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小説:彼岸後に咲く

 彼岸花が、例年より一週間も早く咲いた地域があるらしい。
「彼岸花が咲く時期間違えるち、よっぽどな異常気象やったんやなぁ」
 テレビを見ながら母が言った。確かに、今年は梅雨も短かったし、猛暑日が続いたし。なかなかの異常気象だった。
「彼岸花は絶対お彼岸に咲くもんなぁ」
 父も大きくうなずいている。
 彼岸花とは不思議なもので、どういうメカニズムなのか必ずお彼岸の時期に咲く。僕の家の前の田んぼも、お彼岸になると綺麗な赤い花を咲かせていた。
「こっちの彼岸花はちゃんと咲くかなぁ」
 母がつぶやく。まだ咲いていないけれど、数日後のお彼岸には田んぼが赤でいっぱいになるのだろうか。今年もきちんと同じ時期に咲くのだろうか。

「彼岸花はいつも同じ時期に咲いてえらいなぁ。ヨシくんより賢いわ」

 ふと、母の言葉がよみがえった。
 なんだっけ。どこで聞いたんだっけ、この言葉。
 ヨシくんって誰だっけ。
 なんで急に思い出したんだろう。
 突然頭に浮かんだ母の言葉。おそらく、遠い昔の記憶なのだろうが、詳しくは思い出せない。ヨシくん、という呼び名に聞き覚えがあるが、どんな人物だったかわからない。思い出そうとしたけれど、
「そういえばさとる、週末のことなんやけど、」
 と母に話しかけられ、それきり僕の頭のなかから消えてしまっていた。

「悟、ちゃんと彼岸花咲いちょったわ」
 数日後、ちょうどお彼岸に入った時期。のそのそと起きてきた僕に母は言った。
「ああ、そう」
 キッチンの窓から覗いてみると、たくさんの赤い花が並んでいる。綺麗だ。昨日はまだ咲いていなかったのだろうか。家から出ていないからわからない。
 それにしても、家の前に咲く彼岸花を見るのはかなり久しぶりだった。お彼岸に実家にいるのも何年ぶりだろう。

 僕は少し前に、新卒で入った職場を辞めたばかりだった。
 仕事自体は嫌いではなかった。
 でも、連休なんて夢のまた夢、月に数回休日があれば良い方、という忙しさに少しだけ疲れてしまった。そして、少しだけ体調を崩してしまった。
「そこまでしてあんたが頑張らんといけんところなん?体壊すくらいなら辞めて帰っちょいで」
 いつもは穏やかな母が、電話の向こうから珍しくきつい口調で言った。そんな母を、甘いという人もいるのだろうか。
 でも僕は、その言葉に救われたのだ。

 とは言いつつも、体調もずいぶんよくなったし、もう少ししたら仕事探さないとな、なんて考えながら近所を散歩する。
 田んぼには彼岸花が並んでいる。ところどころに白い彼岸花もあるが、僕は赤の方が好きだ。ぼんやり歩いていると、また母の言葉を思い出す。

「彼岸花はいつも同じ時期に咲いてえらいなぁ。ヨシくんより賢いわ」

「なんそれ、俺のことばかにしすぎやろ」

 今度は、別の誰かの言葉もよみがえった。
 ヨシくん…、なのだろうか。
 おぼろげに、頭のなかに若い男性のシルエットが浮かぶ。広い和室が浮かぶ。

 そうだ、思い出した。

 まだ僕が小学校に入る前、20年以上も前のこと。お盆なのか正月なのか、それともお彼岸だったのか、古い家に親戚がたくさん集まっていた。
 たくさんのご馳走を囲んで、大人はお酒を飲みながらしゃべっている。僕は歳の近いいとこたちと遊んでいる。
 ヨシくんは、おじさんたちの輪でお酒を飲むことも、おばさんたちの輪でおしゃべりすることもなく、僕らの近くにいた。
 一緒に遊ぶわけではない。ビールではなくジュースの入ったコップを持ち、近くの椅子に座って穏やかに微笑んでいた。
 ただ、それだけの記憶。でも、穏やかに笑う彼が「ヨシくん」で間違いない気がした。

 ヨシくん、今何してるんだろう。
 あの親戚の集まりが何だったかも覚えていないし、最近では親戚で集まること自体なくなったし。ヨシくんにもいつの間にか会わなくなった。顔もはっきりとは思い出せない。
 急にヨシくんのことを思い出したことは不思議だったが、昔の記憶がふとよみがえること自体はよくあることだ。
 ヨシくん、元気にしてると良いけど。
 きっともうオジサンになっているであろうヨシくんを思い描こうとしたけれど、うまくいかなかった。

 秋分の日を過ぎ、彼岸花も終わりかけの頃、僕は両親と共に曾祖母の家に向かっていた。曾祖母は母の祖母で、僕も会ったことはあるらしいが記憶にないくらい昔に亡くなっている。曾祖父は僕が生まれる前に亡くなっており、曾祖母はしばらく一人暮らしをしていた。曾祖母の死後、その家は長らく空き家になっていたようだが、ようやく取り壊すことが決まったらしい。
「誰も住まん家がいつまでもあったら、近所の人に迷惑やけんねえ」
 おばあちゃんの家が無くなるんはちょっと寂しいけど、と母は言った。今は、取り壊す前の準備として親戚一同協力して家の中を片付けているところだという。
「悟はひいばあちゃんの家は久しぶりやろ」
「そうやな」
 久しぶり、というか、そもそもどんな家だったのかまったく記憶にない。
 着いたら思い出すかも、と母は言ったが、外観を見たところやはり記憶になかった。
 家の中も外も、案外綺麗に整えられている。
「誰か住むかもしれん、ち綺麗にはしちょったけど、やっぱり古いけん誰も住まんかったんやわ」
 片付けには、僕のおばさんである、母の妹も来ていた。悟くん、久しぶり!と笑っている。
 今日は奥の和室を整理するらしい。母たちについてその部屋に入り、僕は思わず「あっ」と声をあげた。

 この部屋だ。
 親戚みんなで集まっていた部屋だ。ヨシくんがいた部屋だ。

「どうしたん?」
「いや…、この部屋、覚えちょんわ。なんか親戚みんなで集まってご飯食べた気がする」
「よう覚えちょんなあ!」
 母が驚いたように言う。
「あれ、何の集まりやったっけ。お正月?」
「違う違う、たぶんあれ、ばあちゃんの…、あんたのひいばあちゃんのお葬式の後やった気がするわ」
「そうやな、あんなにみんなで集まったの、そん時くらいやもん」
 母に、おばさんも同意する。
「悟くん、五歳くらいん時かな?」
「そげえならんわ、悟がまだ三歳か四歳ん時やわ」
 やっぱり、ずいぶん昔の記憶だったようだ。
 僕の記憶がきっかけになったのか、母とおばさんは思い出話に花を咲かせ始める。今日は片付けに来たのに。さっきから黙っている父を見ると、父も同じことを思ったのか「先に始めるか」と言うように目配せしてきたので、うなずいて答えた。
 片付け、と言っても、ある程度は整理されているので、和室の中にあるタンスの中身をいるもの、いらないものに分別するくらいだ。背の低いタンスの上には、たくさんの古い写真が飾られていた。
 母やおばさんの小さい頃の写真、成人式の写真、そして母と父の結婚式の写真。僕の写真まである。
 ふと、端にある写真が目に留まった。

 若い男性の写真。

「ヨシくん…?」

 ヨシくん、だと思った。
 写真の彼は、きゅっと口を結んで不機嫌そうな顔をしている。でも、表情は違うけれど、穏やかに微笑みながら僕らを見つめるあの日の男性と重なった。

「わあ、懐かしい!ヨシくんの写真やん!悟、ヨシくんのことも覚えちょんのやなあ」
 僕のひとりごとが耳に入ったのか、いつの間にか隣に母がいた。嬉しそうに声を弾ませている。
「悟くん、ヨシくんとあんまり会ったことないやろうに」
 おばさんは驚いた顔をしていた。
「うん、あんまり覚えてないけど…、ここで集まった時におったなあ、って」
「そうやなあ。悟がヨシくんに会ったんは、そん時が最後かなあ」
 母がしみじみとつぶやいた。少し、寂しげに見える。そして、寂しそうな声で続けた。

「そん後、一年もせんくらいやったかなあ。ヨシくんが死んだのは」

 ああ、そうなのか。

 ヨシくんはもう、この世にはいなかったのか。

 なぜか、あまり驚かなかった。
 思い出していないだけで、僕のどこか奥深くにヨシくんが亡くなった記憶があったのかもしれない。

「ヨシくんっち、どういう親戚?」
「私のいとこ。県外に住んじょったけん、あんまり会わんかったけど」
 会う機会は少なかったものの、弟がほしかった母とおばさんは、年下のヨシくんをかわいがっていたという。
「優秀で、真面目やったけんなあ。仕事もよう頑張りよったわ。でも、頑張りすぎたんかな。途中で倒れて、そのまま病気になってなあ」
 入院したり、退院したり、を繰り返していたらしい。
 そうか、だから母は、僕が仕事でつらい時にあんなことを言ったのか。
「あの時はわりと体調が良かった時やけん、ヨシくんも一緒に集まりに来ちょったんよ」
 ヨシくんのことがよみがえってきたのか、母とおばさんは、ときどき父も交えながら思い出話を始めた。
 しかし、みんなの話に出てくるヨシくんは、僕の記憶にある穏やかに微笑むヨシくんとはだいぶ様子が違っていた。

 親戚で集まっていたあの日。ヨシくんは退院している時期でわりと元気だったけれど、お医者さんからアルコールを禁止されていた。
「ジジイとババアは俺に気を遣わないで酒飲みまくって面白くねえから、ガキの面倒でも見とくわ」
 そう言って、ヨシくんは僕らの近くにむすっとして座っていたという。
「ヨシくん…、にこにこしてた気がするんやけど」
「それはあんたの記憶違いやわ!ヨシくんほど愛想の悪い人はそうそうおらんで」
 ヨシくんは基本的に、どんな時でも不機嫌な顔をしていたらしい。ちょうど、タンスの上の写真のような。口も相当悪く、なかなか困った子だった、と父は苦笑いしている。
「結婚してすぐん時、仲良くなろうと思って話しかけても『オッサンうるさい』ばっかり言われたわ」
「私たちよりだいぶ年下やったけんなあ。それにしても、ほんっと口が悪かったわあ」
「口だけやなくて、態度も悪かったわ」
 寂しそうに話していた母たちも、いつの間にか「ヨシくんの口と態度悪いエピソード」で盛り上がっている。

 曾祖母の大事なティーカップを割っても謝らずに逆ギレしていた話。
 都合が悪くなると「黙れババア」と言ってきた話。
 終わらなかった夏休みの宿題を田んぼに投げ捨てていた話。
 二十歳の誕生日に腕時計をプレゼントすると、照れながらむすっとした顔で「あざっす」とつぶやいていた話。
 救いようのないくらいの遅刻魔だった話。

 話に出てくるヨシくんは、ちょっと嫌なやつで、でも根は優しいような人だった。愚痴を言われているようだけれど、実はみんなから愛されていたのだろう。母たちの話のヨシくんは、まだ元気な頃のヨシくんのようだ。
 だから、僕の中に浮かんだ「何の病気だったの」「何歳だったの」という問いは、今じゃなくて良いかな、と思った。今の話題は、ヨシくんとの楽しい思い出についてなのだ。

「それにしても、ヨシくんの遅刻癖には困ったわあ」
「ほんとに!時間通りに来ることなんか全然なかったんやけん」
 当時を思い出して、母とおばさんは呆れたように言う。
「ああ、だから彼岸花」
「彼岸花?」
 母はすぐに僕のひとりごとを拾う。
「彼岸花はいつも同じ時期に咲いてえらいなぁ。ヨシくんより賢いわ。って言いよったの、この前急に思い出して」
「ああー!あったあった!」
 母とおばさんは、手をたたいて笑っている。父も「そんなことよく言よったなあ、懐かしい」と笑った。
「そう言うとヨシくん、怒るんよなあ」
 時間守らんのが悪いくせにな、とみんなは口々に言った。

 その後もヨシくんの思い出話は続いて、結局片付けはほとんど進まなかった。それでも、母も父もおばさんも、そして僕も、なんだか満足していた。
「久しぶりに、ヨシくんの話したなあ」
「ほんとに。悟のおかげやわ」
「え、なんで僕?」
「悟がヨシくんのこと覚えちょん、ち言ったけん、ヨシくんの話になったんやろ」
「そうだっけ」
「たまには話しちゃげんと、ヨシくんも寂しいわなあ」
 おばさんは母の言葉にうなずき、「今度、ヨシくんの両親にも電話しようかな」と言った。
 帰る前に、もう一度ヨシくんの写真に目をやった。相変わらず、不機嫌な顔。でも、僕の記憶のなかにいるヨシくんは穏やかに笑っている。
 それは本当に僕の記憶違いなのか、ヨシくんの表情を当時の僕が「微笑んでいる」と解釈しただけなのか、はたまた、母たちも知らない、ヨシくんの穏やかな一面だったのか。
 わからないけれど、やっぱりあの時のヨシくんは、微笑んでいたように思えてならないのだ。


 それから、数日経ってお彼岸も明けたある日のことだった。
「悟!見て見て!」
 外から母に呼ばれた。どうやら、田んぼの方にいるようだ。
「どうしたの?」
「あれ、見て」
 母の指さす方を見る。

 そこには、彼岸花が一輪、咲いていた。

「今頃?他の彼岸花はもう終わってるんに」
 田んぼには、その一輪だけ。遅れて咲いた、その彼岸花だけ。
「ヨシくんみたいやな」
 母が笑った。
 確かに。いつも約束の時間を破って、遅れてくるヨシくんみたい。
「ほんとやな」
「ヨシくん、悟が覚えてくれちょって嬉しかったんかもな」
「そう?」
 うん、と母はうなずく。
「私も、妹も、ヨシくんのこと忘れちょんわけじゃないんよ。ちゃんと覚えちょんのよ。でもときどき、ああ、最近ヨシくんのこと思い出してなかったな、とか、ヨシくんの話してないな、とか、思うことはあるなあ」
 ぽつり、ぽつり、と母は話す。
「ヨシくんの両親も近くにおらんし、妹ともしょっちゅう会うわけやないし。思い出す機会が減りよんのかなあ」
 僕は黙って、彼岸花を見つめる。
 ヨシくん、自分のことを覚えているはずの僕に思い出してほしかったのかな。ちゃんとみんなの記憶にあることを確かめたかったのかな。

「大丈夫…、僕もちゃんと、覚えちょんし」

 少し大きな声で僕は言った。
 母にも、そしてヨシくんにも届くように。

 一輪だけの彼岸花は、優しく揺れていた。
 
 



※フィクションです。
 少し長くなりましたが、最後まで読んでくださりありがとうございます。

 誰かを思い出すきっかけになった人がひとりでもいれば良いなあ、なんて。

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