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「頭が良さそうに見せること」は、ほぼ100%「失敗」するような気がする。

 誰でも自分のことは「まとも」だと思っているし、少なくとも「ばか」だとは思っていない。もちろん、私自身も例外ではない。

 クルマに同乗させてもらった時に、どれだけ運転が粗い、と思ったとしても、その運転する本人が、自分が「運転が下手だ」と思っていることは稀で、なぜか「運転がうまい」と思っている人が、体感的には9割を超えているような気がする。

 それは、ある意味では健全なことで、自分を否定してしまっては、とても生きづらくなる。

「頭が良さそうに見せたい」と思わなかった

 これまで「頭が良さそうに見せたい」と思うことはほとんどなかった。

 会話の中で「知らない」というと流れを止めそうだから、「知ったふり」をすることはあっても、(それも厳密に言えば、「頭が良さそうに見せたい」かもしれないが)、生きてきて、「頭が良さそうに見せる」努力をした記憶がない。

 それは、冒頭の「自分は運転がうまい」と思っているドライバーのように、生きていくために、無意識のうちに自分に対して甘い評価をしている可能性も高いが、客観的には小学校に入った瞬間に、知能テストがあって(そんな時代がありました)、はかばかしくない評価もされているから、自分は人より劣っている意識はあったものの、だからなのか、頭が良さそうに見せたい気持ちが少なかった。

 どうせそんなに頭がいいわけではないし。

 小さい頃に植えつけられた暗い確信が、ずっと気持ちの中にある。それは、自尊心を守るための戦略だった可能性もあるけれど。

SNSでの言葉

 この本で、今も「頭をよく見せたい」が健在なことを知った。

 この書籍では、「意見」と「反応」を分けた上で、「意見」には価値があって、「反応」には価値がないとしながら、SNS上での「反応」について、こう書いている。

「ちょっとかっこよく見えるけど、なにも考えなくても発することのできる反応フレーズ」は非常に好まれます。 
「そう?そうとも言えないと思うけど」
「それって、現実がよくわかってないと思うよ」

 この「かっこよく」というのは、もちろん見た目というのではなく、「頭が良く見える」ということだと思うのだけど、好まれているということは、今も「頭が良く見せたい」というのは健在のようだ。

高学歴の会話

 東大生が起こした性暴力の事件をもとにした小説で、もちろんフィクションでもあるのだけど、この中での「東大生」の会話はかなり印象に強い。
 
 友人同士でもあるのだろうけど、いかに頭をよく見せるか、というよりは、頭が悪いと思われないように、といったことに神経を張り巡らしたような言葉を発しあっていて、それは、とてもしんどいことだとは思うのだけど、これは、プライドというこの小説のテーマの一つにも通じるので、とてもリアリティがあるし、ある意味では本当だと思う。

 ここでは「東大生」なのに、というか「東大生」だから、「頭が悪く思われたくない」という気持ちが強くなることが表現されていて、これはフィクションなのだけど、こんな光景は少なくないと思えるのは、何かを語るときに、まずは「自分が頭がよく見えるかどうか」にこだわるような人を、見てきた記憶があるからだと思う。

なめられちゃいけない

 学生の頃、なめられちゃいけない、と連発するのは、いわゆる不良と言われる人だった。

 それは、プライドの問題もあるだろうし、そこで力関係も決まってしまうだろうし、秩序維持のためには必要だとも思えた。

 その「なめられちゃいけない」のは、「弱く見えてはいけない」のようだし、確かにそれは大げさに言えば命に関わってくるようなことだから、自然な言葉にも感じた。

 ただ、「なめられちゃいけない」という態度は、その辺りの気配に本当に敏感であれば、最も「なめられる」ことにつながりそうだと思っていたが、そんなことは、怖くて指摘はできなかった。

 だけど、学校を卒業して、働くようになった頃に聞いた「なめられちゃいけない」は、少しニュアンスが違っていたし、その言葉を発する人たちも、いわゆる「ビジネスパーソン」だった。

 大学を卒業してから、私も会社に勤めていたけれど、3年で2カ所で働いて、辞めてフリーライターになっていた。私自身は、特に取材相手には「なめられる」ことが気にならなかった。もちろん反射的に、嫌な気持ちにはなるけれど、私の目的は、相手を取材して書くことだったから、人を「なめる」ような場面には、それがすべてではないにしても、「その人」が現れるから、取材の一環としては、危害を加えられることでなければ、「おいしい」瞬間でもあった。

 ただ、組織で働く人たちにとっての「なめられちゃいけない」は、もっと切実なことのようだった。働いていく中で「なめられた」ら、自分が望むように働けないし、職場での不快感は増すし、それこそ昇給などにも関わってくるようだし(この辺りは、実感としてよく分かっていないと思います。すみません)、それは、重要なことだったように見えた。

 そして、その「なめられちゃいけない」の内容は、「バカに見られてはいけない」だったようなので、それで、「頭が良さそうに見せたい」という願望をくすぐるような書籍や見出しが、実は社会の中に、けっこう多いことに納得がいった。

 私自身は賢いわけではなく、頭が良かったらいいのに、と思うことはあっても、「頭が良さそうに見せたい」と思わなかったのは、「なめられちゃいけない」という態度が、最も「なめられる」可能性があるように、「頭が良さそうに見せたい」という態度が、最もバカにされると思っていたからだった。

 それに、自分の能力を考えたら不遜なことでもあるのだし、だから人に向かって、あまり言えなかったけれど、「頭が良さそうに見せる」ための努力や工夫をしているのだったら、本当に頭が良くなるために学んだほうが早いのに、と思っていた。

頭がいい人たち

 幼稚園で、ひらがなの「ふ」の書き方を教えてもらった時に、それを知っている男の子は、頭がいいんだ、と思った。

 小学校に入って、知能テストを受けているときに、隣の同じ歳の子が、たくさんあるどんぐりの絵を数えるとき、「10個ずつ」鉛筆で囲っているときに、自分には、絶対にこういう発想が出てこないと感じた。

 中学の数学の時間、図形の証明の問題を、黒板の前に出て行って何事もないように「補助線」を引いた同級生を見て、自分には無理だと思えた。

 高校の時、文化祭で風車を作る時に、ノートを何ページも使って、風力を最大に活かせる数式を、どこか楽しそうに並べ続けるクラスメートを見て、頭の良し悪しは生まれつきのものなのだろうと感じた。

 学校を卒業し、マスコミに入り、スポーツの現場で働くようになると、プロの身体にまつわる言葉の正確さに驚くことがあり、戦略的な種目では、その繊細で大胆な頭脳の働きに、別世界の人間のように思えることもあった。

 結局、直接、姿を見かけることもなかったけれど、橋本治の人生相談を読んだときは、圧倒的に質の違う頭の良さを持っている人が実在するのを知った。

 「ゲンロンカフェ」のトークで、東浩紀を見たときは、相手の話を的確に要約し、そこに自分の見方を付け加え、さらに話を展開させていて、そのスピードも含めて、とても頭が良くて、それは圧倒的に足が速い人間を見るような爽快感さえあった。


 特に大人になってから出会うような「頭がいい人たち」は、「頭を良く見せるための努力や工夫」していないように見えた。それ自体が無駄なことで、それよりも、目の前の「考えるべきこと」や「解決すべき課題」に対して、頭を使うことが優先されているから、それによって、より頭の良さが発揮されているような印象があった。

 そういう人たちを知ると、よけいに「頭が良く見せる」ことは、無意味ではないか、という気持ちになりがちだった。

誰に対して「頭がよく見せたい」のだろうか。

 「頭がよく見せる」ことをしても、それがどの程度本当に頭がいいのか、それについて、本当に頭がいい人には、わかってしまうと思う。そして、そのことで、場合によっては軽蔑される可能性もある。

 また、その「頭を良く見せたい」行為が通用するような場所があったとしても、それは、本人にとっては、好ましかったり、望んでいるような場所ではないような気がする。

 だから、「頭を良く見せる」ような言動や行為は、ほぼ100%失敗するのではないだろうか。

 それでも、その「頭をよく見せる」ことをやめられないとすれば、それは、「馬鹿にされた」ことがあり、それがとても嫌なことであり、それを避けたくて、不安に迫られるように、おこなっていることかもしれない。

 だから、その行為や言動に対して、軽く見るようなことや、そのこと自体を馬鹿にするようなこともできないのだけど、でも、よく考えたら、報われない努力に近いと気づいたら、やっぱりやめた方がいいのだと思う。

 それよりも、本当に頭がよくなってしまえばいいのだと思う。

勉強すること

 とても個人的なことに過ぎないけれど、中年になってから、仕事も辞めて、介護だけをしている時に、何もない自分に怖くなり、自己満足に過ぎず、効率的ではないのだけど、少しでも真っ当になろうと思い、それまで習慣になっていなかった読書を始めた。

 それは、どうしたらいいか分からず、これまでやっていなかったことをしようと思っただけで、ただ本を読み続けた。


(この本↓には、勉強する時に、とても有効だと思います)。

 とにかく独学で始めたし、興味を持てたと思った本を読み続けてきただけで、途中で学校に通ったことも大きかったけれども、やっぱり「本を読むこと」の影響は強くて、20歳の頃の自分よりも、かなり年齢は重ねたけれど、今の方が確実に「頭が良くなっている」と思う。「頭の良さ」のことを詳しく書こうとすると、さらにややこしくなるのだけど、とりあえずは「考える力」が伸びた、と思う。

 とは言っても、自分の20歳の頃の「頭の良さ」がかなりレベルの低いことは分かっているので、あくまでも、自分史上での「頭の良さ」が今の方が高い、ということになる。

今、学んだ方が有利な理由

 それでも、同じように本を読むのでも、当然だけど、さまざまな学問の情報や知識や知見は、今の方が20年前よりも更新されていて、個人的には、昔の知識がない分だけ、今の情報や知見が頭に入りやすいという利点はあったと思う。

 それに「頭の良さ」の一つの基準として「記憶力の良さ」が挙げられていた時代も長かったが、今は検索すれば、多くのことが分かるため、以前よりも、記憶力偏重の気配が薄れているような気がする。それは、元々の記憶力に自信がない人間にとっては、気が楽になる。

 さらには、若い時に記憶力に自信があるほど、年齢による衰えがショックとなって、「学習の意欲」の減退になる可能性もありそうだが、個人的には、元々の記憶力が弱く、年齢による衰えを相対的にはそれほど感じないため、ショックが少なく、その分、頭脳の働き方にマイナスになっていないようにも思う。

 誰もが言うのだろうけど、知っていることが増えるほど、知らないことがあまりにも多いことが分かってきて、だから、知識が増えた実感はないものの、新しいことを知って、今までとは違う視点が持てたり、知ることで不安の解像度が上がったりもする。

 だから、若い時に勉強しなかった人間が言うと、説得力がないのは自覚しているけれど、やっぱり、勉強した方がいいと思う。

 勉強した分、おそらくは「頭が良くなる」はずだ。


(森高千里が、30年以上前に、勉強はした方がいい、と歌っていた↓けれど、その頃は、愚かなので、それが本当のことだと気づかなかった)。





(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




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