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【短編再編集】バトン 〜僕と今村くん〜 約25000文字

連載した「バトン」を再編集した青春小説です

【1】
僕が、今村くんと出会ったのは、3年前の高2の夏で蝉がジリジリ鳴いてる時だった。

今村くんは自転車で僕の目の前を横切って、2メートル先で転んだ。

半ズボンを履いていて、膝がパカって割れて血が湧いて出るようだった。

「おい!ボサっと突っ立ってないでなんとかしろ!!」

自業自得な怪我なのに目が合っただけの僕にえらい上から目線で助けを求めてきた。

僕はその姿があまりにもおかしくて目の前で起きている悲惨な状況を笑ってしまった。

「笑うか!?こんなシチュエーションで!!」

大声で怒鳴り散らすも痛いとは一言も言わない。強がりなんだろうか。怒鳴り散らすことで気を紛らわせているんだろうか。
その時の僕には全くわからなかった。

傷口から流れる血は、地面に染みていく。
このまま、放っておいても良いけれど、もし、この人が死んだら僕にとって非常に後味が悪いだろう。


僕は彼の脚をじっくり見てから持っていたハンカチで傷を抑えた。他には何も持っていなくて止血できないから血はどんどんハンカチに吸い込まれていった。

「俺、今村ってーの。お前は?」
「杉崎。」
「杉崎、これは救急車案件じゃないか?頭がだんだん涼しくなってきたんだが。」
「ふーん。意識はあるし、今のうちに自分で呼んだら?」
「なんだと!お前が呼べ!」
「…立てないの?」
「バカヤロウ!!立てるわけあるか!」

今村くんは、そんなことを言いながらも立ち上がったけど、すぐに立ちくらみで地面に吸い寄せられた。
「人生の最期に話した人間が杉崎だと思うと悔しい。」


僕は顔色の悪くなる今村くんを見て仕方なく救急車を呼んだ。



「おい、杉崎。」
木漏れ日が降り注ぐ境内。
祭りの最中、原付で僕の目の前に現れた今村くんは相変わらずだった。アロハシャツで、タバコを咥えて威張り散らかしたような視線を向けてくる。

「相変わらず冴えねーな。祭りなのに彼女もいねーのかよ?」
僕を見て冴えないと言うのは、今村くんくらいだ。僕はそんなにいかにも幸の薄そうな人間ではない。

「杉崎、悪いんだけどさ。」
大概、本当にまずい話の時にはこんな切り出し方をするものだ。しかし、その逆もあるから、両方の心の準備をしなければいけない。
僕は、唾を飲み込んで話の続きを待つ。

「預かってほしいんだよ、これ。」

意外と勿体ぶらずに僕の目の前に厚い封筒が差し出された。中には何が入ってるんだろうか。
「さて、問題です。」
…何が入ってるでしょうかクイズが間も無く出題される。
「この中には現金がいくらか入っています。これを持ってどこに行くのが杉崎は1番安全でしょうか。」
「え。」
予想とは全く違うクイズだった。
「なんのお金?」
「後で話す。後があれば。」
「いくらかって、いくら?」
「数えてねーわ」
今村くんは、僕に渡した封筒を見ながら深刻そうな顔をしている。その顔が冗談に見えるのは、元々の今村くんのキャラクターのせいだろう。
「やだ。預かれない。」
「預かれよ。俺はお役御免だから。じゃーな。」
原付に跨ったままだった今村くんは、エンジンをかけるとアクセルを吹かして走り出そうとする。

「待って!意味がわかんないよ。」
「杉崎、頼んだ!」

原付で今村くんが走り出し公道に戻っていく。僕は追いつけないと分かりながらも追いかける。

「今村ー!!」
僕の声ではない今村くんを呼ぶ荒々しい声と共にパチンと音がした。どこかで聞いたことのある声だとそう思う。
黒いバンが今村くんの原付を追い越して、今村くんが原付と一緒に倒れた。

今の出来事は、僕しか見ていないような感覚に襲われる。厳かな雅楽が境内に響き始めて神楽の奉納が定刻通りに始まりそうだったから。

僕は封筒をシャツに潜らせて今村くんを助けないといけないと思って駆け寄ろうとした。

「バカヤロウ!!来るんじゃねー!!」
声を振り絞って叫ぶ今村くんは自分から流れる血液の中に寝転んでいる。頭からも腹部からも赤い色が広がっていく。


僕は顔色の悪くなる今村くんを見て仕方なく救急車を呼んだ。



あれから救急車が来て今村くんが運ばれていくのを見て、僕はなんとなくこのまま家には帰れないような気分になった。

今村くんが、あんな怪我をしたのはこの封筒が原因だということは目に見えてわかっていて、すぐにでも、僕も手放したいと思った。

しかしながら、現金なのであればいくらあるのか。それだけは確認したいと思うのは人間なればこその感覚なのではないだろうか。

果たして、何をして得たものなのか。
今村くんからはなんのヒントも得られなかった。

僕は、人目に触れない物陰に隠れて封筒の中を見た。

「え…。」

開けてしまったことが間違いだと気づくには、そう時間はかからなかった。

現金は300万円。それともうひとつ、白い封筒が出てきた。白い封筒には鍵が2つ入っていた。どこの、なんの鍵なんだろうか。

何と繋がっているものだろう。

今村くんは、死んでしまうんだろうか。


頭の中に言い知れない恐怖が浮かぶ。
なぜ、今村くんは、あんな目に遭ったんだろう。いや、その答えは、あんな目に遭うだけのことをしたんだろう、ということ。

恐らく、銃で撃たれた。銃を持っているような人物との繋がりが今村くんにあるということ。自ら繋がったのか、巻き込まれたのか。今村くんは、はっきりと名前を呼ばれていた。



今村くんと僕は友だちだっただろうか。

僕はそもそも今村くんをどれだけ知っているだろうか。

高校2年から3年に進級しすぐに誕生日を迎えた僕に今村くんがくれたものがあった。

「教えてよ。今村くん。いったいこれは何?」
って聞くと、くくって、笑って、そのうちわかるって言ったんだ。
結局わからなくて、ずっと押し入れにしまったままだった。

ずっと忘れていたのに、なぜか今思い出す。

僕が今、預かった現金と鍵も全く意味がわからない。これが、どこにつながるものでも……これを託した今村くんに、答えを聞けることはあるんだろうか。


僕のとるべき行動は……

封筒をシャツに隠して、ふっと息をついた。

うん、家に帰ろう。

きっと、高校3年生の僕がやったことは正しい。
わからないものはとりあえず目につかない場所に仕舞い込んで間違いない。

今村くんはさっき、後で教えると言ったんだ。
だから、信じる。

今村くんは死なない。きっと、助かる。

少しだけ、人目を気にしながら家まで遠回りをして帰る。

自分の部屋の押し入れを開けた。
高校3年生の僕が仕舞い込んだ今村くんからの貰い物が、ガタンと音を立てて転がってきた。

僕はそれを見て、やっと意味がわかった。

「ばかだ。今村くんは。」

鍵穴のある手帳。2年も前に何かを書いたのか。

現金と一緒に入っていた白い封筒に入った2つの鍵。大きいものと小さいもの。

小さい鍵を鍵穴に入れて回すとカチッと音がして、手帳が開いた。

ページを捲ると挟んであったものが床に落ち散らばった。

「教えてよ。今村くん。いったいこれは何?」


知らない街の知らない地図。メモ欄にはたくさんの数字が書かれていた。


【2】

全部夢なら、今、きっと僕は幸せだ。

起きるのが苦手。
夜眠りについても、昼寝でも。なんで起きなきゃいけないのって眠くて眠くてぼーっとする。


「おはよう」
朝はまず、カーテンを開けるから眩しいし、次には頭をくしゃくしゃにしながら枕に押し付けられる。ここに泊まるといつも。
「ほら、起きな。」
無理やり体を起こされる。Tシャツとボクサーパンツしか身につけていない僕は、抵抗して目を閉じたままにしていている。
「起きてるんでしょ?」
体をくすぐられるからたまらない。
「やめてよ!」
「なんでキレるの?起こしてあげたのに。」

膨れっ面で前を見るとニヤッと笑って、頬を潰してくるのが引くほど痛い。本当、嫌で嫌で涙が出てくる。
「起きない夕陽が悪い。」
夕方、日の沈む頃に生まれたから夕陽。ギリギリまだ、月が出てなくて良かった。月がつく名前になってたらほんっとに馬鹿にされていただろう。
「ん!ん!」
僕は抵抗して、頬を潰している手をどかそうとする。
「んぐっ!」
僕より力が強い。今度は体を倒される。毎回朝はこんな調子。
「夕陽、いつになったら1人で起きられるの?ずっと俺が起こしてあげないとダメなのかな?」
顔が顔の近くにあって、はっとした。この人は、兄ではないが僕より5つ年上だ。

今村くんと同じ歳で、今村くんを少しだけ知っている。

僕はいくつか人のうちを泊まり歩いていて、この人のうちに来るのが1番頻度が高い。

「夕陽。」
そう言って僕の唇に唇を重ねて
「目、覚めた?」
その人の手は、僕の頭を優しく撫でている。撫でられるたびに目が冴えてくる。
「あの、大輔さん?」
「何?」

目が覚めた僕は、昨日目の前で起きたことが頭に浮かんだ。


今村くんから預かったものは、自宅の押し入れに見えないように隠してきた。あの地図は、いったいどこの街なんだろう。

大輔さんは見た目、心が男だけど、体は女から男になって性別が女だった。Xジェンダーで、戸籍の性別をまだ変えていない。時々タバコを吸うその指の爪は赤い。人間としてオシャレに余念がないんだ。
「…今村くんに昨日会った。」
「ふーん。…で?」
「うん。」
「相変わらず、バカみたいだった?」
「えっと、…うん。」
「友達になると損するから、今くらいの距離でいなよ。」
「…うん。」

今村くんが、死にかけてるとは口が滑っても言えないと思う。預かったもののことも言うのをやめておこう。

「セックスしよう、夕陽。」
「…そのために起こしたの?」
僕のTシャツに手を潜らせて、背中を撫でてくる。大輔さんの恋愛対象は、男でも女でも関係なく、好きになった人。
「違うけど。今村の話聞いたら、なんかムカついて。」
「やだな。」
「なんで?」
「ムカついてするなんてバカみたいだよ。それより」
「ん?」
「ハムエッグ作って。ハムは2枚。」
「は?」
「大輔さんと一緒に朝ごはん食べたいの。」
「夕陽って、本当にバカじゃない?」
僕の耳を軽く齧って、ふっと笑う。

今村くんの本当のことを話さなくて良いんだろうか。あの地図の通りの場所に行ったら、二度と大輔さんには会えないかもしれない。

立ち上がってキッチンに行く大輔さんを見送る。
振り返る大輔さんが、ベッドから降りない僕に
「ほら、起きな。」
そう言って笑う。
「ちゃんとズボン履けよ。」
ジャージのボトムを渡される。


大輔さんの本当の名前は恵。めぐみっていうらしい。外見を変えてしばらくは、けいって、自分のこと名乗ったらしい。でも、僕が会った時はすでに大輔さんだった。

大輔って名前は、双子のお兄さんの名前で、そのお兄さんは、失踪か誘拐かわからないけどいなくなってしまったと教えてくれた。

いなくなってから2年。

僕は会ったことのないその人を大輔さんの顔から想像するけど、全然違う顔だと思う。

大輔さんは
「今度、エラ、もう少し削ろうと思ってさ。」
コーヒーを飲みながら顔のラインをいじってにこやかに話すほど整形マニアだ。
「…痛そう。」
「たぶん、二日は死ぬ。」
「どこでやるの?」
「決まってるでしょ。」
「うん?どこ?」
「韓国」
「お土産買ってきてね。」
僕は意外と今の大輔さんの顔が嫌いじゃない。
「夕陽は、良いよね。」
「ん?」
「顔、変えたいなんて思わないでしょ?」
「うん、平均よりちょっと良い顔してるから。」
「へえ。言ってみたい。」
「でも」
「ん?」
「別人になりたいって思う日は来るかも。」
「え?」
「いや…わかんないや。」
「俺、夕陽の顔、好きだな。」
僕も、大輔さんの顔好きだよって言えたらいいんだけど。人によって作られた顔を好きも嫌いも僕の言うことじゃないんじゃないかって。

「兄の顔も好きだった。」
時々、お兄さんのことを話すと寂しさが見える。もう生きていないのか、どこかで生きているのか。
探すのはやめてしまったんだろうか。まだ、探しているんだろうか。

「今日はこれから、学校?」
「うん?うん。…いや、夏休みだから。」
焼いてもらったハムエッグは、ハムが2枚。お皿の脇にはブロッコリーがあって、違う器にはレタスが盛り付けられていてスライスチーズにミニトマトとキュウリが乗っていた。
「大輔さん、仕事は?」
「休み。」
「ふーん。大人はさ…。」
「ん?」
「大輔さんみたいな人のことだと思う。」
「何?」
「うん。子どもは困ったらさ。」
「ん?」
「大人に相談して良いんだよね。僕はもう子どもじゃないけど。子どもはいいね。」
「困ってるわけ?夕陽。」
「どうかな。わかんない。」
「そう。」
「うん。」

ハムの塩味で卵の白身を食べる。黄身にはほんのり甘みもある。ブロッコリーを黄身につけて口に運ぶ。レタスの甘み、トマトの酸味、チーズの塩味、きゅうりの青々しさ。
ドレッシングなんかいらないんだ。

そのものが持つ存在にそもそも意味があって世の中は過多なものが溢れている。装飾が多すぎる。大輔さんだってもう整形なんかしなくて良いのに。

ご馳走様を言って、食器を下げてから歯を磨く。
大輔さんの家には僕の必要なものが揃っている。
僕の横で大輔さんがタバコを吸い始めた。

「今村くんは、困ってたのかな。」
「え?」
「誰と、どんな人と、関わっていたんだろう。」
「今村、なんかあったの?」
「……うん。本当にバカみたいだよ。笑っちゃう。」
「何?」
「はっきりは分からないけど。バカなことをしたに違いない。でも、教えてくれなかった。全く。何も。何ひとつ。大事なことを言ってくれなかった。
僕をバカにしているとしか思えない。あんなバカな人にバカにされるほど悔しいことはない。」

もしかしたら、誰かに僕もあんな風に怪我をさせられるかもしれない。もしかしたら、僕と関わる人、全てを巻き込んでしまうかもしれない。
そう思うと、急に怖くなった。


「大輔さん。また。」



靴を履いて立ち上がると、大輔さんにお尻を蹴られた。

「困ってるわけ?夕陽。」


【3】
水の流れる音はよく聞いた。川がそばにあったから。僕の暮らす街には大きな川とそばを流れる小さな川があって、高校1年の時、台風で増水した川の水が遊水池に流れ込んであと少しで僕の家は飲み込まれるところだった。

ここも一緒。
水の流れる音が大きく聞こえる。
まさか、僕を連れてきたこの地図の示す場所がこんな場所だなんて。水門の管理室。ドアに鍵穴。
ここ数年は、台風でも災害級の雨が降ることはなかった。しかし、この鍵は、今村くんが持っていて良いものだったんだろうか。少なくとも2年間は、この管理室を開ける用事がなかったということ。

ここに、今村くんから預かった鍵をさして回せばどうなるというのか。

初めて来た町の、初めて来た川のそば。
鍵を握る手が震える。白昼堂々。僕は僕のまま、こんな怪しげな扉を開けようとしている。

ドラクエでも、もう少しマシなシチュエーションでダンジョンを攻略するはずだ。

いざ、何か起きた時。逃げる手段は。
何も持ってきていないことに気づいた。

出直そう。
僕の率直な気持ちだ。



大輔さんのマンションを出て歩いて自宅に向かう途中。スマホが震えた。見ると発信者は今村くんで
『きゅうきゅうしゃさんきゅうきゅう』
と、起き抜けで寝ぼけながら打ったと思われるLINEが入っていた。

僕は、それを見てふっと笑って、今村くんが生きていたことを嬉しく思った。生きていた。助かった。これから今村くんがどうなるかは分からないけど、生きていてよかった。と、心が軽くなった。

自宅に戻り、押し入れを開けて奥にしまった手帳と鍵を取り出した。地図の通りとにかく行ってみよう。今村くんが僕に何を託したのか確かめてみよう。


今村くんが生きていることで僕は少し、気が大きくなっていて、
『友達になると損するから、今くらいの距離でいなよ』
という大輔さんの忠告も、今村くんが何者かに怪我をさせられているという現状も全て霞んで見えていた。


だから、電車を乗り継いで、何も考えずにここにきてしまった。
警戒していたはずなのに。

もしも、取り返しのつかないものを目にしたら。

死体か、大金か。
その2つのうちのどちらが出てきたら…あるいは。

ここまできてしまったのだから開けるしかない。いや、むしろ開けたい。鍵を回して扉を開ける。

人はいつも自問自答を繰り返している。

やるかやらないか。

やはりやらない方がよかったと、後悔するのはいつもやった後の方。

僕は今、やはりやめておけばよかったと激しく後悔している。

「……。」
腐敗臭。
黒い皮膚。
焼きついた血の匂い。

「死ん…」

だけど、だけど、上下に左右に膨らんだり縮んだりを繰り返している。

「…今村、遅いよ。何してたんだ。」

細い声を出して、僕を睨めあげる。肩で息をしながら、死に損ないが腐った息を吐きながら。
「…誰?…お前。」
「今村…くんに、…頼まれました。」
「…はあ?」

僕の方こそ”はあ?”だった。

川の水の音にプツプツと叩きつける音がし始めて、僕にも降りかかってくる。

雨だ。

雨に気を取られていると目の前の男が僕めがけて何かを投げてつけてきた。

よく見ればウジムシの絡みついたガーゼの束。
僕は、一瞬にして吐いた。
消化しきれていない食べ物が形を変えて胃液と一緒にウジムシにビシャリとかかる。

「おい!何ぼーっとしてんだよ!」

初めて今村くんと会った時のことを思い出す。
「何しにきたんだ!テメェは!」

なぜ、こんな汚い気持ち悪いものを目の前にしなければならないんだ。
「知りません。」
「ふざけんな!テメェはなんだ!!何の用だ!」
「知りません!」
「バカヤロウ!」
おまけによく喋る。
だけど、おそらく動けない。片方の足がない。脚はあるけど。

僕は力づくで扉を閉めて鍵をかけた。
「どうせなら食い物置いていけ!!ふざけんな!!つーか!今村、今村はどうした!!」
扉の奥から聞こえる声が胸の奥を抉るようだ。

この人も今村くんも何に巻き込まれていて、僕も何に関わっているんだろう。

足元には僕のゲロ、ウジムシに血のついたガーゼ。

こんなもの、もしも誰かが見つけたら、何か事件だと思うだろう。

いや、事件が起きてる。
人が2人、何らかの事件に巻き込まれている。

「警察……わかんない。
何て話せばいい?…全然わかんない。」
手に取ったスマホ。どこにかけるべきなのか。番号が押せない。

「今村くん、全然わかんないよ。」



出直そう。
僕の率直な気持ちだ。


「俺な痛み感じねーんだ。そんなやつ、俺しかいねーって本気で思って。でも、あれ、もう1人いるんだよ。世の中ってやつはせめーなって。」
自転車で転んだ今村くんを病院に救急車で運んだその日に言われた。

それはあの夏の一番の衝撃で、動かない脚を松葉杖をついてぶら下げて帰る今村くんの横で僕は言葉を失った。

「一発殴ってもいいんだぜ。」
こいこいとばかりに手招きをされて、僕は、思いっきり今村くんの胸を殴った。
今村くんは、道に倒れて咳払いをした。
「あ」
「あ、じゃねーよ!冗談きついな!杉崎!!衝撃もくるし、骨は折れるんだよ!折れたらどうするつもりだよ!!」
「だって。」
「普通、軽く、ペチーンってビンタするくらいだろ。」
「それじゃつまんない。」
「ったく!思いやりがねーな。」
痛くないからって不死身ではないって言う。それでも、なんか漫画みたいだと思った。
痛覚がない人が世の中にいるなんて。

松葉杖をつく今村くんの横を、僕は今村くんの自転車を引きながらゆっくり歩いていた。





「今村の言ったとおりだ。お前、真面目だな。」

僕は自分がこんなにもお人好しで律儀だと初めて知った。一旦立ち去った場所に、食糧と消毒液にガーゼを持って帰ってきた。

「うえぇぇええ。」
「変な声出すなよ。」
僕の買ってきたインゼリーを口に咥えて、僕にガーゼの交換をさせている。
ただれた赤黒い皮膚は膿があり、膿にはウジムシがくっついて、僕がそれを手で摘んで取り除いて浮き上がってくる血液をガーゼで拭って、消毒液をたくさんかけると泡がぶくぶくと湧いてくる。
「ああーうーぅぅう。」
「うるせえっ!!」
「だって、気持ち悪いぃい!」
「失礼なヤツだな、お前。」
「痛くないの?ねえ?」
「俺、先天性無痛症なんだよ。」
「何それ?」
「今村と同じだ。」
思いっきり胸を殴ってみた。
やっぱり、咳き込んで
「急に何すんだよ!!バカ!」
「今村くんは、こうしろって。」
「はあ?お前、衝撃はくるし、骨も折れるんだよ!」
「うん、今村くんも同じこと言ってた。」
「はあ?」
僕は殴った拳を見て激しく後悔した。潰れたウジムシがこびりついている。げんなりした僕を見るなり
「自業自得だ。」
そう言って、僕の手のウジムシを振り払ってくれた。僕は自分の手に沢山の消毒液をかける。
「今村は、あれでいて怪我人には優しかったけどな。お前はまるで小学生だな。うるせーし、乱暴だし。」
「なんで、初対面でガーゼ交換してあげてるのにそんなこと言うの?」
僕よりもずいぶん年上だとは思う。弱った体は、動く部分が少なかった。
「戻ってきただけ褒めてやんないとな。」
「それだって、僕が買ってきたんだけど。」
「気が利いてるよ、インゼリー。口ん中も喉も焼けてるから、普通の固形物は入って行かないからな。」
「…知らないけど!」
誰なのか全然わからない。今村くんとは知り合いだということだけがわかる。
「嫌な気分だろ。見ず知らずの他人の…。」
「嫌ですね、やりたくないです。」
「正直。だけど、真面目だな。」
「ちょっと黙って。」
「慣れて来たか?悲鳴上げなくなったな。」
この人の言う通り、悲惨な見た目のこの人の体がただの物体に見えてきた。適応するのが早いというか、すぐに受け入れる自分が少し怖い。
「僕、スプラッタ映画得意なんで。」
「…スプラッタか。」
全身のガーゼを変え終わる頃には、足元からウジムシが体に上って来ている。
「…なんで、もう。」
「コイツら、俺を死体だと思ってるからな。」
僕は、足元に、消毒液をかけて、なんならウジムシにもそれがかかるのも構わないくらいに乱暴に消毒液を振り撒いた。
「アルコールが臭えよ。」
「腐敗臭よりマシだよ」
「お前なあ……。まあ、いいけど。」
比較的まともに動く右手で、自分の頭を掻いた。顔も半分以上、火傷を負ってただれている。
「お前、…杉崎だろ?」
「…なんで?」
「今村が、自分が来れなくなったら、杉崎って言うチビが来るってそう言ってた。」
「え」
僕は自分の背がチビだとは思っていない。今村くんが僕をチビだと言ったことが少しショックだ。

「いよいよ、ヤバいって言ってたからな。殺されたか?今村。」
諦めた顔をする。やっぱり、何か事件に巻き込まれているし、そういう、僕の知らない世界の出来事が目の前で起きている。
「血がいっぱい出たけど。」
「ん?」
「さっき、変なLINE来たから生きてると思う。」
「そか。助けてくれたのか、お前。」
「救急車呼んだだけ。」
「ありがとうな。」
まるで子供に言うみたいだった。伸ばした右手で僕の頭を撫でる。僕は人に撫でられるのが好き。どんな人であれ、それをされると嬉しい。親にされなかったことだから。

けど、顔をよく見ると目元が誰かに似ていてぞっとする。
「名前、教えてよ。なんて言うの?なんて呼べばいいか分からない。」

「…亜島大輔だよ。」
亜島は、大輔さんと同じ苗字だ。思いたくはなかった。大輔さんのお兄さんがこの人だとは。大輔さんは痛覚のある人間だし。

「お前、覚悟してるか?」
「え」
「今村が、再起不能なら、お前がやるしかない。」
「待って。なんの話?」
「明日は手帳を持ってこい」

僕は、使い終わったガーゼをゴミ袋に詰めた。
「今村も俺も死んでると思われている。お前、それは自分で燃やせよ。ソロキャンでもやって。」
「は?意味わかんない。」
「そんな得体の知れないゴミ、事件ですって言ってるようなもんだろ。」
亜島さんも、今村くんも僕に命令ばかりする。僕はなんでこの人たちの言うことを聞いてるんだろう。

「これ持って警察に行こうと思ってるよ!」
「テメェだけじゃなく、テメェの家族も、テメェの女も死ぬぞ!」
「なんでだよ!!」
「俺は、ガソリンかけられて燃やされてんだ!」
「それは見ればわかるよ!!」
「なんで怒ってんだよ!」
「わかんない!!」

わからないままに、巻き込まれて、わからないままに危険な目に遭わされるのが嫌だった。この人が大輔さんのお兄さんだということも嫌だった。

「ちゃんと教えてよ!」
僕が言うと、亜島さんは口の端を上げてニヤリと笑う。

「今村の言ったとおりだ。お前、真面目だな。」

処分しなくちゃいけないゴミを、川のそばで焼いた。本当はやってはいけないことだとわかっている。でも、燃やすしかない。
アルコールを含んでいるからよく燃える。ウジムシもガーゼも全部一緒に燃えた。


僕はテレビも新聞もあまり見ないから社会の闇とか全然知らなくて。
闇っていうのは意外とそばにあって、昔はヤクザ、今は反社って。
元反社って言うのはザラにあって…実は反社ってのもいくら暴排の街と謳っていても、やっぱりあって…

「お前、意外と頭悪いのな。」
約束通り手帳を持って来た僕に、ガーゼを今日も丁寧に交換する僕に、インゼリーをいろんなフレーバーを買って来た僕に、亜島さんはため息をつきながら言った。
「わかんない」
「新聞読め」
「嫌だ。あんな大っきくてかさばるの嫌だ。」
「…テレビ見ろ」
「嫌だ。時間縛られたくない。」
「反抗期」
亜島さんは、必要以上に大きなため息をつく。インゼリーの蓋を開けろと僕に促してくるから、蓋を開けて、僕がインゼリーを咥えた。
「おい!」
「亜島さんが悪い。僕は機嫌が悪い。」
「ガキ!お前が、教えろって言うから、話したんだろ?な?違うか?な?」
「あ、これ美味しい。」
「…ふざけんなよ」
仕方なくもうひとつ、インゼリーの蓋を開けて亜島さんに渡した。

2年前、亜島さんと今村くんは、県の職員で公共事業部の上下水道課で、水道設備工事の入札に関わっていた。
今村くんが、そんな固い仕事をしていること自体意外だったんだけど。
設備工事は民間の建築会社が請け負う。一般競争入札には、いくつかの民間の企業が手を挙げ少しでも安いところに仕事が回るのだ。

「一般競争入札に参加したのが大橋組だった。」
大橋組は、大きな建設会社ではない。どちらかといえば一次請負会社の仕事を請け負う会社だった。
「ほら、夏祭りで、テキ屋やってただろ?焼きそばおおはし。」
「あ。美味しくなさそうだから買わなかった。焼きそば、麺が焦げててキャベツ全然焼けてないの。あれに比べたら僕が作った方が美味しいよ。」
「チビよお、大事なの、そこじゃねーかんな。」
「え。」
地元の夏祭りでたびたび焼きそばやお好み焼きを売っているテキ屋ということの方が僕には馴染みがあった。
「でも、2年前から夏祭りで見てない。」
「……なあ、チビ。」
「ん?」
手帳を手に取って亜島さんが、数字を見せて来た。
「設備工事の入札金額だ。」
「あ。」
「大橋組は反社だ。」
「へえ。」
「驚かないな。」
「なんか、そうかなって。話の流れで。で?」
「反社だと分かったのはすぐで、俺と今村は、大橋組から入札条件の横流しを頼まれた。」
「え、談合じゃん。」
「…違うな。違う。ここぞとばかりに言ったんだろうけど違う。」
亜島さんは、頭の悪い僕に哀れみの目を向けて来て、なんかムカついた。
「あのさ、300万円は、それと関係ある?」
「なんだ、勘はいいみたいだな。情報料だ。」
「それ、犯罪じゃん!」
「そうだな。」
「もう…。今、それ、うちにあるんですけど。え、ほんと、もう、ええ…。」
「引いてるな。」
「引くよ。」
一般競争入札は、最低限の条件、金額は公開されるもので、裏から情報がいるようなものではないはずなのだが他社の金額がある程度、事前にわかるのを流せと言われ、情報料を受け取ってしまったのが今村くんだった。
「もう、なにやってんの、今村くんは。で、情報流したの?」
「流したが、全部、嘘だ。1000万ずつ高い金額を教えて、大橋組は仕事が取れなかった。」
「で?」
「逆恨みで俺が焼かれた。」
「引くわー。」
「そもそも大橋組でできる事業じゃなかったし、落札できなくて良かったんじゃないか。県としても。大橋組としても。」
「…知らないけど。」
「それが、2年前の話だ。」

僕が今村くんから手帳を受け取ったのが2年前。大輔さんのお兄さんがいなくなったのも2年前。完全に一致した。
「ねえ、双子の妹いるでしょ?」
「…は?」
「探してる。亜島さんのこと。」
「どんな関係なんだ?」

大輔さんと会ったのは今村くんが連れて行ってくれたゲームセンターだった。シューティングがめちゃくちゃうまくて塾の先生だって。

「会いたい?」
「…会えると思うか?」
亜島さんの全身をじっと見た。
「僕なら嫌だ。自分の兄がこんなだなんて。」
「だよな。」
「でも、めぐみさんはどう思うか…わかんない。」
「本当に知ってるんだな。」
「なんていうか……。…。」
「なんだよ」

大輔さんの体は、ほとんど男で僕は抱いているのか抱かれているのかいつもよくわからない。
「………してる。時々。」
ただ、抱き合うとお互いに安心するのはよくわかった。
「セックスか?」
「まあ、うん。」
そんな大輔さん…妹さんの姿を亜島さんは、知っているんだろうか。

「ガキが。」
亜島さんは、くくって笑って、インゼリーを開けろって顎で僕に指図する。
「最悪」って笑いながら言って。

仕方なくもうひとつ、インゼリーの蓋を開けて亜島さんに渡した。


【4】
鳥の声が聞こえる。

ふかふかの羽毛布団を下に敷いて体を投げ出してベッドにうつ伏せで転がっている。
クーラーがよく効いていて朝になってもカーテンを開ける人がいない。
僕にとっては天国のようなマンション。

家主は上田麻友。
大学の友達。お父さんが起業家で家にはお金がたくさんあって、麻友は大学生になってすぐに一人暮らしのマンションを手に入れた。

「夕陽、ねえ、夕陽」
うつ伏せで寝ている僕を仰向けにして無理やり唇に唇を重ねて舌を入れてくる。
麻友は恋人じゃないけど。
「ねえ、起きてよ。」
「う…。」
泊まり歩いているうちの1人。
「久しぶりに来たんだからさ、しようよ。」
セックスが好きで、経験人数は両手に収まらない。
「良いけど…眠い。」
「麻友、夕陽来るの待ってたんだよ。」
そんなことを言いながら横に寝転がって、服の上から触ってくる。上手って思う。
「なんか、そういうお店みたいだね。」
女の子の体は嫌いじゃない。
麻友を抱き寄せると柔らかいし、服の中に手を入れて触るとすべすべしている。良い匂い。
胸を触れば小さく息を漏らす。首筋にキスをするとピクッと体が跳ねる。

でも、僕の手は汚い。洗ったけど。シャワーも浴びたけど、気持ちが悪い。こんな手で、人に触って良いんだろうか。

「もっと触って。たくさん。」
麻友の言うまま下着の中に手を入れて、顔を見ると照れているような切ない顔を見せてくる。
麻友の下着を下げて、僕も下着を下げる。

なんか、大輔さんに悪いような、胸の奥が痛いような気分だ。
麻友と大輔さんは同じ人間で何が違うんだろう。

僕と麻友は、ただのせフレだから。
好きな時に好きに交わって、恋も愛もなくて。
「欲しい、夕陽の。」ゆっくり触ってくる。何も考えられないくらいの僕が良いよって言うのは知ってるのにありきたりのことを言う。

大輔さんは、いつも何も言わない。ただゆっくり僕と向き合って抱き合うだけだ。

「麻友、お願い後ろ向いて。僕、正常位だと感じない。」
「え」
「お願い」
嘘だけど。今日は、麻友の顔を見たくないと思った。僕の汚い手で、体のあらゆる場所を触った後、顔を見ながらするのは悪い気がする。
「ゴムしちゃダメだよ。そのままの夕陽が欲しい。」
「…うん。」

僕に起こった全てのことは麻友に全く関係ない。

麻友の中に指を入れる。粘膜が指に絡みつく。僕の汚い指に。できるだけ優しくするけど、何も考えないこの行為に意味を見出せない。
荒くなる麻友の息遣い。
「挿れるね。我慢して。」
「え」
無価値。欲を満たすだけの価値のない時間。

麻友は僕が腰を動かすたびに、甲高い声を出すけど、現実味がなくて、僕はもともとそんなに長くできる方じゃないけど、ずっとずっと早く終わらせてしまいたくて乱暴に扱った。


なんの意味もない。
好きでもない。
大切でもない。

麻友にとって、僕はそういう相手。

「ゴム、させなくてごめんね。」
「大丈夫なの?本当に。」
「生理、終わったばっかりだから」
「じゃあ、もし、できたら結婚して。」
「私、ちゃんと付き合ってる人いるから。夕陽とは遊びなんだよ。ちゃんと付き合えるのは夕陽じゃないの。」
「……知ってる。」

大学で出会った麻友の顔が好きだった。性格も。初めはちゃんと麻友に恋してた。
付き合っている人がいると知って、僕は好きな気持ちを取り下げようとしたけど、麻友はセフレならなって欲しいと僕を受け入れた。

麻友が付き合ってる人は年上で、麻友の父親の会社の人。僕はよく、この部屋でその彼氏に会う。
会社では図面を引いていて、若いのに、優秀だとか。優しそうに見えるけど、目の奥に何か嫌なものを感じる。

「彼氏とはいつ会うの?」
「もうすぐ来る。」
「僕、帰るね。」
「セックスはやっぱり、夕陽の方が上手だよ。」
「嬉しくない。適当だし。」
「ちゃんと付き合ってあげられなくてごめんね。」
「うるさい。」
「またね。」

僕は麻友の家に勝手に来たのに、勝手に嫌な気分になって、なんて自分勝手なんだろうって。



麻友の部屋を出て、麻友の彼氏とすれ違う。相変わらず、目の奥が死んでいて気持ちが悪い。

「久しぶり。杉崎くん。」
「おはようございます。江藤さん。」
「ありがとう、麻友の子守り。」
「え?」
「なんか君、臭いね。エタノールの匂い。と、血の匂い?かな。」
「……生理、終わったばっかりみたいで。」
「そ。」
「嫌じゃないの?彼女、僕としたんだよ。」
「別に。
君のおかげで、あの赤ちゃんとしなくて助かる。
じゃあね。おチビちゃん。」

僕は、江藤というこの男が世界で一番大嫌いだ。



田舎の駅は無人駅が多い。
切符を買ってホームで電車を待つ。

今村くんが死にそうでも、亜島さんが大怪我を負ったまま2年も水門の管理室に身を潜めていても世間は何事もなくて、水面下の事件には誰も気づいていない。

駅のホームに風が吹く。
電車が来るとアナウンスがなる。
人が少しずつ集まり始める。



鳥の声が聞こえる。

ドラッグストアとセレクトショップで買い物をして電車を乗り継いで、美術館のある街に来た。


僕を大事にしてくれる人。
大輔さん。それに…

「あら、杉崎くん。いらっしゃい。」
「みかんにお土産。」
「まあ。」
「由紀恵さんにも。」
「あら。なに?」
「金平糖。おいしいやつ。」
「ありがとう。」
由紀恵さんは、大学のボランティアサークルで出会ったおばあちゃん。みかんは猫で、かなりの年寄り。

どうしても不安な時、気持ちがモヤモヤする時、ここに来る。みかんと遊んで、由紀恵さんと話をする。ここを出るときには、なんでもないやって気持ちになれる。

僕の日常はどっちかって言ったらこっち。

人が血を流す方じゃない。

「そうだ、アイス食べる?」
「うん。」
「抹茶とイチゴとミルクならどれが良い?」
「全部」
「お腹壊すよ。」
「じゃ、ミルク。」
「待ってて。」

僕の両親は結婚して僕が生まれてすぐ離婚した。父親と2人きりで生きてきた。祖父母は、小学生の頃にはもう居なかった。母親には会ったことがない。

「どうぞ。」
だから、由紀恵さんは特別だった。その辺のどこにでもいるようなおばあちゃんだけど、僕を初めて怒ってくれたおばあちゃんだった。
すごく単純。
箸の持ち方がダメってことを怒られて、持ち方をちゃんと教えてくれた。
それから、僕は由紀恵さんを大事に思えて、由紀恵さんも僕を大事にしてくれてると思った。
「いただきます。」
「召し上がれ。」

そういえば今村くんが彼女に振られた時には、一緒にこのうちに泊まった。

「あの男の子は元気?」
由紀恵さんは大概1人でふらっと現れる僕が、珍しく人を連れてきたから今村くんのことを覚えていた。

「うん。元気だよ。」
僕は嘘をついた自分に少し寂しさを感じた。

「ゆうちゃんは?」
時々、孫のように僕を呼ぶ。
「うん、元気…。」

由紀恵さんが僕の顔を覗き込む。
「それなら、いいけど。」
肯定も否定も探ることもしない。

「ねえ、由紀恵さん。」
「なに?」
「由紀恵さんの…お漬物食べたいな。」
「ふふ、待ってて」
遠く遠く…縁があるとかで本当の祖母なら良いのに。現実はそうじゃない。
部屋を見回して飾ってある写真は、全然知らない人…。やっぱり他人。

「どうぞ。きゅうりに、茄子に、にんじん。」
「やった。いただきます。」
手を合わせて箸を持つ。きゅうりを掴んで口に運ぶ。ポリポリと音がして、心地よくしょっぱさが口に広がる。
「由紀恵さん、おいしい。」
「お箸、上手になったわね。」
ふふふって、笑いながら僕を見ている。
「…得意だよ。ほら」
にんじんを摘んで口に運んで、おいしいって言うと、そうねって言ってふっと笑う。子どもじみた僕を受け入れてくれる。

欠落した僕の何か。拾って持たせてくれたのは由紀恵さん。

「寂しい時はいつでも会いましょう。」
「え?」
「ゆうちゃんは、そうね、弱い子でしょ?で、嘘が下手よね。悲しいも辛いも言わないけど顔に出てるの。それで良いから、ちゃんと元気になりなさい。」

誰にも言えない現実から逃げたくなる。

由紀恵さんは、僕を見ながらニコニコしている。
ニコニコして、みかんの頭を撫でているし、みかんはあくびをしている。

ただ笑ってるのが良い。静かに。変わらず。

そう、ただ、バカなことやって、ただ、くだらないねって。


ただのなんでもない、つまらなくなくて、なんかおかしくて…今村くんと会うとなんか、僕は笑ってた。

それが僕と今村くんの日常だった。

ポケットに入れたスマホが震える。
だけど、今は見たくないと思う。

「ねえ、杉崎くん。」
由紀恵さんは穏やかで、今までで一番優しい顔をした。
「私、近々、この家を出るのよ。」
「そうなの?みかんは?」
「え?みかんもいくわよ。」
「どこに?」
「息子のマンションに…。」
胸の奥が音を立てて割れた。

僕はどこかで、由紀恵さんは寂しい老人で僕みたいな人なつこい子がそばにいると、きっと嬉しいとか都合のいいことを考えていたに違いない。

じゃなければ、由紀恵さんの幸せを喜べないなんてことないんだから。

「へえ。いいね。じゃあ、もう僕、必要ないね。」
いじけた子どもみたいにひどい言葉が心から外に出た。
「今まで、ごっこ遊びしてくれてありがとう。嘘みたいに楽しかったよ。」
人を傷つける言葉は、僕の中からたくさん湧いてくる。たくさん、傷つけて、出会わない方が良かったって気持ちを植え付けたくなるんだ。

大事な人なんて必要ない。

そうやって僕はきっと、誰1人大事にしてこなかった。だから、大事にされない。

「ゆうちゃん」
由紀恵さんはそれでもニコニコしながらみかんの頭を撫でている。

僕は、出してもらったものはせめて最後まで食べる。きゅうり一切れ残す気はない。それが、正しい別れなんじゃないかって。

さようなら
って言いたくなくて、

代わりに、涙と鼻水が流れた。
ティッシュで拭っても足りなかった。

拠り所にしていた、温かいものがなくなったんだ。

口の中のきゅうりは、もっとしょっぱくなる。
どうして、別れなきゃいけないんだ。

どうして、失くさなきゃいけないんだ。

どうして。

由紀恵さんの手が僕の肩をぽんぽんと叩く。

「この家、あなたに使って欲しいの。」
信じられない、そう思った。

「あのお友達と、…他の誰かと、使って欲しいの。私一人でいるには、広すぎるのよね。段差もあるし。」
「…え?」
「私も、遊びにくるわ。お漬物、持ってくるから。それに、みかんも一緒よ。だから、泣かないで。」

僕は声を出して、泣いた。やっぱり、僕は子どもなんだと、恥ずかしげもなく。



そばで笑っていてくれるのは
僕を大事にしてくれる人。


【5】
今村くんとご飯を食べる時は、すき家だった。
時々流れるすき家独自の音楽とかラジオとかに今村くんはいきなり機嫌が悪くなる。

「なんですぐにLINE返さねーの?」
独自の音楽が流れ始めて不機嫌な今村くんが言う。
「すぐ返せや」
脛をコツンと蹴られる。僕は今村くんの彼女じゃないし彼氏じゃない。
「聞いてんのか?おーい?」
手を伸ばされて頭をコツコツ叩かれる。機嫌が悪いからこんなことをする。
「もしもーし、入ってますかー?」
マグロのすき身とご飯を口に入れてるから、僕はずっと黙っている。
「ゆうちゃん?」
顔を顰めて僕を覗き込んでくるから吹き出しそうになった。
麦茶を飲んで口の中のものを胃に落とした。
「…大事な人に会ってたから。」
「誰?」
「由紀恵さん」
「なんだ、もったいぶるなよ」
「ふふ。僕、由紀恵さん1番好きなんだ。」
「ババアだろ。」
「おばあちゃん好きなの。いないから。」
「あそ。」
「うん。」
「ババア騙して金もらったりすんなよ。」
「うん。僕、良い子じゃないけどそれだけはしないよ。」
「……どっか、欠けてるよな、杉崎って。」
「ん?」
「ふわふわしてる。」
「僕がそうであれ誰も困らない。」
「うーん。」

僕の返事に困った顔をしながらも最後はいつも、まあいいかって。今村くんは、笑っていた。



由紀恵さんの家にいる間に今村くんから、届いたLINEには
『そろそろいくわ』って書いてあった。
僕は、それを見て慌ててみたけど、結局どの病院にいるのかさえわからない。
あの時、一緒に救急車に乗って、せめて病院を知っておけば良かったと、後悔する。

すぐにスマホを確認しないといけなかったのに。確認しなかったのは僕だ。
何度電話をかけても、LINEをしても返事はない。

僕はいく宛がなくて、亜島さんに会いにきた。
きっと僕は不安でずっとずっと怖かった。

ドアを開けた僕に亜島さんが目を丸くした。
けど、亜島さんの横に立っている人を見て僕は言葉を発せなかった。

「杉崎、なんだよ、その顔。」
頭に包帯を巻いた顔色の悪い今村くんがいる。
「相変わらず、冴えねーな。」

死んだと思った。
そろそろいくわっていうのは、もう自分が死ぬとわかって送ってきたのかと。

「紛らわしいLINEしないでよ!」
今村くんと亜島さんは、そう言う僕を見てケラケラ笑う。

「怒んなよ、杉崎。」

これから先のこと、たぶん二人はこの時にもう分かってたんだ。
「チビ、お前にもう少し手伝って欲しいんだ。」

亜島さんが少しかしこまって言うから、逆におかしくて。僕は少し笑う。


「…そんな、かしこまらないでよ。」
僕がヘラヘラ笑ってるのを見て、二人とも深刻な顔で僕を見ている。

「チビ、真面目な話だ。」
「何?」

顔色の悪い今村くんがゆっくり話し始める。
「杉崎、俺と亜島は、きっと、アイツらの中で死んだことになっている。だから、逆に動きやすいんだけど、生きているとバレたら厄介だ。」
話を進めようとする今村くんを遮った。
「ねえ、今村くんと亜島さんは、何をやってるの?」

亜島さんが教えてくれたのは僕にとっては、理解するのが難しくて厄介だった。

今村くんを怪我させたのも、亜島さんを焼いたのも大橋組の下っ端であることは間違いない。
今村くんが怪我をさせられた理由は、県の財務部にいる今村くんの仕事が関係している。県の所有する文化センターの民営化が計画にあり、その運営に名乗りを挙げたのは大橋組の大元である上田興業。老朽化に伴う改築には設計が必要で、関連会社の江藤設計に仕事が回る。大橋組は工事請負業者に入ることになる。

「でも、誰かがやんなきゃならない仕事なら別に…」
「反社に金が回ると知っていて、目ぇつぶれねぇだろ。」
「今村くんは、わざわざ面倒に巻き込まれたの?」
亜島さんも今村くんも顔を見合わせて、次に僕を見た。
「もうさ、今村くん、仕事かえて黙ってたら良いじゃん。怪我までしてやる仕事じゃないよ。」
「…お前、無責任にモノ言うやつなんだな。」
「関係ないよ。そんなことわかんないし。」

僕と今村くんの会話を聞いていた亜島さんが、僕の頭をくしゃくしゃにしてくる。
「チビの言う通りかもな。俺たち、わざわざ面倒に首突っ込んだって言うか。気づかない上が悪いっつーか。」
「…亜島。俺だってもう疲れたよ。調べて報告して逆恨み。」
「…だよな。」
「それに、ここの鍵、そろそろ返さないと。」
「そっか。もう、ここにはいられないか。」
「悪いな」
僕の目の前にいるのは怪我人2人。
今村くんはともかく、亜島さんは全くの他人だし。まあ、大輔さんの双子のお兄さんだけど。

知り合いが、怪我をさせられていることに僕は、なんとなく腹が立っていて。
「難しい話はわかんないけど。一旦2人とも家に帰ったら?」
「バカだな。お前。家に帰れるわけないだろ。」
「なんで?」
「大事な嫁が、大橋組に狙われたらたまんねーよ。」
「今村くん、結婚してるの?」
「俺は普通の公務員だからな?」
「え、ショック。」
いつ結婚したんだろう。あるいは出会った頃にはすでに結婚していたんだろうか。
「亜島さんは?」
「恵に迷惑かけられない。」
「あ。そうか。」

2人ともそれぞれに帰れない。大事な人を巻き込めないから。
大事かどうかはわからないけど、僕の家にも父親はいるから、連れてはいけない。

「腹減ったな。すき家食いてえわ。」
今村くんがそう言うのは、僕に買いに行けってことだと思った。

「なあ、杉崎、なんですぐLINE返さなかったんだ?」
脛をコツコツ蹴られた。

「…大事な人に会ってたから。」


【6】
地元の盆踊りを毎年1人で見に行っていた。
父は仕事でいなかったし、頼れる大人は誰一人いないし、友達を作るのも苦手な僕は必然的に1人で見に行くしかなかった。

祭囃子がまあまあ好きだったし、いつもは誰も寄り付かない神社に人がたくさんいるのも、面白いと思っていた。

櫓で太鼓を叩く人を眺めてから、周りで踊る人を見る。みんなの手の動きとか、着ている浴衣とか。ずっと眺めて、それから出店を見て。

焼きそばおおはしの焼きそばばいつも不味そうで絶対に買わなかった。
その隣のお好み焼き屋さんのおばさんは優しくて、僕が子どもなのに1人でいるからって、お好み焼きを買ったら飴をくれた。誰かに自慢したくなったけど、自慢する人もいない。
「うちのも買ってけ。」
暇そうにしていた焼きそばおおはしのおじさんに声をかけられた。
「いりません。」
僕は端的に物事を断るのが得意だった。
「ひと口食ったら病みつきだ。」
全然美味しくなさそうなのに、なんでそんなに自信があるんだろう。
「いりません。」
もう一度そう言って断って神社のベンチでお好み焼きを食べながら、終わらない盆踊りをずっと眺めていた。



神社の境内で今年も盆踊りの準備が始まっている。
祭りにはお金がかかっていて地元の企業が協賛しているが、今日の祭りは上田興業、江藤設計、大橋組がその大部分を賄っているって今村くんが教えてくれた。
出店の準備が始まる中、気の早い店が商売を始めていて、金魚掬いで子供が何人か騒ぎながらポイを水に潜らせている。

「杉崎くん悪いね、こんなこと頼んで。」
セフレの彼氏である江藤さんの手伝いをする羽目になった僕は、焼そばおおはしのテントを組み立てていた。
「人手不足で、俺までこんなことしなきゃいけないなんてね。」

江藤さんは江藤設計の会長の孫で上田興業にいる。大橋組の焼きそばおおはしは、グループぐるみの趣味とかで江藤さんが駆り出されて、僕はアルバイトで雇われた。
ていうか、この繋がりは仕組まれた設定にしか思えないんだけど。
「別にいいんだけど……ここの焼きそば、食べたことある?」
「え?ないよ。わざわざ不味いもの食べないよね。」
「……望まれてないのに、なんでやるわけ?」
「麻友の父親の趣味だろう。」
「へえ。」
「2年ぶりの地域貢献だ。たくさん売れってさ」
「不味いから売れないよ。」
上田興業の社長がセフレの父親だ。
僕はとんでもない女の子をセフレにしたもんだと我ながら自分のくじ運の無さに驚いた。

「ねえ、知ってる?」
「え?」
「麻友、明日、誕生日だって。」
「……どうでもいい。僕には関係ない。」
「冷たいね。」
「なんかあげた方がいいの?誕生日なんかさ、勝手に生まれてきたんだから僕がなんかしなきゃいけないなんて決まりはないよね?それより、江藤さんがプロポーズでもしてあげたら?喜ぶんじゃないの?」
「それは、負け惜しみ?
そうだ。麻友の気の済むまでイカせてやって。上手いんでしょ、君。最近来ないよね、寂しがってるよ。」
頭にくるから、口をきくのをやめた。麻友を一瞬でも好きだった自分が嫌になる。
麻友は一応社長令嬢、江藤さんは一応御曹司。
僕は、…なんだろう。大学生、ただの。
黙々とテントを立てても、気持ちがモヤモヤする。

ガス台に設置した鉄板に火を入れて油を敷いた。
なぜ、焼きそばが美味しくできないのか追求してやろうと思う。
江藤はニヤリと笑う。
「何?焼きそば作るの?」
僕は無視して、豚肉とキャベツを焼いた。麺を焼いて混ぜて合わせてソースをかける。
鉄板焼きにするとなんだって美味いはず。
紙皿に盛り付けて江藤に渡した。
「誰に教えてもらったの?
見た目も美味そうだ。焼きそば屋になれば?」
誰にも頼れなかったからご飯はいつも大体自分で作ってきたから大体はできる。自分の作った焼きそばを食べるとやっぱり美味しい。でも、
「焼きそば屋にはならない。」
「賢明だな。」
江藤さんがタバコを吸い始める。無理やり着せられたような、ロゴTから見える腕は思ったよりがっちりしていて刺青が見えた。
「もうちょっと、袖長くしてもらったら良かったのに。」
「あ?」
「それ。」
刺青を指差すと、ふっと笑う。
「隠れ蓑っていつか剥がされんだよな。」
「え?」
「黙ってるつもりだったけど、…君が思う通りだ」
「へえ。」
バイト代をもらうのは、やめておいた方がいいような気がする。
「麻友は…俺より君の方が好きだよ。抱いてる時にさ、君の名前呼ぶんだ。」
「…僕のせいじゃありませんよ。」
「麻友と俺はいずれ結婚するよ。寂しい?君は?」
「別に…。セフレなんか、作るの簡単だし。麻友以外にもあと3人いるし。」
嘘だ。ただ、僕は最低な男になりたいと思った。
「強がるなよ。ガキ。」
強がりなんだろうか。僕は、たぶん誰かをちゃんと愛したことなんかないから、別に他人のことなどどうでもいいだけだ。

「家柄とか血筋とか、結局、そんなことで一生も決まってしまうんだよ。品性良く見えてもね。何も隠せない。俺は結局、そう言う生き方になっちゃってるからさ。」
江藤さんの身の上話なんか、僕にはどうだってよかった。江藤さんは自分の腕に目を落とす。
「任侠映画みたいだよな。麻友も俺も結局、全部決まってるんだ。君は、そういう意味じゃ自由なんだろ?」
「まあ。僕、一般人だし。」
「…なんなんだろうな、俺たち。」
「知らない。」
自分たちのしてることを変えられない運命みたいに悲哀の表情を見せる。

大橋組は昔はかなりの幅を利かせていたらしい。建設業界に滑り込んだのは10年ほど前のこと。上田興業と江藤設計は枝分かれして大きくなったが、根底は変わらない。

今村くんから、その話を聞かされたけど、僕にはただ遠い世界の出来事。
江藤さんも麻友も反社であれ、だからなんだって話。僕には関係ない。いざとなったらすぐ縁を切ればいい。

「江藤さん。」
「ん?」
「この前の夏祭りで、ここで発砲事件あったんだよ。ニュースにはなってないけどさ。」
「知らねーな。」
「撃たれたの今村って言う公務員。」
「今村…。」
「死んだんだ。僕の友達だったんだ。」
僕は淡々と言った。
嘘を言った。

「笑っちゃうな。本当、映画みたいで。その時に聞いた声、江藤さんに似てる。なんでかな。」
「君、何言ってんだ?」
「僕、預かったよ、300万円。」
「お前、全部知ってんのか?」
「あと、友だちのお兄さんもいなくなっちゃってる。亜島大輔って。知らない?」
「おい、黙れ。」

包丁の先が僕に向く。
「いいの?人前だよ?」
「お前なんなんだよ。」
「頭に来てるんだよ。腹が立ってるほうが、正しいかもね。僕は僕の友だち返して欲しいの。わかる?」
僕はただ、今村くんと亜島さんを怪我させた人間に対して腹が立っている。ずっと、ずっとそう。

紙皿にはさっき渡した焼きそばが、手付かずの状態でそこにある。
「ま、江藤さんは、それより…焼きそば食べてよ。」
「いらねーよ。」
「なんで?ひと口食べたら病みつきだよ。」
「いらねーっつってんだよ!」
焼きそばを地面に叩きつける江藤さんが滑稽だった。

櫓に太鼓が運ばれる。
「ねえ、盆踊りって、誰のためのダンスなわけ?
覚えてるよね?2年前のこと。亜島大輔は死んだわけ?死んだなら呼び戻そうよ。」
大太鼓、締め太鼓、試し打ちが始まった。

「お前、なんなんだよ!」
雷の音のように太鼓の音がうねりをあげ始めた。


今村くんも亜島さんも、こんな今を望んだだろうか。僕には全くわからないと思った。


亜島さんに病院に行くべきだと言った。普通なら生きていない状態だけど、治療をすれば、少しは良くなるんじゃないかって。でも、亜島さんはその前にやるべきことがあるって言って。

今村くんには、由紀恵さんの家に行こうって言った。家族の元に今は戻れなくてもいつか戻れる日が来るからって。でも、今村くんは、その前にやるべきことがあるってそう言った。


盆踊りの日、上田興業が、県と契約をする話がまとまっていると言う。
今村くんは、県の上層部に契約取りやめの働きかけをしていたが、止められなかった。
契約は県庁と東棟の2階本会議室で行われる。2人はそこに乗り込もうと計画を立てた。
「こっちが上手く行ったら、やきそば屋も襲撃するか。」
今村くんと亜島さんが最後は冗談で話すのを聞きなら僕は

そんなの、どうだっていいじゃん。
って思った。

2人の思うことは、最終的に僕にはなんの関係もないし。僕は、それほどこの2人と友達じゃないし。

でも、大輔さんは?
でも、今村くんの奥さんは?

どんな形であれ、生きていたら…ちゃんと帰ってきてくれたら嬉しいんじゃないの?

他人のことなんか、どうだっていいけど。

うん。どうだっていいけど。



「お前なんなんだよ!」
江藤の持った包丁が僕の顔を切った。
「こっちが聞きたいね、その質問。」
「はあ?」
血が流れるのがわかる。
「僕だって、僕がどうしてこんな目にあってんのか、ぜんっぜん、わかんない。」
頬から流れる血を拭って、その手を見る。
生きてるって、痛いんだなって笑っちゃう。この痛さがわかんないなんて不幸にも程があるよねって。
「今村くんと、亜島さんて、痛くないんだって。」
「あ?」
「だから、どんなことされたって、死にそうだってわかんない。死んでないって思ってるみたい。」
「はあ?」
江藤はもう、理性なんてないから、僕をどんどん切りつけてくる。痛い。腕も肩も切られる。

通りすがりの人が悲鳴をあげている。

僕、なんで生まれてきたんだろう。
これで死んだら笑えるな。

今村くんの時は、なぜ誰も気づかなかったのかな。
僕、夢でも見てたのかな。

「今村くんも、亜島さんも、大橋組を許さないよ。つーか、痛いからそろそろやめてって話。」

僕はただ、腹が立って、鉄板に江藤の顔を押してけている。
やられたらやり返すよ、僕だって。

皮膚の焦げる匂い。

胸ぐらを掴まれてお腹を刺された。
「死ねよ。クソガキ。」
「亜島さんは、もっとキツかった!」
「ああ?」
「江藤さんもウジムシに噛まれればいい!」
刺されたお腹が、ドクドク脈を打つ。手で押さえても血が止まらない。
「今村くんは、もっと…江藤さんなんかより怖かったはずだ。でも、僕を守ったんだ。」
崩れ落ちると蹴られて、僕はきっと死ぬんだと思った。別にいい。
「返せ!!今村くんを!亜島さんを!!
僕の友だちを返せ!!」
声は出たんだろうか。僕は口を開けて大声を上げたつもりだ。

僕が死んだからって、世界は変わらない。

でも、今村くんと亜島さんがあんな目に遭うのはバカみたいだよ。大切な人がいるのにさ。

おかしいよね。

くだらないよ。



『夕陽が沈むころ、お前が生まれたから、名前が夕陽だ。綺麗だったんだよ、夕焼け。青くて、オレンジで。』
自分の名前、あんまり好きじゃないって父に言ったらそう言ってくれた。
生まれてきた子に1日の終わりみたいな名前つけるなんて間違ってるって泣いて訴えた日だった。
クラスに朝陽ちゃんがいて、一緒に準備運動やった時に漫才コンビって馬鹿にされて、朝陽ちゃんからはひどく嫌われた。
『お母さんがつけてくれた名前なんだよ』って、顔もわからない人のこと言われてもなって、どんどん父のことも嫌いになった。

誰も、僕には関心がないってずっと思っていた。僕ってなんだろうって。

『夕陽!!』
救急車の音が聞こえて、久しぶりに聞く声がする。そうだ、忘れてた。
「夕陽!」
手を握られて涙が流れるのがわかる。声を出して泣きたいと思った。
「聞こえるか!」
「…うるさいよ。わかってる。」
僕の父は救急隊員だ。
だから、家にいなかったんだよな。
そういえば。

偶然にも程がある。はっきり見える。笑っちゃう。

「江藤さんは?」
「ん?」
「僕、刺した人」
「パトカーに乗って行った。」
「盆踊りは?」
「やってる。」
「良かった。」
空に一輪、花火が開くのが見えた。



僕は、まだ知らなかった。



今村くんと亜島さんが、この時もう死んでしまっていたこと。


2人は大輔さんの家の近くのホームレスの人たちがゴミを漁る場所に捨てられて最期を迎えた。
遺体には銃弾が打ち込まれていたそうだ。

見つけたのは大輔さんだった。

ただ、大輔さんは今村くんのことはわかったけど、亜島さんのことはその時わからなくて、DNA鑑定をしてそうだとわかった。


僕は怪我が治ってすぐに300万円と鍵を警察に渡した。拾いましたって嘘をついて。
今村くんが僕に託したものを僕が手放したことで、多分然るべき形になるんじゃないかって。
そんな気がした。僕から引き継いだ誰かがきっとそうしてくれるって信じている。


ひとつ、なんかごめんなさいって思うのは、僕が、江藤さんに、今村くんが死んだって嘘を言ったから、今村くんは、本当に死んでしまったんじゃないかって。
生きてるって言ったら、笑って2人にまた会えたかもしれない。



2人は社会の闇を暴くとかそんなヒーローみたいなことをしようとした。でも、そんなのは漫画の話だよ。三文芝居も良いところ。散々なオチは駄々滑りだったね。だけど、僕は拍手を贈る。スタンディングオベーションでブラボーって親指を立てたりしながら。


江藤さんは障害の罪で罰金を払って刑務所行きは免れ、僕は正当防衛で無罪だった。さすが、裏の社会と警察は繋がってるって聞いたことあるなって、変に納得した。

セフレだった麻友とは、連絡を取るのをやめた。結局は、江藤さんと結婚するらしい。江藤さんの顔の火傷の話はしなかった。

夏休みが終わって、大学で麻友よりかわいい女の子がいたから、声をかけてみたけど、なかなか泊まりに行かせてくれないし、セックスもさせてくれない。かわいいのに残念だ。
そんな愚痴を大輔さんに言ったら、顔しか見てないのか?女の子を何だと思ってるんだ?って、聞かれて、顔がかわいくてセックスが気持ちよかったら良いって言ったら、「1回死ね」ってビンタされて酷く怒られた。
でも、それが人類として大事だよって言い返したら、やっぱりビンタされて精子からやり直してこいだって。
だって付き合うって、そういうことじゃんって、繁殖こそ指名でしょ?って言ったら、今度はお腹を蹴られて「母親が泣くぞ」だって。
そこまで言われても、考えを改められないのは、僕が母親を知らないからかなって、言ったら、これから教えてやるよって、大輔さんが泣いた。
大輔さんは、僕に人間としての性の考え方を教えなきゃいけない義務を誰かから受け取ったみたいに変な使命感に囚われてるけど、僕の考えは多分改まらない。
女の子は柔らかくて気持ちいいもの。それ以上でも、以下でもない。顔がかわいいのが1番良い。って断言すると、僕はとんだゲスやろうなんだなって自覚する。最低な生き物とは僕のことだ。
でも、大輔さんと抱き合う時だけ、ちょっと、気分が違うのは、僕が愛したいと思う気持ちになるのは大輔さんといる時だけだからなんだろう。なんかそれ尊いねって思う。


由紀恵さんは、本当に息子さんのマンションに住むことになった。
僕が、そのあとあの家を使うのはなんだかやっぱり気が引けたから、由紀恵さんは本気だったけど遠慮した。
誰かが家を引き継がなきゃならないにしても、僕にはやっぱりその資格はないような気がしたから。
時々、息子さんのマンションに遊びに行くねって約束してみかんには、ちゃおチュールを何本かあげた。僕は由紀恵さんのことはやっぱり、1番好きだ。


今村くんと亜島さんは遺骨になって、とりあえず大輔さんの家にいる。
なのに、僕は人の死も別れも意外と悲しまないんだって、自分の心の無さに驚いた。


「夕陽、就職、どうするつもり?」
大輔さんの部屋。2人でシャインマスカットを食べていた。僕も大輔さんも葡萄がたまらなく好きだ。
「…まだ決めてない。」
「決めろよ、就活は2年から始まってんだよ。
来年は3年だろ?しっかりやれ。」
頬をつねられた。
「うーん…。1個、決めてんのは…。」
「ん?」
口に1つ、マスカットを入れて噛み潰す。インゼリーの味を思い出した。

「公務員だけは、やめとくよ。」

亜島さんと今村くんの遺骨が目に入る。

「賢明だな。」大輔さんが僕の頭をわしゃわしゃ撫でた。

季節外れの蝉が1匹鳴いたような気がした。


僕が、今村くんと出会ったのは、3年前の高2の夏で蝉がジリジリ鳴いている時だった。

#安比奈ユキさんの写真お借りしました
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平穏を離れた日常を書いてみました。
お読みくださりありがとうございました。

【短編】バトン 20220529

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