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今朝平遺跡 縄文のビーナス 60:アイドルと八重歯

豊田市中垣内町(なかがいとちょう)辨天の旧郡界橋から市杵嶋神社の社頭に戻ってくると、341号線を挟んだ東側のブロックに白壁を似せ紫の梁で縦横に区切ったモダンで密教の匂いのする側面壁を持つ建物が目に入ったので、観に行きました。

愛知県豊田市 中垣内町辨天/和会町弁天
豊田市 中垣内町 市杵嶋姫神社/和会町 市杵島姫社
中垣内町辨天 市杵嶋姫神社/弁天社

その建物の南側に廻ると、南東を向いた正面側にはちょっと見ないほど幹の太いイチョウの巨木が道路沿いにあり、その奥に側面とはまったくイメージの異なる燻んだ建物があった。

愛知県豊田市中垣内町 イチョウ/弁天社/境内社

建物の正面は開けていて、薄く雑草が生えていた。
雑草の処理からすると市杵嶋姫神社より、この建物の方が手入れがされている。
イチョウに関する案内板には以下のようにあった。

名木指定 第75号 イチョウ科
イチョウ
  胸回り 4.00m
  根回り 7.80m
    樹高 18.00m

中垣内町 弁天社 案内板

建物の正面に立つと、瓦葺方形造の屋根と瓦葺切妻造の屋根を合体させた特異な建物で、どこにも看板や扁額の類は見られず、何かが祀られているエネルギーをまったく感じない。

中垣内町 市杵嶋姫神社 境内

GoogleMapにも何も表記の無い建物だった。
しかし、確実に祭祀施設であった時代はあり、ちょっと奇妙だったのは方形造部分の中央2枚の戸が開口部より広いことから、向かって左側の戸だけが左端の戸と重なっていたことだ。
つまり、この建物のために製造された戸ではなく、他の建物に使用されていた戸が流用されていた。
この建物、見た感じは堂以外の何物でもない。

だが、この建物の向かって右側にはブロックを積んで、側面をL字形にした基壇が設けられており、その上に銅板葺流造の社と紅赤にペイントされたトタン張りの社が祀られていた。

中垣内町 弁天社 境内社2社

宝形造の建物が神社なら基壇上の2社は境内社ということになるが、ここには鳥居も狛犬も存在しなかった。
だから、小社を祀るならすぐ隣に市杵嶋神社があるのだから、そこに勧請されるのが一般的なのだ。
そしてこの2社を祀った基壇の前には1対の銅板葺で火袋が朱塗りの常夜灯が設置されていた。
この常夜灯の色は弁財天を想起させるもので、基壇上のどちらかが弁財天であることを推測させた。
おそらく銅板葺屋根の方が宝形造の建物寄りであることから、それが弁財天だろうと推測したが、紅赤の屋根の小社の内容は不明だった。
しかし、この後、巡った場所を観たことから、今は秋葉社ではないかと推測している。
現場にもネット上でも情報が見当たらないので、地誌で調べないと確定はできない。
しかし、宝形造の建物も弁天堂と推測した。
この建物が弁天堂だから、弁財天の小社もここに持ち込まれたのだと思われる。
これらの建物の背後には巴川が流れているのだ。
しかし、なぜ2つの小社は神社であることがはっきりしている市杵嶋姫神社の方に祀られていないのか。
これも推測だが、ここが徳川家の地、三河であることが関係していると思われる。
明治政府は廃仏毀釈を推進し、弁財天を市杵嶋姫神社に変更させた。
しかし、この地元の人たちは徳川家を信奉していた人たちだ。
どこの馬の骨とも知らない日本列島の端からやって来た役人たちの決定した事項に従わなければならない道理はまったく感じなかったったはずだ。
そこで、表向きは弁天堂を閉じて、空いていた郡界川添いに市杵嶋姫命を祀り、政府には恭順を示した。
しかし、地元の人たちの大切なものはこちら側に集めたのではないだろうか。
市杵嶋姫神社の境内の雑草が茫々で、こちら側の雑草は小ざっぱり刈り取られている理由がそれなのか、邪推させてしまうところがある。
たまたま刈り取るタイミングで、そう見えただけの可能性も、もちろんある。

この時は釈然としないまま、次の場所に向かったのだが、この記事を書くに当たって、この不明の場所にやって来た複数の人のブログを見ていたら、この不明の建物を「弁天社」という神仏習合した呼び方をしている人が一人だけいた。
それで、写真のキャプションは「弁天社」表記にした。

中垣内町 弁天社から西南西6.7km以内に位置する和会町にある弁天に向かった。
この弁天には市杵島姫社が存在した。

愛知県豊田市和会町(わごうちょう)弁天 市杵島姫社

和会町(わごうちょう)弁天交差点の北側の角にセブン・イレブンがあるのだが、地図で俯瞰すると明らかにセブン・イレブン用地は市杵島姫社の社地のもっとも価値の高い角地を分譲したことが解る。
ちなみに和会町 市杵島姫社の北側もトヨタの上郷工場 排水処理場になっている。
この排水処理場に面した北側を猿投川(さなげがわ)が東西に流れている。

市杵島姫社の社頭は南西を向いており、地図には号線表記の無い幹線道路に面しており、歩道が狭いことから、愛車を駐めるスペースが無かったことから、セブン・イレブンの駐車場の端に愛車を入れた。

社頭にやって来ると、幹線道路の歩道に面して「市杵島姫社」とクセのある文字で刻まれた社号標が設けられており、脇に自動車のホイールをぶら下げた鎖で車止めが張ってあった。

和会町 市杵島姫社 社頭

車のホイールは鎖が細い上に錆びて黒っぽく、その存在に気づかない車が、社頭に車が入れられると思って突っ込んできてしまったことがあるのだろう。
しかもそれを誘導するように鳥居の前に車がちょうど1台駐められそうな分だけ、アスファルトで舗装されているのだ。
ホイールが無くて、もう少し暗かったら小生もここに突っ込んでいた可能性は十分ある。
車止めする必要があるのは、鎖を張らないと、ちょうど車が通り抜けられるくらいの大きさの鳥居が奥に建てられており、入って来てしまう車がいたからだろう。

車止めの脇を抜けて鳥居の前に立つと、銅板葺で朱塗りの台輪両部鳥居という珍しい鳥居だった。
ペントされたばかりのようだ。

和会町 市杵島姫社 表参道 鳥居

細かな砂利の敷かれた表参道は左手のセブン・イレブンのコンクリート壁と右手を塞ぐ社叢の間を真っ直ぐ奥に延びている。

鳥居から40m以内で境内は左手に広がっていた。
そこには神依木(かみよりき)がコンクリートの縁石内に植えられていた。

和会町 市杵島姫社 神依木

神依木とは基本的に、この神社が設置される際に、榊などの常緑樹を使用して最初に神を下ろす神籬(ひもろぎ)を建て、それを植えて育てたものだ。
神依木の前には白い砂利を敷き詰めた枠があり、祓所となっている。
その手前のコンクリートでたたかれた枠は参拝する時の拝石だろうか。

神依木の前から20mあまりで、表参道は下記写真右手の常夜灯にぶつかるので、参道は鍵形に2度折れて、拝殿の真正面に至る道筋に出るようになっていた。

和会町 市杵島姫社 拝殿

不浄なものが入り込まないようにする措置だ。
敷き詰められた砂利は人の通る中央部だけが、少し白っぽくなっており、逆に常夜灯の基壇部分の石は黒檀色(こくたんいろ)に焼け、人為的には計算できない好い感じだ。
拝殿は瓦葺入母屋造平入で、女神を祀った雰囲気は微塵も無い。
拝殿前で参拝したが、中垣内町 市杵嶋姫神社の祭神に関しては情報が無かったが、ここ和会町 市杵島姫社の祭神は「豊田市史」(S53.豊田市教育委員会編)によれば、創建は寛文9年(1669年)、祭神は市杵島姫命と父神の大山祇神(おおやまつみのかみ)となっている。
女神を祀った雰囲気が無いのは大山祇神のためだったようだ。
現在、トヨタの上郷工場 排水処理場になっている部分には釜戸池という池があったそうで、そこに祀られていた弁財天宮が明治5年(1872)に和会町が成立した時に池畔に社殿が造営移築されて市杵島姫社と改称し、旧上村新郷の氏神として創祀されたものという。
こちらは、池とともに弁財天宮は消滅してしまったわけだ。
おそらく、中垣内町 市杵嶋姫神社の方も前後して創祀されたのだろう。

本殿を観るため、拝殿裏面に延びる回廊の左手に回ってみた。

和会町 市杵島姫社 本殿

渡殿に続く本殿も瓦葺流造で男臭い。
本殿の妻側には雲流の蟇股が装飾されていた。

和会町 市杵島姫社 本殿蛙股

これは正に大山祇神の正体が市杵島姫命の父親のスサノオであることを暗示したものだ。

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を

須佐之男命『古事記』

ちゃんと本殿の妻側に八雲(蟇股の雲の渦巻きを数えると、ちゃんと八っつある)が装飾されているのだ。
つまり、須佐之男命の詠んだこの歌の「妻」とは「女房」のことではなく、建物の“妻(左右の屋根が山形に見える側)”のことであり、大山祇神の「大山」も屋根の「山形」に由来する名称である可能性がある。
歌に詠まれている出雲大社は妻入(妻側が正面を向いている)の建造物であり、その正面に戦さの防衛のための八重垣を造営しようぜという歌であり、その裏側ではたった31文字の中で「ヤエ(弥栄)」という音を3回、「ヤ(=永遠)」を4回リフレインして、永遠の繁栄を祈念する呪文を唱えているのだ。
このリフレインの多さは、ほとんどYOASOBIの「アイドル」だ😓
日本だけでアイドルの八重歯(縁起物?)が「可愛い」と言われるのと関係がありそうだ。
そして、八重垣とは敵から自陣を守るための、八重歯のように先の尖った竹や木材で組んだ垣根のことではないだろうか。

境内社はないか、探すと、表参道と並行した南西側に壁のように植えられた社叢に区切られるように真っ直ぐに参道が延びていた。

和会町 市杵島姫社 境内社秋場社

ちょうどセブン・イレブンの建物の真後ろで、セブン・イレブンの本殿かというような位置だ。
その参道の途中には銅板葺屋根を持つ朱の鳥居が設けてあり「秋葉社」の社頭額が掛かっていた。
朱の鳥居といえば、稲荷社か弁財天なのだが、秋葉社も浜松の総本社の鳥居が朱の鳥居であることから、朱の鳥居が使用される場合がある。
この秋葉社を見た時、中垣内町 弁天社の2社の境内社の前に並んだ朱塗りの常夜灯から、その2社も弁財天(市杵島姫社)と秋葉社ではないかと直感した。
ところで、和会町の境内社秋葉社は瓦葺切妻造平入で躯体が素木と、秋葉神社らしくない建物だった。
すでにかなり陽が落ちていたので、急いで市杵島姫社を出て愛車に戻り、水路を探しながら、北西に向かった。

290m以内で、突然川の上に出た。

和会町 猿渡川 五反田橋下流側

五反田橋があるはずだったが、それは親柱も欄干も無いガードレールがあるのみの橋だった。
下流側を見下ろすと川幅が10mほどの猿渡川が流れていたが、すぐ下流で左にカーブしていた。
護岸はコンクリートブロックが傾斜をつけて張られ、川床にはカーブの前後ということで、小石の堆積が見られ、雑草に覆われた小さな中州ができていた。
両岸とも雑草で覆われている。
ここから猿渡川を上流に辿ってみたが、すぐに帳が降りてしまった。

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「弁財天」と「龍」、「蛇」のキーワードで巡った豊田市は3ヶ所でした。


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