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淡路呼潮の終焉の地 ・ 「弥勒院」=神栖市下幡木



※本稿はGoogleマップに投稿した文章を再構成したものである。Googleマップのものはこちら(https://g.co/kgs/gfNZvv)

1.はじめに──「未開の地」の「原住民」として


茨城県神栖市下幡木(しもはたき)にある弥勒院、ここが、大正の中期から昭和の初期にかけて活動していた大衆文学・児童文学作家・俳人の淡路呼潮(本名は芳太郎、法名は興澄)の終焉の地である。

桜井均『奈落の作者』(文治堂書店、1978年)所収の「呼潮へんろ塚」によると、この弥勒院が位置する下幡木は「茨城県北浦べりの辺鄙をきわめた息栖村下幡木」とされ、「およそ日本の未開の地、この寺を倶楽部に集う原住民的賑いはあったが、呼潮の孤独は深まる一途だった」なんて書いてあるが、その「日本の未開の地」の「原住民」として生まれたのが私なんだから面白い。といって、私の故郷は下幡木その地にあるわけではなく、そこから数キロほど離れた新興住宅地なのだが、それにしてもとんだご挨拶ではないか。 まあ、この文章が書かれた1971年4月という時期は、今の教科書に載っているような鹿島臨海工業地帯は形成過程にあって、未だ神栖町(1955年に息栖村と軽野村が合併、1970年に神栖町になる)は開発途中だっただろう。当時でいえば、近隣の鹿島・潮来・佐原・銚子と比べれば、神栖はまだまだ無名の町だったとはいえるかもしれない。それにしたって桜井が当地を訪れてこう書いたわけでもないだろう。素朴な差別的筆致と、事実まだ街を形成するに至っていない神栖と、二重に時代を感じられる文章ではある。

2.淡路呼潮について──参考文献と略歴


ところで、この作家は一般的にはほとんど知られていないと思われるので、その生涯を簡単にまとめておく。大正期に現れて消えていった無数の作家たちの中では、呼潮はまあ比較的注目をされている方であり、いくつかの研究や紹介もある。詳しくは、桜井均「呼潮へんろ塚」『奈落の作者』文治堂書店1978年(呼潮と接した書店員による、実際の印象や見聞を織り交ぜた伝記ふうエッセイ)、伊藤秀雄「淡路呼潮」『大正の探偵小説』三一書房1991年(鹿嶋中央図書館に所蔵あり)、遠藤純「淡路呼潮の児童文学─探偵小説を中心に─」『国際児童文学館紀要』11号(現時点で最も詳細な伝記研究を含む、NDLデジタルコレクションで閲覧可能)、伊藤秀雄「淡路呼潮について」『日本古書通信』70巻12号などを参照されたい。以下の略歴は、以上の参考文献を元にごく簡略に素描したものに過ぎない。

淡路呼潮は明治二十五(1892)年に兵庫県林田村に生まれた。十代で上京、友人の伝手で北島春石(硯友社派の作家で、尾崎紅葉や柳川春葉の弟子)に師事した。春石の世話で『文芸倶楽部』『講談雑誌』等の文芸誌や児童雑誌等に大衆文学・児童文学作品を発表するようになった。
師の春石が1922年に亡くなったことは呼潮にとって大きな衝撃だったが、なんとか立ち直り、桜井の推輓で春江堂の『世界童話集』(NDLデジタルコレクションで閲覧可能)や『浅草観音霊験記』や講談の焼き直しの時代ものを書いたり、博文館等の雑誌への連載、また自分の名前を出さないような仕事も行い、一時期は収入が安定していたという。その頃、伊上凡骨という「文人肌」の「木版彫刻家」がおり、彼のところが物書きのたまり場のようになって、呼潮もそこへ出入りしていた。吉川英治らと知り合ったのもここだった。また、彼は先輩格として添田知道(=添田さつき、唖蝉坊の息子)を博文館へ紹介したりした。1924年には結婚して四谷塩町に新居を構えた。ところが、呼潮の知己であり、彼によく原稿を依頼してくれていた森暁紅一派が博文館から退くことになり、これによって収入が急減してしまい、貯金も尽きて果て、方方へ借金を重ねるようになった。板橋町金井窪や滝野川へと引越したが、少ない原稿料に三児の養育もままならず、胃病や神経衰弱にも悩まされ、酒に溺れて自暴自棄になりつつあった。ついに護国寺の墓地で自殺未遂をしたので、彼を心配した松本翠影や牛歩などの俳句仲間が四国遍路を提案したという。昭和十年、彼は四国遍路に赴き、六年間僧形に身をやつした。その間、かねてより親しんでいた自由律俳句も作っていたようで、そのいくつかは桜井の「呼潮へんろ塚」に掲載されている。たとえば「無我夢中のへんろ路の土筆」「炎天すっかり陽に酔ってしまった」「へんろ疲れの雨の夜のこうろぎ」「歩く程にへんろ路いよいよ爽やか」など。
遍路を終えてから、彼は作家活動に戻ろうとしたが、もはや以前のように書くことはできなかった。そのため、高田馬場付近の観音寺で得度した。野田の金乗院や雨引山での住職の後、昭和二十四(1949)年ここ弥勒院の住職となり、地元の人々と交流する日々の末、1960年10月11日に没した。
今ではほとんど忘れられた作家だが、日本文学研究者の遠藤純は「子ども向けの探偵小説においては、比較的早い時期からSF、科学的な探偵小説を手掛け、その分野において先駆的ともいえる作品を生んできている」と評価している。


3.弥勒院訪問

さて、現在の神栖市は鹿島臨海工業地帯のおかげもあって(実際のところ工業地帯の大半は鹿嶋市ではなく神栖市に位置する)、茨城県内でいえば相対的に「都会」とさえ言えるほどに街は栄えている。そこらじゅうに住宅街が形成され、よく整備された広い公園や、県内有数の蔵書数を誇る図書館を持ち、30分毎に東京駅行きのバスも出ている。そんな神栖の繁華街から離れ、かといって鹿嶋や潮来の街にも決して近いとは言えない田園地帯に位置するのが下幡木で、その入り組んだ住宅地の中にぽつんとあるのが例の弥勒院だ。

山門
本堂と僧房
令和二年設置の文化財紹介看板
山門手前の石碑


赤い山門を抜けると意外なほどに開けた境内があり、奥には本堂と僧房が、左手にはお墓が立ち並んでいる。お墓の近くには「神栖市指定文化財」に登録された「写経石」を解説する看板が建っており、これは「令和二年八月」のものらしく、比較的新しい。これによると、少なくともこの寺院は文化六年(1806)にはあったらしい。
平坦でだだっ広い砂利敷きの空間が境内の大部分を占めており、どことなく索然とした雰囲気だ。本堂に増設された僧房や周囲の石灯篭は比較的新しいもので、年季を感じる木造の本堂や一部の古びた墓石等に、わずかに呼潮のいた時代を偲ぶことができるといえようか。特に見るべきものもなく、早々に立ち去ったのであった。

ちなみに、高田馬場付近にある観音寺(呼潮が得度した寺院)に、吉川英治ら友人が建てた碑「呼潮へんろ塚」がある。これに関してはインターネット上にいくつかの訪問記が発見できたが、弥勒院に関してはそれが確認できた限りではなかった。そこで、近所なのでせっかくだからということで訪問記まがいのものを書いてみたわけだが、私自身は別段淡路呼潮という作家に思い入れがあるわけでもなく、今のところ読んだこともないため、特に感慨といったものはない(桜井の「未開の地」「原住民」という記述に驚いたくらい)。

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