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『「冷たい社会」という前提』……駅員にかけられた言葉から考える③

 「駅員にかけられた言葉から考える」を2回にわたって、書いてきた。

 今の時代で、このようなことを書くと、「エッセンシャルワーカー」である駅員に負担をかける、「クレーマー」で、「車イス利用者本人」ですらない「偽弱者」の「介助者の言葉」に過ぎないと、非難をされてもおかしくない。

「聞き流される」屈辱

 ただ、「駅員」に対して、何かしらを言い続ける、という繰り返しをして分かるのは、まともに相手をされない時のなんとも言えない屈辱感だった。

 相手は忙しいかもしれない。疲れている可能性もある。だけど、例えば、こういう時に、「何か文句に近いことを言ってきた人に対しては、聞き流せばいい」という常識があるが、それをされた側にとっては、敬語はちゃんとしていても、「聞き流される」時は、ほぼ分かると思う。

 まず内容を聞いてから、「聞き流す」かどうか判断してくれればいいのに、こちらが、何かしらの「普段とは違うこと」を言い出した瞬間に「聞き流す」もしくは「話したことに影響されない」さらには「話は聞くけど、理解はしない」姿勢になってしまったら、それだけで、自然と嫌な気持ちになるのは、自分の存在を無視されることにかなり近いからだと思う。

 不思議なことに、そうした会話を、側で聞いている人には、分かりにくいが(私が鈍いだけかもしれない)、直接、相手をしている人には、かなり高い確率で、その姿勢は伝わる。

 だから、そばで見ていて、この人は何を怒っているのだろう?という場合には、もちろん全てではないものの、最初から「聞き流す」もしくは「影響されない」といった姿勢が生んでいる可能性はないだろうか。

 下手をすれば、「相手を怒らせないための聞き流し」の方向へ洗練されていく気がしていて、だけど、それは、実は聞き手にも「消耗」を生む気がしている。

 もちろん、理不尽なことに対して、何かを伝えたとしても、全体のシステムが変わっていくことは、ほぼないのも分かっている。だからこそ、目の前にいる人に、少しでも「理解」して欲しくて、例えば、駅員に対して、改札のことを話してきた。

 こういう姿勢がウザいのもどこかで分かるのだけど、だけど、もし、少なくとも「理解しよう」とする相手がいたら、もっと気持ちが穏やかだったと思うし、感謝する思いになったと思う。

 全体は変わらないかもしれない。
 だけど、少なくとも目の前で何かを伝えようとしている相手がいる場合は、少なくとも、最初は「理解しよう」とするべきではないだろうか。それが、相手を尊重していることにならないだろうか。

 だから、どこまで出来ているかは自信がないが、自分自身も、何かを言われた時は、少なくとも最初は、できるだけ「理解」しようとはしている。たまたま、恵まれているだけかもしれないが、それで「疲労」はするかもしれないけれど「消耗」することは少ないような気がする。

理解しようとする姿勢

 今回の駅での出来事とは直接関係ないが、介護をしている年月の中で、介護保険というシステムが「変更」され、その度に「理不尽」な変化だと思い、無駄な努力だと思いながらも、なるべく行政にも、その「おかしさ」を訴えようとした。

 直接、厚生労働省に対して、何を伝える機会はなかったので、目の前の行政関係者には、「理解」はしてもらおうとしてきて、機会があれば、伝えようとした。それは、「行政」の方にもとっても、事務手続きが増えるなどの「理不尽」なことが減ると思うので、言ってきた部分がある。

 それは、筋が通っていたとしても、「何かを言われること」自体が、ウザいことだと思う。それでも、その場で「理解しよう」としてくれようとする人がごく稀にいて、それで、全体が変わらないのは分かったとしても、その時は、ありがたかった。

 だから、自分も、少しでも「理解しよう」いう姿勢は取るようにしようと思うようになった。

 「聞き流す」よりも「理解しよう」という姿勢が常識だったら、私も、改札のことで、そんなに消耗しないで済んだと思う。

 「聞き流して」も、もしくは「理解しよう」としても、どちらのコミュニケーションであっても、かかる時間は変わらないのだけど、こういう要求自体が、無理なことを言っているのだろうか。

「もっと穏やかに言えないのだろうか」という批判 

 私が「駅員」とした、ささやかなやり取りでさえ、「もっと穏やかな言い方でないと届かない」という非難がされるかもしれない。

 だけど、やはり、そうした非難をする人は、「声を大きくしないと聞いてくれない」という経験をしていなかったり、元々、「何かを要求しなくても、平穏に生活ができる」という「恵まれた人」である可能性が高いと思うようになった。

 駅にエレベーターがついたのは〝自然の流れ〟でそうなったわけでも、鉄道会社や行政の〝思いやり〟でできたわけでもありません。
 30年以上にわたる障害者の絶えざる要求と運動によって、ようやく実現しました。

 その過程には、「穏健な常識人」(©︎橋本治)であれば、まゆをひそめるような「激しい」運動もあったはずだけど、黙っていては、おそらく何も変わらなかったのだろう。

 公的介護保障制度には、地方自治体によって大きな地域間の格差があります。なぜかというと、自治体の財政状況や、福祉に対する理解度によって大きく異なるのに加えて、その地域に住む障害者たちが、自ら声を上げて、行政と粘り強い交渉を行っている地域ほど制度が充実し、そうでない地域は遅れるという現実があるからです。  

 私も、「駅員」へ何かを言うことを繰り返してきた。それは、本当にささやかすぎることでもあるのだけど、冷静に穏やかに言い続けた時は、「分かりました」と、ただ聞き流されていたのは分かった。

 その繰り返しで消耗し、つい怒りという感情が、少しだけど、こもってしまった時だけ、「車イスだけが通るわけじゃない」という、相手の感情が乗った言葉が返ってきた。

 皮肉なものだけど、ただ穏やかなだけでは、人の反応さえ得られにくいことは、改めて肌で感じた。

 無意味で愚かもしれないけれど、なるべく思ったことは伝えようとするし、繰り返しになるが、人に話しかけれたら、基本的には「理解しよう」という姿勢をできる限り続けようと、今でも思っている。


(このドラマの第8話↓も、こうしたテーマを扱っていて、説得力を感じた)


手を差し伸べる人々

 今の社会は、とても忙しい。
 だから、たとえば、私がおこなったような「意見を伝える」といったことは、ただの迷惑に過ぎない、と言われる可能性もある。

 また、誰かを手助けするということに関しても、本来は、優しくても、余裕のない生活が続くと、それが出来なくなる。だから、現代は、環境が厳しいから、誰かを助けられなくても仕方がない。

 そうしたことはよく聞くし、私もどこかでそう思っている部分はあるのだけど、この20年ほど、自分が介護を始め、続け、まだ力不足であるけれど支援者にもなり、様々な「介護者」の方の事情を知ることも多くなり、そのことで、余裕がないから優しく出来ない、というのは、本当なのだろうか、と思うようになった。

 もちろん、具体的な事情は書けないとしても、家族介護者でもそうだし、プロの介護者でも、そんなに大変なのに、他の人のことまで自然に気づかえるんだ、というような驚きとともに思う機会は少なくなく、限られた経験であっても、普段生活している時に、様々な場所で、少数だとしても、自然に手を差し伸べられる人がいることを感じる。

 思想家のJ・ J・ルソーが、「困っている人がいたら、考える前に、手を差し伸べる人がいる。そういう人たちがいてこそ、人間は社会を作ることが出来ている」といったことを主張していることを、この本↓で知ってから、それは「介護をする人の本質の一つ」ではないかと思うようになった。(残念ながら、自分には、この要素が少ない自覚はある)。

「エコノミック・アニマル」の意味

 「おもてなし」という言葉がオリンピック誘致に使われて、個人的には、それ自体に抵抗感があったものの、日本の国民性を考えるときに、たとえば、昭和30年代を表現する映画などでは、「人情に厚い」「人に優しい」と描かれることもあるから、自分たちの国民性のことを「優しい」と考えている人が、今も一定数いるような気はしている。

 ただ、その時代とほぼ変わらない頃、高度経済成長と言われるような時代に、海外での日本人は「エコノミック・アニマル」と表現されることもあったと聞く。

 それは、今になって考えれば、経済発展にガムシャラに頑張る、というだけでなく、ネガティブな意味合いの時に使われる「アニマル」という表現は、人間としてのいいところを見出せないも、含んでいるはずで、人として「冷たい」という見られ方もされていた可能性はないだろうか。

 それは日本人の「身内以外」に見せるような態度への非難もあったのだと思う。

 私自身は、自分のことを、基本的には「冷たい」と思っているので、大人と言われる年齢になってからは、人に対して「冷たい」対応をしないように気を付けている部分はある。同時に、長く生きているほど、日本社会が「あたたかい」とはあまり思えなくなっている。

 たとえば、社会心理学者の山岸俊男氏は、それまでの日本人の自己イメージとは違って、集団主義ではなく、個人主義であることを、データや実験によって明らかにしていて、それを知った時には、それまで曖昧に感じていたことが明らかになったような気がした。

「冷たい社会」という前提

 先日の「車イスでの乗車に関する論争」の中で、個人的には、最も納得のいく視点を提示してくれたのが、社会学者の西田亮介氏だった。

 駅員だけではなく、周囲の人に助けてもらえばいいとの意見も聞きます。しかし、これを論じるときに思うのが、日本社会というのは本当に冷たいということです。
 子どもが生まれてからベビーカーを押すことが増えましたが、ベビーカーや車いす優先のエレベーターで、特に問題なさそうな人たちの割り込みを頻繁に見たり、しょっちゅう舌打ちなどを受けるにあたって、つくづく日本の社会は本当に冷たいなと感じるようになりました。

 自分が感じていたことを代弁してくれるような気もして、やはりそうだったのかと思う。ただ、このようにベビーカーを押したり、車イスの介助をしたりするような「マイノリティ」になると、途端に「冷たさ」を実感するところが、この日本社会の「冷たさ」が、実は本質的なものの一つだと思い知らされる。

 そして、「人があたたかい」という前提があれば、人が助けてくれる、ということも制度に組み込めるが、「冷たい」のが現実であれば、それは期待できない。

 だから、制度を作って、ある程度義務付ける方が、「冷たい社会」にフィットする、という言い方になっているが、とても同意できる話だった。

 人々の助け合いによって移動を可能にさせるというやりかたは、日本にはなじみません。実際、ネットとはいえ、当事者に追加負担を強く求める社会で、移動における助けを期待できるとは思えないですよね。
 その点、冷たい社会に、バリアフリー法の考え方はとてもフィットするものです。
 助け合いが望めない、しかも少子高齢化が進む冷たい日本にフィットしたバリアフリー新法的な世界観は、障害の有無にかかわらず実は多くの人の利益にかなっているとも思います。
 年を取ったり、病気や怪我、家族形態の変化があっても、ハード・ソフトの環境整備を制度が強くもとめることで、事業者含め環境整備が進むなら、それは好ましい変化でしょう。

 こう考えることができれば、何か困ったことがあっても、目の前の人が「理解」しようとしてくれるかもしれない、というのが間違った認識だと思える。

 基本的には「冷たい社会」であるのだから、個人的な「優しさ」にはまず期待できなくて、制度によって、義務付けられて、初めてソフトな部分である「対応」が変わってくる、と思えれば、私も、あんなに消耗することもなかったと思う。

 あとは、その制度の中に、本当に「人々の声」を聞いて「理解」しようとし、「改善」に向けて最大限、努力するようなシステムを作ること。

 そのシステムができれば、たとえば駅であれば、個々の駅員に働きかけることは最初から諦め、そのシステムに従って、声を届けようとすればいい

 そう割り切れれば、随分と気が楽になるのに、と思う。

 そこまで考えが進むと、私自身は、これまで、人の善意に期待してしまってきた、おそらく、とても見立ての甘い人間なのだとも思った。



(この本↑の中では、いい状況を作るためには、さらに「損得」も用いるべきだとも語られている)。




(他にもいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。


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