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今朝平遺跡 縄文のビーナス 28:坂に来訪したサカ族

愛知県豊田市則定町(のりさだちょう)の心月院跡を降り、巴川の右岸(北岸)に沿って延びる県道39号線に出て巴川の上流に向かい、北西1.8km以内に位置する豊田市大島町の八坂神社に向かいました。東大島町で巴川に流れ込んでいる河川名不明の支流に沿った道を遡り、さらに途中からその河川名不明の支流に流れ込んでいる支流に沿う道を遡ると、左右に水田の広がる山並みの麓に2本のティアドロップ形に頭の尖った杉の木の間に石鳥居のある杜が視野に入ってきました。そこに向かう通路の入り口にはちょっとした集落がありました。

愛知県豊田市大島町 八坂神社
大島町 八坂神社
大島町 八坂神社

通路に入っていくと、周囲を水田に囲まれた社頭があり、南南西を向いた石造の神明鳥居が7段の石段の麓に設置され、石段は2.2mほどの高さに石垣を組んだ土壇上に上がれるようになっており、石鳥居の右奥に社殿らしきものが見えていた。
石鳥居の左手は高木の社叢が覆い、鳥居の右脇の石垣の前には「八坂神社」とだけ彫られた社号標が設けられていた。

大島町 八坂神社 社頭

社頭脇に愛車を駐めて鳥居をくぐり、石段上に上がると、右奥20mほど先には2重に切石積みにした石垣が組まれており、その上に横幅が10m以上ある瓦葺入母屋造平入の拝殿が設置されていた。

大島町 八坂神社 拝殿

前面はガラス格子の戸と板塀、板戸を締め切られ、木部の素木は似せ紫色に灼けているが、大社でもなかなか見たことのない風格のある拝殿だ。
その長い拝殿を覆えるくらいの高木が社殿の西側と北側を覆っている。

石段を上がって拝殿前で参拝した。
祭神は須佐之男命というのだが、この神社に関する文字情報はそれしかないようだ。
大きな格子のガラス窓越しに社殿内を見ると、壁も床も天井も渡殿の窓以外は総素木板張の殿内は拝殿から1段上がって渡殿があり、渡殿から6段の階段で本殿に上がれるようになっている。

大島町 八坂神社 殿内

拝殿の右手(東側)に迂回すると、渡殿・本殿覆屋ともに瓦葺切妻造で壁は板張。

大島町 八坂神社 渡殿/本殿覆屋

渡殿の窓はガラス窓に見えたが、乳白色のフィルムが張られているようで、二重窓になっているのかもしれない。
本殿覆屋は板壁の上部が網が張ってあるだけで吹きっぱなしになっており、屋内には神明造らしい本殿の屋根が見えるが、須佐之男命に神明造とは。

拝殿の西側を見に行ってみると、やはり50cmほどの高さの切石積みの石垣が組まれており、本殿より高い位置に瓦葺切妻造平入で奥側の板壁以外は吹きっぱなしの境内社が祀られていた。

大島町 八坂神社 境内社

社前の石段の左脇には正方形の穴の貫通した40cmほどの高さの石柱が設置されているのだが、何なのか見当のつかないものだ。

社殿の設置された上の土壇から下の土壇を見下ろすと、丸型と四角の笠を持つ2対4基の石灯籠が並べられていた。

大島町 八坂神社 石灯籠

どちらも、本格的な灯篭というよりは常夜灯に近いものだ。

●スサノオとサカ族の関係

ところで、八神社の祭神須佐之男命とサカ族には関係があるのだろうか。
サカ(坂)」と同音を持つサカ族(Saka)という民族が存在する。
紀元前6世紀頃から中央アジアに現れるイラン系遊牧民族のことだ。
サカ」はペルシャ側の呼び名で、古代ギリシアではサカイ(Sakai)と呼んだ。
漢字を当てると「」などがあるが、は「大府」に位置する。
この2ヶ所が「サカ」音を含むのは偶然なんだろうか。
須佐之男命は京都市にある八神社総本社でも祭神の筆頭に祀られている。
この須佐之男命は『日本書紀』では「新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降りた」とされているが、サカ族と関係はないのだろうか。
須佐之男命の子供の中には「サカ」名をもつ磐日子命(イワサカヒコ)が存在するのだが、須佐之男命の子であるということ以外にほとんど情報の見当たらない神だ。
他に「飛鳥」の「スカ」は「サカ」からの転訛ではないかとする説も存在する。
やはり「サカ」地名の「田市(さかたし)」の北側の海上には「飛島」、陸側には「鳥海山」が存在する。

酒田市/飛島/鳥海山

島」と「海山」の頭文字を合わせると「飛鳥」となるが、「飛鳥」は蘇我氏宗家が居館を構えていた地名だ。
鳥海山には2度登っているが、標高0mの山裾から頂上まで立ち上がっている稀有な山であり、東北第2の高山(標高2,236m))なのに頂上から白い波頭が直接見えるので、驚いた。
そして、2度目に登った時に頂上から眼下に見える島の名前をチェックして、その島名に気づいたのだった。
果たして「飛島」と「鳥海山」は蘇我氏と関係があるのだろうか。
経済人類学者の栗本慎一郎氏はその著作『シリウスの都 飛鳥 日本古代王権の経済人類学的研究』(たちばな出版 2005年)の中で蘇我氏をサカ族としており、サカ族による「アスカ(飛鳥)」の意味を以下のように紹介している。

 =聖なる
スカ=須賀(※蘇我)
                           (※=山乃辺注)

『シリウスの都 飛鳥 日本古代王権の経済人類学的研究』

つまり、「飛鳥」は蘇我氏(サカ族)の関係地としている。
このことはサカ族の日本列島への上陸地が鳥海山の麓とする説につながってくる。
また、『物部文書』では鳥見山(現鳥海山)にはニギハヤヒが降臨したとする神話が存在するが、相似な出来事は『先代旧辞本紀』にも紹介されており、こちらでは河内国哮峰(たけるがみね:現大阪府交野市私市の哮ケ峰)に天降ったとされている。
交野市にはニギハヤヒを祀る磐舟神社(いわふねじんじゃ)が存在しているが、小生は磐舟神社にも参拝している。
酒田市と大阪府を結ぶのは「サカ」だ。
また、天武天皇は「明日香(あすか:奈良県)」にあった大宮を「飛鳥(とぶとり)の浄御原(きよみはら)の宮」と名づけた。
このことから蘇我氏と天武天皇の間には何らかの関係があるとみていいだろう。
蘇我氏を滅ぼしたのは記紀では大海人皇子(天武天皇)の兄とされている中大兄皇子(天智天皇)と、そのブレーンの藤原鎌足だったが、大海人皇子は天智天皇の第一皇子が弘文天皇として即位すると、ただちにクーデター(壬申の乱)を起こし、伊勢神宮などのバックアップを受けて、弘文天皇を自害に追い込んだとされている。
ところで、飛島には「鼻戸崎(はなとさき)」という岬が存在する。
「鼻」はスサノオ(須賀ノ男)の表徴であり、イザナギが「筑紫の日向の橘の小戸(おど)の阿波岐原(あはぎはら)」で禊を行なった際に鼻から生まれたとされている。
そして、大物忌(いみな)神社の公式ウェブサイトには鳥海山大物忌神社 山頂本殿には、その社名から誰しも大物主命が祀られていると思いきや、以下の二柱が祀られているとしている。

・倉稲魂命
・豊受姫神

『大物忌神社』公式ウェブサイト

だが、この二柱、なぜか「祭神」の項目の本文では、まったく触れられておらず、表記されているのは以下の記事のように写真のキャプションの部分の小さな文字部分に表記されているのみなのだ。

『大物忌神社』公式ウェブサイト「御祭神」頁

どう考えても異常な状況だ。

ニギハヤヒは東北では見山に降臨し、近畿で降臨するのに使用したと考えられる「磐舟(いわふね)」の別名には「天船(あめのとりふね)」、「之石楠船(とりのいわくすふね)」、「天鴿船(あまのはとふね)」があることと合わせると、ニギハヤヒのトーテムは「」と考えられ、一方、大和国一宮大神神社(おおみわじんじゃ) の祭神大物主大神が神とみられていることからすると、大物主のトーテムはと考えられるのだが、海山には山頂の西南西に「千谷(せんじゃだに)」が存在し、日本の神輿に表徴されている(神輿の鳳凰)と(神輿の綱)の戦いが鳥海山にもみられる。

神輿

そして、(ヤマタノオロチ)と戦ったスサノオ(頭天王)のトーテムとみられる雄牛はオオモノヌシ、ニギハヤヒのトーテムとは別のものだから、オオモノヌシとニギハヤヒはサカ族とは別種とみられる。
ダレイオス1世(在位:紀元前522年〜前486年)の『ベヒストゥン碑文』によれば、サカ族の中には中央アジア西側に居住するサカ・ティグラハウダー(尖がり帽子のサカ)と呼ばれる種が存在し、下記写真、左のようなキュルパシアと呼ばれる羽飾りの付いた尖り帽子をトレードマークにしている。

尖り帽子

赤と金の組み合わせのコスチュームは平安神宮の大居を連想させるものだ。

もちろん、キュルパシアはを表徴したものだ。
時代としては第3代安寧(あんねい)天皇〜第4代懿徳(いとく)天皇の時代に当たる。
サカ・ティグラハウダーが日本列島に渡来したとするなら、天孫族が降臨した後の時代ということになる。
日本国内で尖がり帽子に似たものを取り上げると、平安時代から和装での礼服着装の際に成人男性が被るようになった「」を名称に冠した帽子(えぼし)が存在するが、帽子を被った著名な人物といえば、の目紋(じゃのめもん)の入った長烏帽子形兜を冠った戦国時代の加藤清正だが、の目紋は加藤清正の家紋であり、族と考えられるが、戦闘用の兜ということで、の表徴である帽子型の兜にの目紋を組み合わせたものと思われる。
の組み合わせは戦いを表徴する神輿と同じだが、名古屋城築城の際の清正は石垣用の巨石を運ぶのを神輿に見立て、石の上に戦闘姿で乗り、采配を振って運搬の指揮をした。
清正は姓で分かるように蘇我氏を滅ぼした藤原鎌足の後裔である。
一方、海外で著名な尖り帽子といえば、何といってもミッキー・マウスが魔法使いのコスチュームを被った時に被る尖り帽子だ。
もちろん、ハロウィン用のハリーポッターコスプレに尖り帽子は欠かせない。

さらに、カスピ海もしくは黒海の北に居住するサカ・パラドラヤは『ギリシア文献』に登場するスキタイとされる。
スキタイに漢字を当てると「好太」となるが、高句麗の第19代好太王(こうたいおう:広開土王:在位:391年〜 412年)につながるが、これも偶然だろうか。
好太王は第16代仁徳天皇〜第19代允恭(いんぎょう)天皇の時代の人物だ。
好太王の姓は「」だが、これが句麗の国名の元になったと思われるが、高句麗末期の大莫離支(テマクリジ:宰相)淵蓋蘇文(えん がいそぶん)は『日本書紀』に記述のある伊梨柯須彌(いりかすみ)であり、大海人皇子説のある人物である。
大海人皇子の長男は「市皇子(たけちのみこ)」と頭に「」の文字を持つが、これも偶然だろうか。
偶然一致するものは多いし、辻褄が合ってしまったりするのだが、偶然ではないことを確定するのは難しい。
スサノオが朝鮮半島から渡って来たとするなら、サカ族も日本海を渡って来ていても不思議ではない。

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『古事記』で初出する「」は生者の住む現世と死者の住む黄泉との境目にあるとされる坂「黄泉比良(よもつひらさか)」ですが、これは古墳の石室(棺を納めた部屋)への通路を描写したものとする説があり、となると「サカ」は「坂道」と「境目」のダブル・ミーニングになっているのでしょうね。

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