになれば、絶対に(牛丼を)食べない」

(「文春オンライン」より)

 この著名なマーケティングの専門家から出た発言も、その内容のひどさは批判もされていて、それも当然だと思うのだけど、こうしたエリートが「悪ぶって」しまうことと、一部のオタクが「異常者ぶる」ことは、もしかしたら、現代の(特に)「男性」を考える上で、見逃せないような共通点であり、問題点である可能性はないだろうか。

アイドルとの離れかた

 最後の章では、「アイドルとの離れかた」もテーマとして取り上げられている。

 そして、その「離れかた」には2種類あることも知らなかった。

アイドルオタク」そのものをやめてしまうのを「オタ卒」。
「推す」アイドルを変えて、今までいた「現場」からいなくなるのが「他界」。

 そして、それはいろいろなことがきっかけになるという。スキャンダルなど裏切られたと感じたり、アイドルよりも「運営」のあり方に疑問を持ってしまったり----など、この理由もとても多く挙げられている。

同じ条件でオタ卒する人と他界する人とでは、他界を選ぶ人のほうが、オタ活での成功体験に固執しているし、そこに依存しているし、欲望に忠実なのだと思う。

 そして、ここから書籍の終盤にわたって、ある気配がだんだん濃くなってくるのが感じられた。

他界自体は悪いことではない。ただ、アイドルの気持ちを配慮する必要が絶対にある。

 そこには、いろいろな人への気持ちや、自分も含めての「人の行為」や、さまざまなことに関して、どれも軽く扱わないという「尊重」の気配があるようだった。

ひとりのアイドルを最後まで推しつづけること、ひとつのグループが終わるまで現場に通いつづけることはオタ活の理想ではあると思う。

 そして、最近ではコロナ禍によってライブが中止になった時期が長く続き、その間、「オタ卒」した人も少なくなかったようだが、そんな状況で著者も「現場」以外の「オタ活」を続けた。

しかし、このように意図的に努力してアイドルオタクであろうとするのは小賢しいことなのかもしれない。配信を多く見るわけでもなく、普段よりSNSでの活動が活発になることもなく、とくにアイドルオタクとして新しい動きを見せずに過ごし、有観客ライブ復活と同時にコロナ以前と同じ頻度で普通にライブに通いだす人のもつ凄みにはかなわないのではないかと感じる。こういう人がアイドルオタクとしての業がいちばん深いのだろう。

アイドルという存在

 さらには、最終的には、「アイドルとは何か?」ということにまで迫っているように思えた。

 例えば、見方によっては、人によっては「オタク」として理想的な状況が訪れた後、「他界」してしまったエピソードは、いろいろなことを考えさせられる出来事だと思う。

 あるアイドルオタク(女性)が、推し(女性アイドル)から「あなたしか好きでない、ほかのオタクとかどうでもいい」と接触のときに言われたことをきっかけに他界してしまったという話を聞いたことがある。 

 その他界した理由は、「アイドル」という存在に関わることだった。

 それは「そんなことを言ってしまったら、この人はもうアイドルではない」というものであった。そして、筆者もそういうふうに感じる。それはどういうことなのか。

(「地下アイドルとのつきあいかた」より)

 そこからさらに、「アイドル」や「アイドルオタク」について語られ、それによって、不可解なようで、納得もいく、人の役割と関係性といった、かなり本質的なことまで踏み込んでいるように思った。


「アイドル」や「アイドルオタク」特に「地下アイドル」に関して、ここまで俯瞰的で冷静でありながらも、同時に熱を持った「尊重」も両立しているような著書は珍しいと思えるし、もしかしたら、21世紀の現代日本にしか存在しない「地下アイドル」の歴史を記した書として、年月が経つほど、重要になってくる書籍のような気がします。



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