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他所の母親

私が私を今のままでいいよって認めているのに、何で外野が口出してくるかな。変われないことに悩んでいる時には「ありのままの自分を愛せ」と説教垂れるくせに。否定するのが母親の仕事なんだろうか。「母親にとっての幸福」へと娘を導くことが親としての務め?

親ほど歳の離れた友人が何人かいる。彼女はきっと「娘思いの良い母親」なんだろうけど、しかし、客観的に見ているとどこか重苦しさを感じてしまう。雁字搦めのような。親っていうのは本当に馬鹿な生き物なの、子供の幸せのことしか考えられないのよ、と、繰り返し言う。会う度に、何度も何度も。その愛情は私にも向けられる。とにかく幸せになってほしいの、〇〇ちゃんにもね、と。
以前はその言葉がとても嬉しかったはずなのだけど、付き合いも長ければ、人は変わる。

私、今も幸せだよ。

彼女は私を、彼女の想像しうる幸福な未来へ導こうと躍起になっている。結婚する相手によってその先の人生がすべて決まってしまうのよ、だから絶対に良い人を選んでね、と。うーん。私、絶対に結婚したいとか、絶対に結婚したくないとかじゃないから、どっちでもいいな、子供も絶対に欲しいと思っているわけじゃないし、良いご縁があればそれはそれでいいし、出会ってから考える。とか言ってみたら、「まだ若いのに!」「まだそんなに落ち着く時期じゃない!」「アンテナは常に張っておかないと!」と猛攻に遭った。

私、今も幸せだよ。結婚してなくたって、子供がいなくたって、私は今とても幸せだよ。

昔、新興宗教に誘われた時のことを思い出した。そういうのは初めての経験だったし、ああいう人たちって根っから善人だし、あからさまに勧誘してきたりしないから、私はカモにされていることにしばらく気が付かなかったのだけど。しかし、最終的には、聖書を学べば〇〇ちゃんはもっと素敵な人になれる、〇〇ちゃんはもっと幸福になれると言われたのがかなり引っ掛かって、私はカチンと来てしまったのだった。人を不幸呼ばわり。そんな失礼な話ないでしょう。当時のLINEがまだ残っていた。親しくしていた人、良くしてくれていた人に、きちんと伝えて終わりにしたかった。22歳、まだ学生。当時の私なかなかやるじゃんかと思う。

「娘思いの母親」である友人にも、彼女なりのルール、彼女なりの信仰があって、それが幸福に生きる秘訣だと信じて疑わない。だからそれを娘にも与えようとする。この道を行きなさいと先導しようとする。構図は宗教勧誘と何も変わらない。あの人たちだって、人を騙そうとなんかこれっぽっちもしていなかったもの。100パーセントの善意で私をただ導こうとしていた。同じなんだよな。幸せを願ってるからこそ導きたい、というのが。なぜ自分が先を行っていると思える?そういう人たちはどこか不幸に見えてしまう。条件が決まっているのだ。条件達成すれば自動的に幸福になるわけではないのに、それを揃えようと必死だ。とても弱々しい。「これ」というものに縋らないと生きていかれないのだ。

そうすると、LINEを見るに私は、昔から一貫して、自分に自信を持っていたのだな。自信満々というタイプではないにしても。もっとずっと軟弱だと思っていた。

実の家族は誰も結婚を急かさない。私が私を急かさない限りは、もう私は穏やかに暮らしていけるというのに、なぜ他人にそのままじゃダメだとかとやかく言われないといけないんだろう。「幸せになって」と繰り返す彼女の方がとても苦しそうに見えた。私の方がよっぽど深く息が吸えてるような気がした。絶対的な理想像を携えて生きるのはとても苦しいことだと思う。そうでない自分、そうなれていない自分を否定しながら生きなくちゃいけなくなるから。私はもうこの先一生自分を甘やかすと決めたのだ。だから、なんだっていい。どっちでもいい。私が苦しまなければそれで。私を苦しめる人と距離を置ければそれで。ああ、でも、母親になるってそういうことなんだろうか。私も母親になったら、自分なりの宗教によって他者を導きたいとか思ってしまうんだろうか。私の宗教や私のルールは私だけのものであって、誰のものでもないのに。子は親の道具でも分身でもないのに。おそらく彼女の呪いはまだ解けていない。だから娘の呪いも解けない。

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