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【障害のこと】みんなが「明るい障害者」だとおもうなよ

みんな、多かれ少なかれ複数の「社会的な自分」と「自分だけの自分」を使い分けながら生きている。

もちろんわたしのそのうちの一人である。

職業人としての自分、娘としての自分。女性としての自分。

そのどれもに、もう一つ足される、「障害者」としての自分

メディアで映し出されるいわゆる「障害者(特に身体)」は「苦しい環境下でも笑顔で状況を乗り越え、笑顔で人生を全うしている」

という一面がフォーマット化されて伝えられていることが多いと感じる。

周囲のサポートを借りながら、外出を楽しみ旅行をし、勉強し仕事する。

「つらいこともあるけれど、結局、今のわたしで幸せです」

と笑顔で明るくふるまう、という結論ありき。周囲もそんな「障害者像」を求めている。みんなに勇気を与える存在。それもまぁ真実だとは思う。

でも、それは皆が求める「障害者像」ではないか?

わたしは、障害のつらさを周囲に気付かれまいと努めている。もちろん仕事や生活に支障がある時は発信する。自分の精神面と業務に影響が出るからだ。

だが、自分から過度に「つらいこと」を見せようとは思わない。

結局、わたしもテレビで映されるような、「明るく楽しく生きる障害者」という社会的仮面をかぶって生活している。あそこまで過度に感動的で極端ではないにしろ。

これ以上心配されたくないし、気にされたくないし、同情されたくないからだ。

自分が見せている ’’明るさ’’ の下には、意地や挫折や、他者からの目線など、何層もの「自分だけの自分」が重なっている。

見た目だけで、「周囲との違い」が歴然だ。

遠慮したり、あきらめなければならないことも多い。

他者からの「頑張ってね」という声掛けや表情、対応で、初めて自分の惨めさや違いを感じることもある。

例えば、「友達とライブに行ってきたんですよ」と昼休みに職場の人たちと会話する。ライブは本当に楽しい。でも、ライブに備えたリハビリや、そのあとの身体の痛み。全員が出るまで待って、人込みを避けてドーム二階席の階段を、大の大人が手を貸してもらいながら恐々降りる申し訳なさなんかはわざわざ言わない。

大変なんですよアピールはしたくないし、自分で「できない自分」を再確認はしたくない。だから、苦労していることや、我慢していることは伝えない。

「笑顔で明るくそれなりに頑張る」自分を演出する。

「ななちゃんは頑張っているね」という言葉に違和感と「本当は違うのに」という怒りを感じたとしても。

結局、「頑張ってないですよ、これが普通です」と笑顔の仮面をかぶって返答する。

本当は「明るくいなきゃやってられない」からそうしているだけなんだ。

他者から何かを指摘されたり、気にされたりするのはもちろん嫌だ。でもそれ以上に、自分で自分を哀れむようなことは一番したくない。








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