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名前を呼びたい

呪いみたいなもんだと思う。名前ほど強烈なアイデンティティってない。人も物も、名前を持つものはすべて、そう名付けた他人の意図と共に存在している。名前のない人はいない。必ず、自分以外の他の人間によってなんらかの意味を込められ、名付けられる。名前は生まれて最初に与えられる贈り物だなんて言うけれど、そんなかわいいもんじゃない。自分の意思とは無関係に決定されるそれを、大抵の人は一生背負う。他人の意図の下で、自分を生きていく。
私は、自分の名前を気に入っている。生まれた季節に実る植物の名を文字ったもので、誰にでも読むことができるのに、音も表記も同じ人と出会ったことはまだ一度もない。苗字は親族の他には滅多にいないめずらしいものなので、同姓同名の人はいないと思う。自分だけのもの、と思えるのが嬉しい。その植物は香りが印象的で、ほんの少しそこにあればよく匂いが立ち、すぐにそれと分かる。私も好きな香りだ。そんな素敵な存在の子になってほしいと母が付けた。はじめは植物の名そのままを活かすつもりが、両祖父母の世代にはあまり馴染みがなかったようで、試行錯誤の末に上手くもじって付けられた。画数とかは何も考慮していない。
名前は、その人を形づくる大きなひとかけらだ。他の何が変わっても、名前はそう簡単には変えられない。小学生の頃、自分の名前の由来をお家の人に聞いてみましょう、と宿題が出された。改まって由来を聞いたことなんてその時くらいだった。だけど、社会人二年目になって、全部がいっぱいいっぱいで、何をするにも自信がなくて、ズタズタに崩れ落ちそうになった時に、もう一度聞いてみたくなった。小さい頃から、自分がその名を持っているということがかなり自慢だった。それに関して言えば、自意識がとても強かった。だから、その由来を聞いて肯定することができたなら、認めることができたなら、自分にとっての何よりの自信になるのではと考えての行動だったのだ。名前ほど自分の存在を決定づけるもの、確かにするものは、きっとないから。それだけのために母に電話した。驚いた。単にその季節の植物で、同じく植物の名からとられた姉の名に揃えたのだということしかそれまで私は知らなかったのだ。先に書いたような意味があるなんて、つい最近まで、全然知らなかった。素敵だと思った。聞いて良かったと思う。姉の名前の由来もついでに教えてもらったけれど、それもかなり素敵なもんだった。
趣味を聞かれると、季節を楽しむこと、といつも真っ先に答える。その時期に咲く花を見に出かける。旬の食材を食べる。季節の移り変わりを味わうよりも喜ばしいことなんて自分にとってはなかなかないよなあ、と思う。それを好きだと自覚したのは二十歳を超えてからだ。不思議だ。名前には抗えないのだろうか。季節に結びつけて名付けられた私を生きているから、季節を味わうことにこんなにも幸せを感じるのだろうか。
本名だけを自分の持ち物とする必要はなくて、一番に名乗りたい名前があるなら、それに引っ張られてゆけばいい。きっと名前にはそれほどの力がある。好きな呼ばれ方や、受け入れられない呼ばれ方は、私にもある。こうは呼ばないでほしいと、親しくなった相手にはいつからか自分で伝えるようになった。名前は何よりも強い自己意識だから、それにひとたび嫌悪感を持ってしまえば、苦しみは計り知れない。
私は、大事な人の名前はなるべくたくさん呼びたい。名前を呼ぶことを愛のひとつだと思っているからだ。そして、いつか私が人に名付けることがあるなら、呼ばれるたびに幸せになれるような、自分のことを好きになれるような、自分が自分でよかったと実感できるような名前をつけられたら良い。呼ばれたい名前があり、それを呼んでくれる人がいること、それだけで何よりも強くいられると思うのだ。どうせ背負わせてしまうのなら、そういう色の呪いを、きっといつか誰かに掛けたい。

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