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カウンセラーさんが見せてくれた希望。

久しぶりにカウンセリングを受けた。

予約の電話では年上だと思いこんで、実際お会いしたら私よりもずっと若いカウンセラーさんだった。


とても素晴らしいカウンセリングだった。



彼が提案するアドバイスには経験と知識に裏打ちされた確信を感じて、帰る頃に私は、いつしかすっかり忘れていた、希望のような可能性のようなものを、少しずつ思い出していた。


たくさんの新しい視点をもらって、頭の中に新しい風が吹いた感じがして、クリアな気持ちになった。

良い方向への道と信じることを疑わないカウンセリングの姿勢に、落ち込んでいた気持ちをかなり励まされた。





その人の希望のほうを信じる前提が、生まれつき備わっていたものなのか、後天的に手に入れた信念なのか、どのような経緯での現在なのかわからないけれど、私は、初対面の人の未来を信じて疑わない彼の姿勢にとても励まされた。


そしてすごい仕事をされているな、と心のお仕事をされている方々をつくづく尊敬した。






今まで、息子たちの不登校を機に、たくさんのカウンセリングを受けさせてもらった。
そして、カウンセリングの帰り道はたいがい、こじれた私はいつも勝手に落ち込んでいて、話を聞いてもらえることに感謝しながらも、とはいえこの不登校の親の苦しみは、当事者以外には理解できないものなのではないかと、ひとりでにその孤独を深めたりもしていた。


それが、今回のカウンセリングには全くなかった。



その人の前で私は、
かわいそうな母親ではなかったし、
子育てにおける加害者でも被害者でもなかった。


問題意識の健全な持ち方を
教わったような気がした。






私のややこしいかなり根深い反省も後悔も、その先に意識を向かわせる術をその人は持っていて、それは、経験や知識や、持って生まれた感性を総動員させての向き合い方によるものなのかもしれない。そういうものには形にとらわれない心があるのを感じる。








私は今まで、誰かの物事に向き合う姿勢をみて自然と励まされてきたな、と思い返していた。
言動に人となりが宿り、物事へのその誠実な向き合い方に心が動かされる。生き方、在り方は、本人も知らぬ内に表現され伝わるものだとしたら、彼のような人はいつも、無意識に誰かを励まし、救ってきたのだろうな、と思う。そういう人が、きっとたくさんいる。そして、誰かの努力を、誰かが必ず見ている。





相手の背景を想像することは難しいけれど、人を知ろうとする努力を、その人は見せて教えてくれた。何とか理解してその苦しみに寄り添おうという思いに、そこに彼の仕事の素晴らしさを感じた。
知らない人の人生の問題に関わる仕事って、答えがなくて、やはり難しくてすごいことなんじゃないかと思う。







なんだかその数時間にとても元気をもらって家路につき、

ああ、もう一度やり直そう、

と思えた。








家に帰ると、小さなゴミの散乱が、息子のささやかな反抗のメッセージとしてそこにあったけれど。

その景色にため息は出ず、うん、わかった、大丈夫、と気持ちの前進とともに受け止められた。

破壊的な大きな音は、
ここ最近はおさまっているけれど、
不安定な二男の様子にこちらも
かなり気を使っていた。





気持ちを正しく理解されることは、大きな安心をうむのだな、とつくづく感じた。
だとしたら私は全然、息子たちを理解してなかったな、と、息子があけた壁の穴に脳内反省会が自動的に始まるけれど。

ここから先にしか未来の置き場がない、ということに、振り返ることよりも進みたい、と思えた。


私たちの家族は、
終わりなのではないんだった。







勝手に一人ぼっちになったり、救われたり、間違えたり、エゴに気付いたり、転んだり、まだまだ色々ありながら行くのだろうと思われ。




ここのところ疲れ切ってしまっていたので、
頂いたカウンセリングの機会は
苦しい感情の一旦小休止みたいな時間だった。






また明日から、頑張ろうと思った。

答えのない生活を。























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