『21世紀の「大人」を考える』⑤『21世紀の「まともな大人」の基準を考える」。(後編)
21世紀での「まともな大人の基準」を(前編)、(中編)と考え始めたら、長くなってしまいました。人によっては読みにくい内容で申し訳ないのですが、個人的に、どうして「まともな大人」のことを考え始めたり、少しでも「まともになりたい」と思い始めたのか?を書いた方がフェアだと思い、書くことにしました。すみませんが、もし、よかったら、少し重い内容ですが、もう少し読んでもらえると、ありがたいです。
気遣う言葉
約20年前、母親が閉鎖病棟に入院することになり、希望もないが、ただ通う日々が、何週間か続いていた。
閉鎖病棟に入る段取りにも慣れてきた。
入り口でインターフォンを押し、重い扉を開けてもらうと、あとは、母親の個室に行くだけだけど、それから、病棟内の食堂に行ったり、移動したりも、自由だったから、ずいぶんと管理がゆるいのかもしれないけれど、こちらを信頼してくれてもいるようで、ありがたかった。
母親を連れて、病棟内の食堂に行った。
食事時でないと、人はあまりいなくて、そこから窓越しに外も見えるし、少しは気分転換にもなるかと思って、一緒に座っていた。
そこに、何人かの患者さんがやってきた。
最初は、警戒されているせいか、まったく目を合わせようともしてくれなかったけど、何週間も通っていたから、なんとなく顔見知りにはなっていたようだった。
その中の一人の男性に、急に話しかけられた。
「ヘルパーさんですか?」
「いいえ、違います」。
ものすごくまっすぐに見てきて、妙なたとえだけど、気持ちの両肩を押さえられているような感じになった。
「体も大きいし、毎日きているから、新しいヘルパーさんかと思いました」
「違います。この人の息子です。家族です」。
「あ、そうなんですか」
そこから、急に話題は変わった。
「じゃあ、仕事大丈夫なんですか」
「え、どうして、ですか」
「だって、毎日来ているから、大丈夫かなって」。
ただ、まっすぐに気持ちが来た。
母の症状が悪化して、病院にやっと連れて行き、毎日のように母をみていて、必死に転院をして、そこでも安心することもなく、心から信頼することもなかった。ただ機械のように動いていた。
そんな日々だったのだけど、その「大丈夫かなって」という言葉と気持ちが届いたのは分かった。心のずっと奥のほうで、何かが割れて、漏れ出すような感触があったのだけど、その時は、なんだか分からなかった。
あとで、考えたら、それはうれしかったのだと思う。
心の奥で泣いていたのかもしれない。
ここに入院しているのだから、勝手に判断してはいけないのだけど、本人にもいろいろとあるはずなのに、見も知らない私のような人間を、素直に心配してくれた。
そんなふうに、心配されたのは、ここ何ヶ月かで初めてだった。
家族が病気になっているのに、医療関係者には、迷惑なんです、と責められることが多く、心が硬くなりすぎて、とっさに、自分の気持ちに気づくことができなかった。
そのあと少し会話をした。その心配にお礼を言って、自分が、今のところは、大丈夫な理由も伝えた。
異常値の意味すること
それから、また何日かがたって、母はカゼをひいた。私自身が知らないうちにかかって、扁桃腺がはれるほどだったのに、その痛みにも気づかず、うつしてしまったようだった。数日間、私はカゼで病院に行かなかった。
その時に、念の為、病院で血液検査をしたらしい。カゼが治り、次に病院に行った時に、血中アンモニア濃度が400を超えていることを、驚きとともに、私にも伝えられた。それは肝臓の異常によって引き起こされる状況で、内科の治療の範囲のことらしい。
それが、何を意味するのか分かったのは、もう少しあとの事だった。
その状況は異常であり、その値が100を超えたら、意識を失うはずだと言われた。そうならずに、暴れるような動きを見せていたのは、長くかかって、少しずつ値があがったせいかもしれない、とも言われたが、まだピンとこなかった。
刻まれた怒りと不信感
それから、その異常値を下げるための「モニラック」という薬を飲み始めてから、2週間くらいたった頃だった。今日も病院に行って、また濡れた服の入ったビニール袋がないといいな、と思っていたら、不可逆です、と険しい顔で断言した医師と、閉鎖病棟に入ってからすれ違って、今日は調子いいですよ、と言われた。
あんなに意志の疎通ができなかったのに、と期待をしないで、病室に着いたら、明らかに表情が違っていた。母と、また、普通に会話ができる日が来るなんて、思っていなかった。
そこへ、肝臓の薬を否定し、今の状態は不可逆です、と繰り返した医師がやってきた。片手を差し出して、握手を求められ、「よかったですね」と笑顔で言っただけだった。
あの時、肝臓の薬のことを無駄と言い、不可逆と断言し、家族の言うことを苛立つように否定し続けていた。母の回復によって、その医師の見立てが違っていた可能性もあるのを、あの時の険しい空気感とともに、私は忘れられなかった。医師は、そのことについては一言も触れなかった。
その後、退院し、結局は1年後に、また母の症状は悪くなってしまい、その時に、自分も心臓発作を起こしてしまうのだけど、その間にも、最初の病院は、血液検査をすればすぐに分かったことを見落としていた事実を認めなかった。そのことで、母の症状はとんでもなく悪くなり、その時の行動を迷惑です、なんとかしてくださいと責められた。そして、その日々の中で、親と思う気持ちを一度、完全に断ち切ることで、やっとみてこれたし、その時の気持ちは元に戻らなかったけど、そうした一連の事について、聞いても、最初の病院は、判断の間違いを認めることもなかった。
深い怒りと不信感は、大げさでなく、体に刻まれてしまったようだった。
それでも、やさしさにふれたこと
医療関係者への強い不信感と怒り。
自分も心臓発作によって、死にそうになったことによる恐怖感と、ずっと薬を飲み続けなくてはいけない拘束感(これも医療関係者に追い込まれた事と無縁ではなかった)。
それだけで、気持ちは止まり、おおげさにいえば、闇の中にいた、と思う。
こうした様々なことで、一度は、完全に自分のこれからをあきらめて、ただ介護を続けた。結局は、介護は19年間続くのだけど、さらに仕事も辞めざるを得なくなったなかで、ほとんど人生をあきらめていた時に、ふと、なんにもない人間だけど、「せめて、ほんの少しでもまともになりたい」と思った。
怒りや不信感や恐怖が強く気持ちの動きが極端に少ない日々の中で、本当に底まで落ちないでいられたのは、こじつけに思われるかもしれないけれど、閉鎖病棟の中で、患者さんに心配されて、あの時だけでも、やさしさに触れたことで、実は、思ったよりも、気持ちが支えられていたのかもしれない。
少しでも「まとも」になるために
義母(妻のお母さん)の介護も必要になってきて、母親に、今度は高齢者向けの病院に入院してもらい、そこに通って、帰ってきてから、自宅で妻と一緒に、義母の介護をする生活が続いた。
母の病院には片道約2時間。その間に電車に乗る時間が長く、通っていた時間帯と方向のため、座れることが多かったので、少しでもまともになろうと思った時、なぜか、本を読もうと思った。
それまで読書の習慣はほとんどなかった。
それに、仕事もしていなくて、お金もない。体調もよくなくて、時々、電車の中で、めまいがすることもあった。
図書館で本を借りてきた。最初は、棚を見て、興味がありそうな本を借りて、読んでいた。
ただ、自分の興味の外へ出るのは難しいと思っていた。
そんな頃、当時は、寡作といわれていた高橋源一郎氏が、文芸評論を書いている本をたまたま借りた。
たぶん、この本を読んでから、本の選び方が変わったと思う。
この本に書かれている様々な作品について、すごく興味が持てた。自分が知らないことがほとんどだったけど、それでも、調べて、図書館で借りて、病院の行き帰りに読み始めた。
そして、その本の中で、紹介されている本を、全く知らなくても、さらに調べて、読むようになり、少しずつ視野が広くなっていったかもしれない。
それで、まともになったかどうかは分からないけれど、読書の習慣はついてきた。
読む量も増えたし、幅も広くなった。そうなると、ラジオなどで紹介された本も読むようになり、さらにいろいろと読むようになった。
ただ、それは、本当に読書をしてきた人から見たら、中年から急に読むようになったとしても、たいしたことはないのも分かっていたが、それでも、読み続けた。
まともに近づいたかどうかも、分からないままだった。
ただ、その後、哲学カフェにも行くようになり、その場所も楽しめるようになったのは、主宰者の力が大きいけれど、読書習慣のおかげもあったように思う。
人との関係に気を配る事
介護を始めて人と会う機会がすごく減った。
尋ねられて、介護のことを伝えると、介護者としては30代だとまだ若いので、自分が介護経験者でなくても、年上ということで、いろいろと教えてくれる人も少なくなかった。ただ、それは善意だったのだけど、微妙に苦痛なことも多かった。
だから、人と会わなくなった。会いたくなくなった。
ただ、病院に通い、電車内で本を読み、帰ってきてから、妻と一緒に介護をしていた。
それでも、介護を始めて3年がたつ頃、当時はあったホームヘルパー2級(訪問介護員)の資格を取るために、地元の社会福祉協議会の主催する講座に何度目かの申し込みで当選し、介護の合間に通うようになった。
最初は、身をすくめるように、ただ講座に出て、つまらない時は窓の外をながめ飛行機の小さい姿を見て、ノートに講師の似顔絵を描き、それでも、ここで学んだことは、家族の介護に役立つのではないか、と思いながら、黙々と通っていた。
冬に講義は始まった。古い鉄筋コンクリートの教室で、石油ストーブのそばは暑く、遠くは寒いというような環境だった。ストーブに近い席だったために、講義が終わってから、そのストーブに石油を入れることが少なくなかった。教室は、ほぼ女性。それも私よりも年上の方ばかりだった。
ある日、帰り際に、石油を入れてる時に、おにいさん、と大きい声で呼ばれた。
もう、若くないのに、そう呼んだのは、同じ教室にいる女性で、年上の人だったけど、そうやって声をかけてくれたおかげで、話す機会が増えて、そのうちに、席の近くの方々とも、お菓子を交換するようにもなった。
教室にいるほとんどの人が、資格をとったら、すぐに仕事にしようとしている中で、家族の介護をしていて、そのために資格をとろうとしている人間は少数派で、そのことに微妙に後ろめたさを感じることもあった。だけど、周囲の人達は、そういうことをあまり気にしないで、同じ介護を学ぶ人間として接してくれて、ありがたかった。
その人達との交流は、その資格をとってからも、10年以上も、連絡をくれて、今も交流が続いている、と思っている。
それは、とてもありがたい事だし、そうした方々と接していると、ちゃんとしないと、という気持ちになれた。
病院でのボランティア
母親が転院し、そこに通い始めて、2年くらいたったころ、たぶんヘルパーの養成講座に通っていたのと、同時期に、その病院でささやかなボランティアを始めた。
毎月、病院の中で、誕生日会があって、その時に、入院患者さんに誕生日カードを渡す。母親も、その患者さんの一人だったけれど、その誕生日カードを月に1度作る会があって、そのボランティアを勧められた。
これまでの経緯があって、医療機関というものへの信頼感が持てなかったのが、年月を重ねるうちに、母は快適そうに過ごしているし、ここの病院のスタッフの方々が、家族にも丁寧に接してくれるのが分かるようになったので、この病院に少しでも恩返しができれば、という気持ちになっていた。
あとは、何かしたほうが、病院を追い出される確率が減るのでは、という悲しくなるような打算的な思いもあったのは、まだ医療というものが完全に信じられなかったこともあるし、医療制度に関わる法律が頻繁に変わることを、知るようになったせいもある。
さらに、長く入院している患者さんも多く、毎年もらう誕生日カードを壁にはってあって、それが何枚も並んでいるから、毎年デザインが違って、少しでも目で楽しめるものになれば、という気持ちもあった。
そのボランティアを始めてみたら、一緒にカードを作っている方々は、私と同じように、この病院に家族が入院しているご家族ばかりだった。最初はぎこちなく、だけど、そのうちに、同じような立場のせいか、いろいろと話すようになった。
辛い時も、そこにいる人達は、優しく接してくれて、そこでかなり支えられていたし、自分などよりも、もっと辛そうなことを、さりげなくしている人達が多く、そこには「まともな大人」がいたので、自分が大変だったと思い込んでいることも、なんとなく恥ずかしくなった。
それでも、そうした人達との交流があって、他の機会に病院で会う時も話すようになったし、知らないうちにいろいろな影響を受けていたと思う。
こういう人達のように、少しはまともにならないと、と、どこかで思っていたのかもしれない。
21世紀のまともな大人の基準
病棟で素直に心配してくれた患者さんや、本の中の人や、ヘルパーの同期のひとたちや、ボランティアで一緒だった方々など、自分がいったんは未来をあきらめてから、会った人達のことを思い出すと、そういう人達と比べて、自分がどこまで「まともな大人」になったのかは、分からない。だけど、会わなかったら、「少しでもまともな大人」になろうとは思わなかったような気がする。
本当だったら、まともな大人について、偉そうに書くような資格もないし、すぐサボったり、ダラダラしたり、横になったりしてしまうが、それでも、なんとか、完全にあきらめることもなく、かなりの年齢になっても「まともな大人」に近づこうとしているのは、やはり、言葉にすると恥ずかしいが、「やさしさのある人達」に会えたからだと、改めて思う。
そして、必要な時に、誰にでも、適切に優しくなれるのは、やっぱり21世紀でも「まともな大人」の頂点ではないか、という平凡な結論も、ここまで書いても変わらなかった。
長く、あいまいで、ややこしさもあって、時として重い話を最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。ここから、さらに考えを広げたり、深めたりしてもらえたら、とてもうれしく思います。不明点や疑問点やご意見などありましたら、コメントをしていただけたら、さらに有り難く思います。
(もし、このシリーズの最初の記事をご存知でない場合、よろしかったら、読んでいただければ、ありがたいです)。
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