【考察】割と知られていない宗教の根本と悪の定義について

1.はじめに

日本人は宗教に対して無関心である
とよく言われます。

僕もその例外では無く、
大学に入るまで宗教や思想史について
全く興味がありませんでした。

宗教に関しては、むしろ、
「うさんくさい」「怖い」
というイメージを浮かべていました。

しかし、宗教の教義を分析するにつれて、
そのイメージは覆っていきました。

(宗教団体自体へのイメージは
悪いままですが)

宗教には、
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教
バラモン教・仏教・ビンドゥー教
ジャイナ教・道教・儒教……
述べきれないほどさまざまな教えがあります。

このような各宗教が何を目的として
何を伝えようとしているのかについては、
各々違いがあります。

しかし、これらの宗教の教義の多くには
共通項があります。

今回は、さまざまな宗教における共通項であり、根本的思想である「廃悪修善」について
僕の管見の限り、纏めてみようと思います。

2.悪とは何か

皆さんは自分の子供に
「なんで人を殺してはいけないの?」
「なんで嘘はいけないことなの?」
と訊かれたとしたらなんて答えるでしょうか。

いろいろな諭し方はあると思いますが、
突き詰めて考えていくと、
「なぜそれは悪なのか」については
明確な答えがない
という結論に辿り着くと思います。


時間に溢れた古代の人たちは、
この問題の答えについて
考えに考えを巡らしまくりました。

その結果、ある地域では、
神の言葉を聴いたという者や、
神の子を名乗るものが現れます。

やがて、
善悪は神が定めている
という価値観が生み出されました。

いわゆる一神教では、
教典の中に罪に当たる行為が明記され、
そのような神が定めた法
「神の立法」に背くことが
として定義されることになりました。


ここから、
「なんで人を殺してはいけないの?」
という質問には、
「神がそう言っているから」
という答えが模範となり、
信者のコミュニティの中に
同一の価値観を持つ社会秩序が生まれました。

神の存在を信じれば信じるほど
人間は罪を犯さなくなり、
そこに社会的安定が生まれたのです。

これは想像ですが、
多くの宗教にて、礼拝と言われる祈りの行動をすることは、行動から信仰心を強めるという目的があるのだと思います。
全ては信仰心を強めて、教えに説かれる「理想の人格者」になることが根本なのだと思います。

いずれにしても、
「なぜそれは悪なのか」という問題は
人間の主観的な想像上のものであり、
脆弱な論理ということができます。


ユダヤ人の社会学者である
ユヴァル・ノ・ハラリは、
その著書『サピエンス全史』にて
「宗教は、超人的な秩序の信奉に基づく、
人間の規範と価値観の制度と定義できる」
と述べています。


つまり、宗教は善悪の問題などの
答えのない問題に対して
超人的な正当性を与える意味でも
大きな意義があったと考えられるのです。

また、このような信仰を
起点とした法の遵守が、
法律などの「外部からの束縛」
ではなく、あくまで
「自らの内部による自己抑制」
であるということには、
大きな意味があるのではないでしょうか。

3.罪と罰

ある宗教では、
信者に対してアメムチを与えます。

アメとは天国ムチとは地獄です。

どうやって天国行き地獄行きとが
分けられるかは、
宗教によっていろいろな教義ありますが、
その根本は、
「悪を犯したか、善をどれほど行ったか」
が重要視されます。

悪を犯せば神によって地獄に落とされ、
他人に尽すなどの善い行いをすれば
天国にいかせてもらえる。

という教えなどがそれです。

このような天国と地獄の思想は、
現在信者の存在する最古の宗教である
ゾロアスター教にも見られます。

ゾロアスター教の世界観では、
この世を悪の神善の神の戦いであると
認識します。

人間が悪いことをすれば、
悪の神の味方になったことになり、
善い行いをすれば善の神の味方になります。

教義上、最終的に善の神が勝ち、
悪の神とその味方が地獄に堕とされることが
決まっています。

従って、ゾロアスター教では、
善の神の味方をして、善い行いをしなければ
天国には行けず、地獄に堕ちるぞ。

という教えによって社会秩序を守ろうとしたということでしょう。

宗教の多くでは、このようなアメとムチを駆使して、悪行を無くし、善行を増やそうとしたことが多く見られます。

4.宗教の智慧をどう生かすか

最近、人に何かを注意をされて
「そんな法律あるんですかー?」
と言い返す人を目にします。

そのような人は、
おそらく政治家が立てた「法律」だけを
注視しているのだと思います。

しかし、我々が
重要視しなければならないのは、
自分の中に主観的な善悪の基準を持つこと
であると思います。


キリスト教を真に信奉する人は、
善悪の判断をするとき、
「これは神の意志に反するだろうか」
と自問自答するらしいです。


この時、想像を向ける相手は
建前上「神」ですが、
客観的に見た時、その相手は
「自分の良心」だと捉えることもできます。


つまり、自分の良心と照らし合わせて、
「これは善いこと、悪いこと」と自ら区別し、
判断をすることが大切
なのだと言えます。

これを踏まえて考えると、
子供に
「なぜ人を殺すことはいけないことなの?」
と問われた時、なにを伝えるべきでしょうか。


僕は、
「なぜいけないと思う?」と訊き、
とことん考えさせるのが、
本質的だと思います。


その上で、子供自身が知識として
「やってはいけないなこと」
を”知る”のではなく、
自分の中の素朴な価値観として、
善悪の物差しを自ら発見することが必要
なのだと思います。

現実は、
答えのある問題より、
ない問題の方が圧倒的に多いです。


宗教の教典をはじめとする思想や、
哲学の歴史を紐解くことは、
そういった問題に関する新しい価値観を
生み出す一助になるのだと思います。

この記事が参加している募集

#とは

57,759件

#最近の学び

181,387件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?