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【家族のこと】自殺が連鎖するわたしなりの見解

父は死んだ。自分から命を絶った。まだ50手前で。

祖父は自分より早く亡くなった息子について、「育て方を間違った」と言った。孫が目の前にいるのに。その時は、心が砂みたいにジャリジャリになった。

だが、その祖父も自殺を試みたことが複数回あるらしいと、祖父と同居していた母は言っていた。

祖父の定年後に、祖母が比較的若くして亡くなり、仕事一辺倒だった祖父は自責の念に駆られ、寝込んでしまったらしい。わたしがまだ言葉も話せなかった頃。

結果、食事ができなくなり、自宅で首を吊ろうとした。

本気のものではなく、悲しみのアピール行動のようだったと母は分析する。

死のうとする方法まで一緒だなんて、反目していた父子だったのに皮肉だ。

父は、過去に親友と前の会社の社長という近しい2人の自殺を経験していた。

父の親友がなくなったのは父自身が死ぬ2年ほど前だったが、親友の葬儀に参加したあと、「自分は死なない」とわたしを抱きしめてくれた。

それでも父は彼らと同じ選択をした。

親友の家族が悲しむさまや、残された自分の気持ちに向き合ってきたはずなのに。

そして、次は私の番が来た。

父の死から約3年後、理由は割愛するがいろんなことに追い込まれて自殺未遂した。その時は死なないように低い場所からクッション性のある土台めがけて落ちた。打算的に未遂に終わらせようとした。

いろんな人に迷惑をかけた。

近親者に自殺経験者がいると、その子どもの自殺リスクは約5倍に跳ね上がるそうだ。

https://www.excite.co.jp/news/article/HealthPress_201502_5_1/

どうしてわたしは、父が自殺してあんなに悲しかったのに、同じ方法をとってしまったんだろうか。

これは、経験からくるわたしなりの答えだが、

自分がいなくても(もしくは大切な人がいなくなっても)生活や社会はなんだかんだ言いながら機能していくものだ。

という事実を目の当たりにしてしまうからだと思う。

残されたものも、悲しみや疑問を抱きながらも、どうにかして生活を維持していく。
(もちろん破たんする場合もあるかもしれないが、我が家は何とかなった。)

父がいなくても、自分がいなくても、何とかなるんじゃん。という虚無感。やけっぱちな気持ち。

じゃあ、苦しむことに意味はあるのか。ここにわたしが居なくてもいいんじゃないのか、という疑問。疎外感。絶望。

それが心の奥底に、澱みたいにたまっていく。

そして、自分の苦しみから逃れるための方法の上位ランクに「自殺」が追加される。
わたしが未遂を図ったとき、残される側のつらさは考えなかった。

あんなに泣いたのに。悔やんで苦しんだのに。

自殺を身近な人間が実行して、深い悲しみが続いたとしても、苦しい時には
「その人がいなくても社会は勝手に回っていく」
という記憶がぶわっと押し寄せてくる。

わたしが居なくても、社会も家族も結局機能する。

それなら、私の今のこの絶望的な気持ちから逃げたい、という大きな感情。

逃げる方法なら知っている。


今のところ本格的な「死にたい」という気持ちはない。
でも、どんなに楽しいことがあっても、いつも心の底には「自殺」という言葉や記憶が埋まっている。

次なにか大きな出来事があったときに、その気持ちが底の方から掘り起こされないか、という不安は常にある。

連鎖が止まるかはわからないが、今のわたしには、「まぁ、なんかあったら、準備さえすればいつでも死ねるから、なんとかなるかぁ」と楽観的な思考の方法といて取り入れるしか策はない。

本当に本当の、死ぬまでの最後の切り札にするしかない。








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