”家事”という永遠のテーマに向き合う

今日は仕事もミスの連発。
ぼんやりとアレコレ考えても答えが出ない一日。

ぼんやりし目眩がするから物理的な原因は低血圧だ。頭にいく血が足りないのか、いつもより動作も鈍い。そんな日は丁寧に家事をする。体を動かすことになるし、無心になれる。ボーッとすると哀しみも形がぼんやりし、うまく付き合える。悪いことばかりじゃない。

丁寧に食材を切り刻む。
適切な鍋を選び、味をみながら適度な速さと熱で調理する。
洗濯物のシワを伸ばしながら効率よく乾くように干す。
掃除機をかけ、鏡を磨く。

昔は家事が大きな負担になっていた。
大学院や会社に通いながら、家族分の家事をする時間もつくるには睡眠時間を削るしかない。手を抜けば文句を言われる。「愛がないからこんななんだ。こんなんじゃ結婚してもらえない」と。

なんやねん、愛って。そんな調味料/洗剤あるならはよ買ってきてえや!

結婚した友人たちは常に「家事」で揉めている。協力を諦めて一人で全てをこなしている友人もいるし、レジスタンスのようにあらゆる手をつかってパートナーに抵抗を示している友人もいる。夫婦仲のネックにさえなっている。

家事はタスクだ。
だから夫婦間の家事論争は、職場の仕事の押し付け合いと似ている。
違いは、もっと性質が悪いということ。

友人夫婦宅に遊びに行くと、度々、数年は続いているこの冷戦に巻き込まれる。どちらにも言い分があるので終結することはない。「冷戦と同じように革命を起こして崩壊させれば終結する」と思っても口には出さず、仲裁者の役割として妥協案をいくつか提案してみるが反論しか来ない。犬も食わないものに付き合っていいのは弁護士だけ、と肩を竦めて居心地の悪さにお尻をもぞもぞさせ、明るい声で話題を変えるしかできない。
ごめんよ友人夫妻。でも男女の問題には中途半端に関わってもバカを見るだけなのだ。


端から見ていて思うこと。
それは「この冷戦の核は、ゴミ捨てや家事というタスクじゃない」という点。

彼女が求めているのは「自分に協力してくれる夫」。
彼が求めているのは「自分が十分によくやっていると認めてくれる妻」。

カップルの喧嘩が長続きする大抵の理由は、パワーバランスを巡る争いに近いものだ(と自分の経験からは思う)。思いやりを求める片方に対し、なぜだか頑なに我を通そうとする片方。
私もその心理は未だによくわかっていないが、なぜだか優しさや思いやり、協力的な姿勢を露骨に求めると、人は頑なに「自分は悪くない!」と鉄壁の強度を上げて自分を守ろうとするのだ。

自分はよくやっているのだ。
十分に優しく接し、最大限の思いやりを示している。
これ以上、何を求める?YOUは応えてるの?

家事を巡る犬も食わない夫婦喧嘩の根本にあるのは、婚姻関係にかかわらない普遍的なカップルの大きな問題なのだ。「子どもじゃあるまいし…」と思いつつ、子どもを相手にするように猫撫で声で、日頃の感謝を伝え、労い、そして優しくお願いをすると、自己防衛の鉄壁はあっさりと消え去り、友好的に協力してもらえる。

面倒くさい。
カップルの深淵は、時に業が深く果てしなく面倒くさいものなのだ。


1.はっきり言おう。家事のできない奴はダサい。

カップルの深淵を覗く前に言いたいことがある。家事についてだ。

昔、大学に通っていた頃、家事を一切したことのない友人がいた。お金のある家の一人娘だ。私の家で皆で楽しくお泊まり会を開いた際、包丁すら握れず皿を配ることもよくわからないと言われた。

「ママが家事をさせてくれないんだよね。○○ちゃんは使用人じゃないからしなくていいって。怪我をしたらいけないし、べつに家事ができなくてもお金持ちと結婚すればいいからって」

辛辣で煽り癖のある性格は百歩置いておいて、家事ができない人間は大抵、過保護な母親の存在がある。

実は、私のひとまわり歳の離れた従姉たちもあまり家事ができない。私が生まれるよりもずいぶん前に亡くなった祖父は”豪傑”として武勇伝をいくつか持つ男で、漢一人で事業を立ち上げ、船と魚釣りが趣味、子どもをよく可愛がった。が、美男子でモテたから愛人を囲い、家に帰ればよく暴れた。祖母は気が弱く体も弱く、そんな母親と妹を守ろうとした伯母は、辛抱強く(おそらく自己犠牲のもとに)家のことをした。

その結果、自分の娘たちには「同じ苦労をさせまい」と娘たちに家事をさせなかった。娘たちが結婚すると近くに住ませて、伯母が料理を届け、面倒をみている。確認したこともないが、その夫たちも料理や家事はできない。子どもができてから、従姉たちは料理を学ぶようになっている。

宝物のように育った子ども = 家事できない大人

友人はそれを誇らしげに語り、伯母は愛おしそうにそれを語る。

ちなみに。たまたま女性の例が続いたが男性も例外ではない。私の兄も長年、家事をしなかった。趣味で時々は料理をするので両親や周囲に褒められていた。「男」だから家事は免除され、免除されているのにできるから”褒められていた”。

人にはそれぞれの能力がもちろんある。料理が下手な人もいるし、家事が苦手な人もいる。ただし、「やる・やらない」は能力とは別の話だ。とはいえ、できないのは仕方ない。過保護な母親たちのせいであり、本人の責任じゃない。

衣食住は、人間が生きるうえで最低限必要なものだ。
身を守るために清潔な衣服を身につける。命をつなぐため食す。安心して安全できる暮らしを守る家。成熟した人間は多くの場合、繁殖して子どもを持ち、保護者となる。そんな立場の大人が、人間が生きるうえで最低限必要なもの衣食住に従事する「家事」が一切できないなんて。ダサい。

他人にパンツを洗ってもらいながらふんぞり返って「俺は外で働いてお前らを食わせてやってるんだ!家のことくらいまともにやれよ!」と言っても、全く心に響きません。ダサいだけです。


2.食わせてやってるから家事をしない論もダサい。

「俺は外で働いてお前らを食わせてやってるんだ!家のことくらいまともにやれよ!」という台詞は、父が母に怒鳴り、母が私に怒鳴っていた言葉だ。そう言われると黙って家事をするしかなかった過去の私。

働いて生活費を家に入れながら家事をし出し、気づいたわけです。

外で働いて稼いでいようが、人として生活するための基礎である家事は必須タスクだよね。やらない理由にならないよね。

親の世代では生きていた性役割。男は外で稼ぎ、女は家を守る。そんなものクソくらえという価値観をもつ我々ミレニアム世代からすると、他人様にパンツを洗ってもらってふんぞり返って怒鳴り散らされてもただのクソダサパンツマンなだけなんです。

社畜だった私は、真夜中か明け方に家へ帰ってシャワーを浴びて寝るだけの生活。朝一で出勤していた。料理はもちろん、洗濯も掃除もできなかった。それでも毎日、綺麗な格好で何事もないように外で素敵な社会人を演じられたのは、同棲していた彼が私の不在中に家を整え、私のパンツを洗ってくれていたからだ。

社畜@実家暮らしはまさに地獄で、睡眠時間は4時間あればマシな方。そんな生活をしていたから、彼が家事をしてくれていることに申し訳なさとともに、素敵な社会人面で外で他人の評価を受ける私のボディは借り物のように感じていた。

生活を整える能力は「私」を作る行為でもあるのだ。

安心して家に帰れること。
安全な生活を送れること。

家事ができる大人は当然ながらとても素敵だ。安心して一緒に暮らせる良きパートナーだ。家事のできない人は、たとえ一人暮らしをしている人だとしても”自立”したパートナーになる要素が足りていない。

子どもが生まれれば母親は本来、家事はできなくなる。
人体に大きな損傷を受けている状態で脳だって機能が落ちる。あげくの果てに、産み落としてから数年かけて発達段階を辿ってようやく人間になる、そんな未熟な生き物の面倒をみなくちゃいけないのだ。
ワンオペは、集団生活を前提にできている人体構造からしてかなり無理難題だ。手助けする人たちがいることで生活をまわしながら子育てできる。ちょっとばかりデカい脳を持つせいで常に自我を探求する宿命を負った人間一人が健康的に育つには、複数人の大人の存在は必要なはず。

「子を持ちたい」と言いながら家事に協力しないパートナー

言語道断である。貴様にそんな資格はねえ!
感謝しろ!お願いしろ!それでも無理なら金を出せ!

というのが「夫が家事に協力してくれなくて喧嘩が絶えない」というお悩み相談に対する本音です。

お金があれば、家事は減らせる。タスクだから。
ホテル住まいになればNO家事LIFEは成立するし、雇えばいい。嫁が家事をしろと文句を言う?なら月給制を導入してください。家事のお値段を出している研究はあるし、ハウスキーピングの業者価格を調べて適切な料金を渡すのです。

社畜だけど薄給で、家事をする時間もお金もないという問題もあるでしょう。
どちらにしろ、どんな問題が背景にあるにしろ、最終的に問いはひとつに絞られるはずなのだ。


3.その生活に”幸福な未来”はあるのか?

いずれ人類は家事から解放されるだろう。あらゆる資本を投じてAIを発達させ、人類は家事を廃絶し打ち勝つ日が訪れるのかもしれない。

しかし、そんな未来は遠く、主婦・主夫は賢く立ち回って生活を回さなければならない。その優秀さによってタスクを減らし、家族に安心安全を提供しながら自分の人生も楽しく生きていく。

なんにせよ、家族やカップル間にある家事論争が、そうした「タスクを減らすこと」で解決するのなら良いのだ。良妻賢母で夫はよく稼いでくれるだろう(好夫賢父も然り)。社畜で時間・金がないのも同じ。物を持たないだけで解決される。物を持たなければ楽しく社畜として働き通せばいいのだ。

数年続く家事論争に答えを出せず、ひとり泣いている友人。
泣かせても肩を竦めるしかない友人のパートナー。
社畜人生で家事を人任せにしながら「食わせてやってるんだから家のことくらいやれ!」と踏ん反り返っているクソダサパンツマン。

全ての人たちに問おう。

「その生活に”幸福な未来”はあるの?」

ひとつの家に暮らす全員が「YES」と言えるなら、どんな悩みでもどんな解決方法でも良いのだろう。でも「YES」じゃないから”喧嘩”しているんでしょう?あなたがYESでも、あなたと暮らす人は泣いていたら、悲しい将来が待ち受けているのではないでしょうか?

泣いている友人よ。泣かせている友人のパートナーよ。そして、家族の怒鳴り散らして萎縮させているクソダサパンツマンよ。

誰かの犠牲のうえに成り立つものは、どんなものだっていずれ綻びが出る。長きにわたる冷戦も革命によって大国は打ち倒されたのだ。お前が良くても周りが良くなければ、良くないのである。

祖父母の不幸な関係性は母に躁鬱という影を落とした。華のあるキャリアを積む父に対し、社会的地位も経験も捨てた母の孤独なワンオペの結果に家庭内暴力は生まれた。家の中の歪みは弱い者に向かう。

「妻は家事をして当たり前」という偏見が、自由な思想を持つ人間を育てるだろうか?

未熟な大人が家族をつくると世代を超えて負の連鎖は続く。

その末端に席を置く私は傷ついた革命家だ。
反旗を翻そう。

一緒に幸福な未来を築けない人間をパートナーにはしません。
そうと思えない相手なら”恋愛"も"結婚"もクソくらえだ。

家事に限らない話だ。血が繋がっていようがいまいが、他人と暮らすことは面倒なのだ。独り身よりも節約効果があってリスクが減ってちょっとマシ。でも不自由さも時に伴い、不便さや疲れを増長する時もある。

私がポンコツな日は、ポンコツじゃない誰かが代わってタスクをこなせばいい。
誰かと共に暮らす。
その大前提は”愛”だの”好き”だのではない。
「互いに安心して暮らせるか」なのだ。

割り切って役割分担を決める。それが支え合う形なら良いでしょう。
互いが安心して自分の人生を生きていけるために決断し、納得し、実行してストレスなく幸せを感じられるなら2人にとってベストの答えなのだ。


4.「家の事」=”安心できる暮らし”の鏡

少子高齢化に触れると度々、社会的地位と権力のある高齢男性たちは「女」を「生む機械」だと言う。自動的に子どもは生まれ、自動的に社会人は生産されていくものだと思っているのだろう。問題のない家庭に育ち、自ら子育てをしてこなかったのだろう。

家の事は、家族が生きる土台だ。

結婚した当初から家事は母が専業主婦として行っていた。妊娠しても父は家にほとんどいなかった。祖母がきてもいびられるだけ。子どもが生まれ、私は5歳の頃から毎日お使いをしていた。掃除機をかけ、トイレを掃除し、料理をしていた。「女の子」だからだ。母が病気になると家事の全責任は娘に移行した。

家事は楽しいものじゃなく、誰かの犠牲のうえにやるものだと思う、そんな家だった。

私は、”中流”の家に生まれた。
父は女遊びができる程度に金を稼いでいたし、母は”家事+子育て=自分の人生”だと思い、全てを教育に注いだ。私は”恵まれた”子どもだ。

そんな私は、物心ついた時から歳の近い兄から性的な悪戯を受けた。
母からは愛情を受けながらも暴力も受けた。兄は私以上の愛と暴力を受けたが、私ほど敵意や憎悪を向けられたことはなかった。私より自由で甘やかされた。

確かに私はいろんな教育機会をもって”恵まれた”けれど、”暴力と無縁の幸福な家庭”を知らず、大人になってその存在を知ってから未だに苦しんでいる。誰にも共有できない苦しみに自分自身すら振り回されている。

全てを忘れて、無邪気に生きる選択もあるのかもしれない。
笑顔で恋愛をし、恋愛のハッピーエンドに結婚し、年齢も年齢だからと子どもをつくる。ママ友をつくりながら子育てし、仕事もほどほどにしながら良妻賢母になる。

両親が私に望む幸福だ。
「あのひと(兄)のことは忘れてあなたが幸せになればいいでしょう。自分が結婚も妊娠もしてないから他人の幸福をひがんでるのよ」

結婚も妊娠も”ハッピーエンド”の条件なんかじゃない。
”ハッピーエンド”の条件は「善良に生きる」だけだ。
結婚が幸福になるのは、互いに愛しみ合う関係性を築けるから。
妊娠の幸福は新しい命とその人生を導く責任を果たすからだ。

両親を愛し、感謝はしているけれど、その未熟さの歪みから目を逸らしたくない。何事もなかったかのように結婚して子どもを産んだ兄のようには私はなれないのだ。それが両親を苦しめているけれど、罪悪感なんてない。どうしたら、同じ鉄を踏もうと思えるのだろう?

兄のことが本当に不思議でならない。愛の為せる業?
兄嫁は結婚して仕事を辞めた。物を溜め込んでは引っ越すことの繰り返し。そのために兄は転職を繰り返す。兄嫁が無邪気に両親の悪口を言っては、兄は両親に平謝りを繰り返す。子どもが生まれ、今度は父親になろうとしているのだ。

完璧な親なんていないことは知っている。けれど、子どもの安全性を守ることのできない”未熟な親”もその予備軍も、ゾッとする。目を閉じれば、暗闇の向こうに子どもの私がいる。今でも残っている傷。裸で外に出されて縮こまって泣いていると、一緒に遊んでいる子たちに見つかり、その子たちが逃げていく。やがて大人がきて服を一枚上からかけてくれるが「どうしたの?」と質問される。答えて事態が発覚してはならないので、じっと黙り続ける。すると去っていく。

私の中に、その子どもとその母親がいる。その夫もいる。
誰にも共有できない苦しみは負の連鎖の種になる。他人を傷つける種になる。
”平凡に幸福”になるのは、それほど簡単なことじゃないのだ。

デミセクの私は、恋愛相手を持つことも”普通”の人たちに比べて容易なことじゃない。だから、人を敬愛し、愛される人と”安心できる時間”を共にしていくことが「パートナー」という関係性だと思っている。
互いに未熟でも、喧嘩をしながら”幸福な未来”のために2人で成長していく。互いにその努力をし合える関係性に感謝し、”恵まれている”と感じる。


結婚は制度に過ぎない。
共に生きていく関係性が「家族」だ。

家族が安心して暮らすためには、互いにすり合わせていく必要がある。
2人の生活でそれに悩んでいるのなら、とことん悩んで解決を模索するといい。
どうか子どもが生まれる前に。

”平凡に幸福”になるための資質を子どもに与えられる親になろう。
誰だって要らぬ苦労はしない方がよいのだから。

家事はチームプレイのあり方を明確にしてくれる。
ドリブルのできないプレイヤーは、いつだってドリブルを回せないし受け取れない。下手ならコツを知って練習して鍛えていけばいい。

幸せになるために戦おう。
2人の”幸福な未来”のために。

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