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今朝平遺跡 縄文のビーナス 82:誓約神話

2023年8月 愛知県豊田市御所貝津町(ごしょがいつちょう)の石造物群前から稲武線を東に向かい、390m以内の十字路を左折して、稲武線から離れ、北側の山頂に祀られた誓約神社(うけいじんじゃ)に向かうために住宅街の中を抜ける路地に入り、北上しました。

愛知県豊田市御所貝津町 誓約神社
豊田市御所貝津町 誓約神社
御所貝津町 誓約神社

目的地の誓約神社は、当初、町名を知らなかったので「せいやくじんじゃ」なのか、日本神話にあるように「うけひじんじゃ・うけいじんじゃ」と読むのか不明だった。
「うけひ・うけい」とは吉凶、正邪、成否などを判断する占いのことだ。
誓約神社に向かう路地に左折すると、行く手には美しいお椀型の森になった無名の山が立ち上がっており、その山上に誓約神社が存在することが、すぐに解った。

愛知県豊田市御所貝津町 誓約神社 杜

稲武線から名倉川を渡って、その森までは120mあまり。

●誓約神社に登る
上記地図の誓約神社に登っていく2つの道(表参道)は私が旧い地図と登った時の記憶で、それぞれ書き込んだもので、GoogleMapなどには誓約神社に登っていく道は表記されていない。
それで、誓約神社への登り口を探して、山裾を巡ったのだが、南西側の山裾に回り込むと、「誓約神社」と刻まれた社号標のある表参道の入り口を見つけた。
ただし、その入り口には参道に立ち入れないように紅柵が設けてあり、朱色のカラーコーンが並べてあった。
柵の先の参道には雑草が生い茂っており、とても入っていける状況になかった。
しかも「マムシに注意」の看板が。
それで、廃社になっている神社だったのかとがっかりし、この日は誓約神社が最後の目的地だったので、あきらめて、稲武線に戻り、途中まで引き返した。
しかし、「誓約神社」という社名がどうにも気になって、他に参道ではない登り道があるかもしれないと思い返して、再び誓約神社のある山裾を1周してみることにした。
東側に回ると、山に登って行く道があるのが見えた。
しかし、その道に入って行こうとすると、その入り口脇に「熊が最近出没した」という説明文のあるまだ新しくて大きな看板が掲示されていた。
それで、先に進むのはあきらめて西側に回ることにした。
山裾を西側に辿ると、北西に向かって誓約神社から離れて行く道があった。
そして、その道路から分岐して、道幅は軽四輪の車幅ギリギリの1.5mあまりと狭いが、逆方向の誓約神社の方向に向かって真っ直ぐ登って行く道が設けられていた。
分岐点は誓約神社の北西方向に当たる。
しかし、地図には表記の無い道で、参道であることを示すものは何も無かった。
熊が出没することが分かっている山なので、登るかどうしようか迷った。
人の気配はまったく無く、南側と違って人家も遠くに見えるのみだった。
最初は愛車で登ることを考えたのだが、道幅は1.5mほどで、モーターサイクルでUターンするスペースはまったく無く、途中で熊と出会っても、逃げられない。
それと、この道がもし参道だったなら、モーターサイクルで登るのは氏子さんに嫌がられるかもしれないというのもあって、徒歩で登って行くことにした。
道の山側は上りの崖で、反対側は下りの土手(ヘッダー写真)になっている。
熊と出会ったら土手を滑り下りれば、逃げ切れるかもしれないと思いながら、恐る恐る山道を登った。

270mほど登って行くと製材所のような、廃止になったスーパーマーケットのような大きな建物があった。
「なんだ、作業場があるじゃないか」と少し安心したが、その建物は神社舞台であることが判った。
後で知ったところでは人形浄瑠璃が上演された舞台だという。
ただし、建物は以下で紹介した岩倉神社の舞台のような伝統的な建物ではなく、

写真の被写体としてはまったく魅力を感じることのない建物だったのと、熊のこともあったので、撮影はしなかった。

しかし、この北向きの建物の前で後ろを振り返って、驚いた。

愛知県豊田市御所貝津町 誓約神社 鳥居/拝殿

舞台とは正反対の立派な石組みの石垣や石鳥居、瓦葺入母屋造平入の拝殿が舞台と真正面で向かい合っていた。
やはり、境内に人の気配はまったく無い。

石鳥居は伊勢鳥居だ。

豊田市御所貝津町 誓約神社 鳥居

高さ2mほどの石垣上に設置された拝殿は吹きっ放しの建物だった。
拝殿の向かって左手は社務所らしく、右手は回廊になっているようだ。
鳥居をくぐり、石段を上がって拝殿前で参拝した。
ネット上にある祭神は以下の八柱となっている。

・天忍穂耳命(アメノオシホミミ)
・天穂日命
(アメノホヒ)
・天津彦根命
(アマツヒコネ)
・活津彦根命
(イクツヒコネ)
・熊野久須毘命
(クマノクスビ)
・多紀理毘売命
(タキリビメ)
・市杵島姫命
(イチキシマヒメ)
・湍津姫命
(タギツヒメ)

『八百万の神』誓約神社
https://yaokami.jp/1231602/

なぜか、『古事記』と『日本書紀』の表記名が入り混じっている。
この八柱の神はアマテラスとスサノオが行った誓約で生まれた五男・三女神のことだ。
この場合の二人の誓約は、スサノオが自分から生まれる子が男であり、アマテラスから生まれる子が女であるという宣言を行い、宣言どおりになったことで自分の潔白を証明した。
「誓約神社」ということで惹かれて登ったのだが、その実態は「八柱神社」や「八王子神社」の別名ということになる。
それを示すように、この誓約神社には旧社名が「八王子神社」だったとする説もある。
 
拝殿は奥が格子戸になっており、その格子越しに本殿が見えている。

御所貝津町 誓約神社 拝殿内〜本殿

拝殿内最奥の向かって左手に不明の神棚が置かれている。

御所貝津町 誓約神社 拝殿内 神棚

神棚の向かって右側には「奉祝 天皇陛下御即位」の幟、左側には「奉行修練永代護摩供開運長久守護〓」の大きな札が置かれていた。
修験道、あるいは密教の札だが、修験道は現在では密教寺院が受け皿になっている。
そして、修験集団は江戸時代が終焉するまで天皇家直属の下部機関だった関係にある。
幟と札の間に祀られている神棚とは、天皇家の祖先である天照大御神を祀ったものである可能性が大きいいが、それは誓約の片方の主役である。

本殿を近くで観たいのと、熊のことで早急にここから退散したいことで逡巡しながら、社務所と崖の隙間を通り抜けて、本殿覆屋の西側に回り込んだ。

御所貝津町 誓約神社 本殿覆屋西側面

トタン張切妻造で構造材が剥き出しになった吹きっ放しの巨大な本殿覆屋がそびえていた。
しかし、こちら側には上層の屋根とは別の下層に瓦葺屋根を葺いた裳階屋根(もこしやね)が設けられていた。
寺院建築の本堂などに大仏を奉る場合、天井を高くする必要があるが、屋根が高すぎれば、軒を長くしないと、雨が降り込んでしまう。
そこで、軒を長くしないで下層にもう1層の屋根を設けて、雨が振り込まないようにする工夫だ。
昭和期まで世界最大の木造建築だった東大寺の大仏殿にも裳階屋根が設けられている。

そして、裳階屋根の外側に高さ2.3mほどのブロック塀が巡らされていた。
ここに登ってきた参道はおそらく、この覆屋を構築するための材木を運び上げるために新たに開かれたものだったのだろう。
古地図に見られる旧参道にはヘアピンカーブがあるので、この巨大な覆屋に使用されている長い材木を運び上げるのは無理だったはずだ。
旧参道が廃止になったのはこの覆屋築造とマムシの出没が要因になったのかもしれない。
本殿は大きな檜皮葺素木の神明造だった。

御所貝津町 誓約神社 本殿西側面

この本殿を風化から守るために覆屋は巨大になったのだ。

覆屋の屋根は瓦葺切妻造平入で、構造材は見事に剥き出しになっている。

御所貝津町 誓約神社 本殿覆屋北西側

筋交いも後から追加されたものではなく、最初から計画されたもののように見える。
ここまで目的がシンプルに現れていると、モダンな感じさえする。
裏面側の屋根を見ると、屋根には瓦葺の部分が残っており、同時に屋根が欠けている部分がある。

裏面を回り込んで東側側面に出ると、こちら側の2.3mほどの高さのブロック塀は一部だけで、ほかの部分は1.5mほどの高さにしてあった。

御所貝津町 誓約神社 本殿覆屋東側面

塀と拝殿の隙間から本殿の正面を見ると、本殿躯体の横幅は広く、複数の神が祀られた神社であることが解る。

御所貝津町 誓約神社 本殿

覆屋の屋根を見ると、典型的な裳階屋根となっており、2層とも瓦葺になっていた。
この建物は正面から見るべき建物になっていた。
覆屋の正面には両側から筋交いが設けられている。
これを見ると、筋交いは後から設けられたものであるのかもしれない。

それはともかく、早々に下山した。

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「誓約」という社名は町名の「御所」と関係があるものと考えていましたが、検索してみると浜松市西区西鴨江町にも誓約神社が存在することが判りました。読みも同じ「うけい」です。日本神話に残る誓約には、ほかに葦原中国平定(あしはらのなかつくにのへいてい)において、高木神(タカミムスビ)が天若日子(アメノワカヒコ)に与えた矢で誓約を行い、天若日子が死亡する事例が残っています。

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