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今朝平遺跡 縄文のビーナス 74:岩倉神社舞台

愛知県豊田市平戸橋町&勘八町の馬場瀬古墳群(まばせこふんぐん)から、登ってきた飯田街道(国道153号線)に降り、東の足助町に向かうと、5.2kmほどで左手(北側)に住宅が並ぶ中金町平古(なかがねちょうひらこ)に差し掛かります。そこには幅3mほどの通路が飯田街道から真っ直ぐ北北東に延びていました。その通路入口左角には「村社 岩倉神社」と刻まれた社号標、その奥3mほどの場所には左右に1対の幟柱立てが設置されていました。それは一般道を兼ねた表参道でしたが、2012年7月のことでした。

愛知県豊田市中金町 岩倉神社
豊田市中金町 岩倉神社
豊田市中金町 岩倉神社/旧西中金駅駅舎

表参道の入り口部分だけ道幅がラッパ状に広げられていたので、社号標の向かい側の幟柱立て前に愛車を駐めて、表参道の奥を見ると、40mほど先に岩倉神社の杜があり、その杜の奥には西の平子から岩倉に渡って延びる尾根が立ち上がっていた。

平子 H I R A K O
平戸 H I R A T O

ちなみに「平子」の母音は渡ってきた「平戸」橋と同じく「IAO」という同じ母音が並ぶ名称であり、偶然とは思えない。
実は岩倉神社の背後の山には磐座(いわくら)が存在し、それが「岩倉」という字名と神社名になっていると思われる。
私見だが、「平」はやはり「石工」のヒラム・アビフ、もしくは「石(磐)」そのものの暗喩ではないだろうか。
ここの磐座は以前から観に行きたいと考えているのだが、通路が存在せず、場所を知っている人に案内されるしか、観に行く方法は無い。

表参道を進むと、岩倉神社の杜の直前で踏み切り跡を渡る。
現在、線路は取り払われているが、この踏み切りにはかつて名鉄三河線が通っていた。
この踏み切りの東70mあまりの場所には名鉄三河線の終点だった旧中金駅駅舎が国登録有形文化財として保存されている。
旧中金駅を含めた端の4駅が2004年に廃止され、名鉄三河線の現在の北側の終点は猿投駅(さなげえき)となっている。
旧中金駅が存在していた幼児期に2度、この駅を利用して、旧中金駅でバスに乗り換え、足助町に向かったことがある。
終点直前の最後の踏切の向こう側(北側)には縦より横幅が広く、笠木(かさぎ:鳥居の一番上の横木)の両足だけが跳ね上げてある、特異な意匠の石鳥居が南々西を向けて設置されていた。

愛知県豊田市中金町 岩倉神社 社号標/石鳥居/農村舞台/アカメヤナギ/拝殿

一応、明神鳥居なのだが、柱には榊が取り付けてあり、注連縄も掛かっている。
祭神が天津神(=榊)でも国津神(=注連縄)でも対応できるようにしてあるのは、この神社に関する由緒が一切残っていないからだ。
ただ、磐座が背後の山に存在するということは、国津神(先住民の神)を祀った旧い神社であることを示している。
石鳥居の先には短い石段があり、石段の正面奥には拝殿らしい建物が見えている。
また石段の脇には高木が太い幹を伸ばしており、その右奥にも高木が枝を広げているのだが、その裏面に円墳のようなものが見えていた。

踏切跡を渡って石鳥居を潜り、石段を上がって先に進んだ。
踏切跡の手前から見えていた円墳のようなものに近づくと、それは太い幹が地面に這っており、そこから複数の幹が伸びている奇木と呼んでいいものだった。

豊田市中金町 岩倉神社 アカメヤナギ

しかも根元の幹には大きな空(うろ)ができている。
脇に豊田市と豊田市銘木愛護会の建てた鉄板の案内板『アカメヤナギ』があった。

銘木指定 第125号 ヤナギ科
        胸回り 3.75m
        根回り 4.10m
         樹高 10.00m

中金町 岩倉神社境内案内板(豊田市 豊田市銘木愛護会)

アカメヤナギは新芽が赤いことによる名称だというが、Wikipediaでは「マルバヤナギ」という別名で項目が立っている。
この別名はヤナギなのに葉が楕円形であることによるという。
根元がこんな奇形になることに関しては何も情報が無いが、『庭木図鑑 植木ペディア』には
https://www.uekipedia.jp/落葉広葉樹-ア行/アカメヤナギ

「倒れかかったような個体も多い」という説明があった。
また「低地の河原や谷間などの湿地で普通に見られるヤナギ」という説明もあったが、この場所は特に湿地とは言えない場所であり、アカメヤナギが湿気を探して地面を這った結果なのかもしれない。

アカメヤナギの脇を抜けて20m以内の北にある、瓦葺切妻造棟入吹き放しの拝殿前に立った。

中金町 岩倉神社 拝殿

拝殿前には1対の狛犬が設置してあり、これも国津神要素だ。
拝殿の奥には1.7mほどの高さの石垣上に瓦葺白壁の築地塀が設けられている。

拝殿を裏面の中央に迂回して築地塀内に上がる石段前に立つと、築地塀の中央の開けてある幅に合わせて、やはり瓦葺切妻造棟入吹き放しの幣殿の観音開きの格子扉が設けられていた。

中金町 岩倉神社 幣殿 格子扉

格子扉内に賽銭箱があるので、格子扉下で参拝した。

幣殿内を通して奥を見ると、河原石を組んだ2段の石垣が設けられており、その中央上段には2段の石垣を登る石段を持つ覆屋内の本殿、本殿下の段には本殿の両袖に合わせて左右に2社づつの境内社が並べて祀られている。

中金町 岩倉神社 幣殿内〜本殿/境内社(四社)

あまり見られない配置の祀り方だ。
境内社には以下の表札が付いていた。

    本
豊 津 殿 洲 秋
川 嶋   原 葉
稲 神   神 社
荷 社   社  

洲原神社は、あまり見かけない神社だが、総本社が岐阜県美濃市にある神社で、別名を正一位洲原白山ともいい、白山登頂に至るまでの美濃馬場からの前宮(現在祀られている本殿以前に祀られていた神社)だという。
いずれにせよ白山信仰の対象とみられる神社だ。
その祭神は以下の3柱となっている。

・伊邪那岐命(イザナギ)
・伊邪那美命(イザナミ)
・大穴牟遅神(オオアナモチ)

Wikipedia

本殿は銅板葺流造の立派な建造物で、本殿部分だけ覆屋に収められている。

豊田市中金町 岩倉神社 本殿

境内社は本殿下の段に以下のように並んでいる。

中金町 岩倉神社 境内社(四社)

この神社最大の特徴は拝殿と向き合うように以下の立派な農村舞台が保存されていることだ。

豊田市中金町 岩倉神社 農村舞台

●農村舞台
「農村舞台」とは江戸時代中期から昭和初期にかけて、歌舞伎や人形芝居(人形浄瑠璃)を上演するための舞台が神社の境内に設けられたものだ。
岩倉神社の農村舞台のように舞台専用に建てられたものもあれば、別の用途の建物が流用されたものもある。
もともとは村人が演じる村芝居上演のための舞台だったのが、村に招聘された本職の芝居興業の上演にも使用されたものだ。
日本全国各地の神社に存在し、徳島県にもっとも多く現存するという。
徳島県の神社は数社しか巡っていないので、個人的には三河地区以外で見かけたことはない。
見かけた農村舞台の中でもっとも立派な建物が、ここ岩倉神社の農村舞台だ。
農村舞台は平野部及び都市部周辺には少なく、街から離れた山間部や山麓地帯で、河川や街道に沿って多く分布するとされ、中金町 岩倉神社は、そうした条件に合致しており、濃尾平野では1軒も見たことがない。
歌舞伎が農村舞台の主な演目であったということは、江戸時代に歌舞伎が成立したことと関係しているが、公には江戸時代には村芝居そのものが禁止されていたというので、徳川のお膝元の尾張に農村舞台が存在しないのは不思議ではない。

岩倉神社の農村舞台は瓦葺入母屋造で、頭貫(かしらぬき:左右両方の柱に横に渡して軒下を支える構造材)に巨大な1本材が使用されているのが見ものだ。

豊田市中金町 岩倉神社 農村舞台

ここの農村舞台では舞台中央に回転する回り舞台が組み込まれており、これはここ以外の農村舞台では見たことがない。

中金町 岩倉神社 農村舞台

農村舞台の脇には教育委員会の製作した墳墓脇の案内板『岩倉神社舞台』が立てられており、以下のようにあった。

豊田市指定有形民俗文化財

この舞台は江戸時代後期、文化5年(1808年)の建立で、間口8間、奥行5間の市内では一番大きな舞台です。また、舞台の中央部に直径18尺の回転床、いわゆる「廻リ舞台」を備えていることが大きな特徴です。
昭和30年代までは、歌舞伎や芝居の興行が盛んに行われていました。以降、娯楽の多様化が進み、使用頻度の減少とともに、損傷が激しくなった為、平成13年、周り舞台を含めた大改修を行いました。
平成3年に実施した農村舞台の調査により、この舞台は農村舞台の遺構を伝える貴重な民俗資料であるとして、平成12年、豊田市の有形民俗文化財に指定されました。

中金町 岩倉神社内案内板『岩倉神社舞台』 豊田市教育委員会

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尾張の場合、江戸時代中期に財政緩和策の一環として、歌舞伎を尾張に招聘した尾張第七代藩主徳川宗春(むねはる)という例外的な人物が存在します。宗春は本人が傾奇者(かぶきもの)として知られた人物であり、傾奇者を主人公にした漫画『浮浪雲』や劇画『花の慶次』のモデルにもなった人物です。宗春の行った政策は緊縮財政を実行した第八代将軍徳川吉宗の政策に逆らって行われたもので、このことが江戸時代に公に村芝居が禁止された要因になった可能性も考えられます。宗春(尾張徳川藩主)と吉宗(紀州徳川藩出身の徳川将軍)の間の遺恨には遠因が存在しました。それは家格が上だった尾張徳川家(初代藩主が家康の九男)からは一人も徳川将軍が出ていないのに対して、家格が下の紀州徳川家(初代藩主が家康の十男)の家系が徳川将軍をほぼ独占していたことによります。このことは第八代将軍選定の際にも尾張藩と紀州藩の間での対立につながり、さらには徳川幕府が滅び、明治政府への政権交代の際にも尾張徳川家が真っ先に明治政府に加担したことにつながっています。日本での一族をないがしろにされたことによる恨みは個人が貶められた恨みよりはるかにパワーがあるわけです。

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