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「大人になったら、純粋さを失なう」というのは、本当だろうか。

 6月に終わったテレビドラマ「17才の帝国」

 ドラマ自体は、いろいろな試みがあり、映像も鮮やかな印象が強く、エンディングも格好良く、そして、主人公の17歳の「総理」のまっすぐさや純粋さのようなものも目立った。それは、古典的なことなのかもしれないが、やはり人の心をうつ。

 それは、どうしてAIが、17才の彼を「総理」に選んだのか、という理由にもつながっていきそうだし、改めて「正しさ」や「幸せ」などに関しても自然に考えていたから、いいドラマだったのだと思う。

大人になったら失うもの

 このドラマだけではなく、いろいろな場所で、昔から見聞きしている言葉が「若い頃は純粋でも、大人になっていくと、その純粋さを失っていく」だった

 このことは、大人になった今では、なんとなく、そんなものかと思ったりするけれど、これが常識どころか事実であれば「大人になりたくない」と願うのも自然だし、「大人は汚い、いらない」というような叫びがあっても、それも当然のことのように思う。

「大人になったら失うもの」という問いに対して、アンケートをとった時に、「純粋さ」という答えは「ベスト5」には必ず入ってきそうな要素なのかもしれない。

 でも、それは本当なのだろうか。

「純粋さ」の危うさ

 人のまっすぐさ、純粋さは、美しく感じるものの、それは同時に危うさも含んでいる。

 そのことは小林よしのりも、作品の中でも明確に指摘している。

 この危うさを含んでいることを「純粋まっすぐ君」と、小林はそれ以降表現するようになり、今は時としてラベリングになり過ぎている側面はあるとしても、「純粋さ」と「正しさ」がイコールではないことを思い起こさせるには、有効な言葉でもある。

 この本の中で森達也は、オウムについて感じたことは?と問われて、こう答えている。

一人ひとりが純朴で善良だということです。それは実感しましたね。 

 ここでは、純粋という表現はおそらく慎重に避けられているようだけど、その実感と、事件を起こしてしまったことは無関係ではないように思う。

「純粋さ」と達成力

 「純粋さ」というものは、周囲がどうあれ、どんな困難さがあっても、そして絶望したり自暴自棄になる時期があったとしても、信じた「何か」についてまっすぐな姿勢を失わず、その自分の信じる「正しさ」に向けて、決してあきらめず試行錯誤を続けられる力でもある、と思う。

 だから、その達成力は高いし、その姿勢は人の心に対して畏敬の念を抱かせることもあるし、信じ続ける姿そのものは美しくも見える。

 だが、結果としてオウム真理教事件も起こったし、連合赤軍の事件も、「純粋さ」が関係していたとも言われている。


 だからこそ、その信じる「何か」や「正しさ」の検討も必要になる。ただ、直感で「正しい」と思ってしまっても、それが本当に「正しい」かどうかは分からない。それに、それが時代や状況が変化しても、ずっと「正しい」かどうかも、定まったことではない、と思う。

 そんなに単純に語れるようなことでもないのだけど、それでも、いったん「正しい」「素晴らしい」と思ったことでも、その後の状況の変化によっては、「正しさ」を失うことも少なくない。それに、その「正しさ」に向けての進み方が、直線的でありすぎることで、結果的に「正しさ」を失ってしまうことさえある。

 そういった複雑さや難しさについて忘れなければ、何かを信じる「純粋さ」そのものは、おそらくは人類にとって必要なことだから、「純粋さ」に危うさがあるからと切り捨てるのも違うのではないか、とも思う。

「青臭さ」について

 「正しさ」とは何か。人が幸せに生きるとは、どういうことか。「信じる」には、価値があるのか。どうやって生きていくべきか。よりよく生きるには、どうしたらいいのか。

 大人になってから、そんなことを話すだけで、それを聞かされた相手には、口にしないまでも「青臭い」という評価がされがちで、それは決してポジティブな見られ方ではないはずだ。

 だけど、本当は、若い時だけではなく、こうしたテーマは、生きている間は、ずっと考えたり話し合ったりするのが必要なことで、このテーマが口にされたときに言われるべきことは「青臭い」ではなくて、その人が話している内容が「未熟かどうか」を検討される言葉の方が、本当は社会としては成熟していると思う。

「資本主義」だけを信じることについて

 今、日夜テーマにされていることは資本主義のことばかりで、それは、資本主義の社会で生きていくには必要なこととはいえ(分かりやすく言えば、お金のことだろう)、一つの「主義」に全てを預けるのは、リスクを分散させる原則から考えても、とても危険ではないだろうか。

 資本主義は、産業革命がきっかけとなって生まれたと言われているようなので、その歴史はまだ300年に満たないとも言える。現在の人類ホモ・サピエンスが誕生してからは約20万年らしいし、西暦という歴史の基準も2000年を超えている。

 生まれた時から資本主義の中で生きていると、それが全てで、ずっと昔から存在し、未来も永遠に続くような感覚になっているけれど(私もそうです)、だけど、まだ人類史上では、相対的には短い歴史しかないし、トマ・ピケティによって、フェアなシステムでないことが証明されたと思える現在、人類が生き残るために、資本主義を批判的に見るためには、資本主義以外のさまざまな思考ができないと無理だと思う。

「豊かさ」について

 今まで「青臭い」と言われてきたようなテーマを大人や社会が常に考えているようであれば、おそらくは「純粋さ」の持つ危うさを中和できるだろうし、明らかに社会は豊かさを持つようになると考えられる。そうなれば、資本主義の欠点なども見えやすくなり、効果的にカバーできるかもしれない。

 よりよく生きるために、どうすればいいのか。

 資本主義の価値観以外で、こうした、本当は大事なテーマも、現代では限られた場所でしか語られないため、だから、オウム真理教のような団体が再び誕生する危険性が減らないのではないだろうか。

 今は、コロナ禍のために勢いが衰えたとは思うものの、近年「哲学カフェ」のような場所が増えてきたのも、生きていくのに必要なことを、もっときちんと考えたい、そんな思いを持つ人が少なくないから、だと思う。

 だから、たとえば「正しさ」について語ることが「青臭い」として排除されてしまうとすれば、それは、まだ人類が(特に大人が)責任を果たしていない、ということではないだろうか。(もちろん他人事ではないですが)。

「純粋さ」は失われていくもの

年齢を重ねるごとに、子どものときの純粋な気持ちは薄れて、より現実的になってしまうものです。大人になってからも純粋な気持ちを持ち続けている人って、なんだか輝いていて魅力的ですよね。

 「純粋さ」は、ここで扱われている「純粋な気持ち」とほぼイコールだと感じられるが、その「純粋さ」は、子どもの時はあっても、大人になると現実の中で生きていく年月の中で、それを失っていく、という常識が、ここでも語られているような気がする。

 それで、冒頭の疑問に戻るのだけど、「純粋さ」は、子どもの時は、誰もが持っているのだけど、大人になると失っていく、というのは、本当なのだろうか。

「純粋さ」は素質

 自分の子ども時代を振り返っても、そんなに「純粋」だった気がしない。

 それは、自分だけで、他の人たちは、子供らしさがあって「純粋」だったのかもしれないけれど、でも、子どもの時は「純粋」だったというのは、かなりの部分で、いわゆる「神話」ではないだろうか、と年齢を重ねるほど思うようになってきた。

 大人になった自分は、「純粋」ではない。だけど、子どもの時は「純粋」だった。生きていく厳しさの中で、生き残るために、その「純粋さ」を失っただけだ。

 そう考えた方が、自分にはもともと「純粋さ」が少ない、もしくは欠けていたと思うよりも、おそらくは気持ちが楽になるはずだ。

 こうした内面的な問題は証明も難しいけれど、実は「純粋さ」を持つ人は、もともと限られていて、そして、その人たちは、どんなに大変さがあったとしても、さらに困難があったとしても、その「純粋さ」を失うことは少ないかもしれない。

 そんなことを思うようになったのは、例えば社会の中で対人関係の大変そうな仕事を何十年もしているのに、そして、本当に大変な時期には真っ暗な中にいたかもしれないけれど、仕事に対して初心を忘れないような気配があって、どこか透明感があって、なんだか感心するような人に、時々会う機会があったからだ。

 どうして、この人は、ずっと仕事に対して「純粋さ」を失わないのだろう。

 その時に思ったことは、それは「素質」なのではないか。もともと持っている人は、持っているし、持ってない人には、それは手に入らないものではないか。

 そんなふうに考えるようになった。

 だから、本当に「純粋」な人は、「希望」という存在にも近いので、それで魅力的なのだと思う。

「純粋さ」を持たない場合

 「17才の帝国」では、星野源の演じる政治家が、主人公の17歳に「どんな17歳でしたか」と聞かれ、その時に、おそらくは「すでに純粋さを失った存在」として振る舞っているようにも見えた。

 ただ、おそらくは、若い時に「純粋さ」と思っているものの多くは、「無垢」に近いことが多く、それは現実を知っていくことによって、失われていく。だから、それは、本当は、もともと「純粋さ」ではないと思う。

 このドラマの主人公は、幼い頃から大変な思いをしているのだけど、その経験も踏まえた上で、どんな人でも幸せになれるような世の中にしたいと思えるような、そんな本当の「純粋さ」を持つ17才として描かれているように見えた。それは、本質的な利他性にもつながっているかもしれない、とも感じられた。

 だから、そんな存在をそばで見ていた政治家(星野源が演じている)は、自分が、実は若い頃から「純粋さ」を持っていないことに気づき、それでも、どうやって、ほんの少しでも「正しい」政治ができるのか、といった方向へ、覚悟を持って進んだようにも感じた。(それを「忘れないための行為としての靴磨き」のように見えるが、視聴者としてそう思いたいだけかもしれない)。

 この星野源の演じた政治家のやり方は、私のような元々の「純粋さ」を持たない人間にも、学べることのように感じたし、それだけに本当の「純粋さ」を持つような人物は希少な存在だから、そうした嘘のつけない人が、もっと大切にされるような社会にしていくために努力することも、とても微力だけど、「純粋さ」という素質に恵まれない人間に出来ることのようにも思う。




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