見出し画像

啐啄同時。

みなさんの考える「素直」ってどういうことでしょうか。

「〇〇ちゃんってとっても素直でいい子だよね」
この場合、対象となっている子はもしかしたら、しっかりと丁寧に「ありがとう」や「ごめんね」を相手に対して言える子であったり
言われたことをしっかり理解して次に繋げられていたり

色々な事象があると思います。
でも、本当に「素直」であることが善といえるのでしょうか。

日本の就活のよくある面接内容に
「あなたの長所と短所を教えてください」
という質問がある。

長所によく挙げられるのは、「向上心がある」「ポジティブ」「真面目」「行動力がある」「コミュニケーション力がある」「素直」
短所で言うと、「時間管理」「頑固」「楽観的」「疑い深い」
などなど、さまざまである。

では、どのようにそれらの特徴が長所や短所と言えるようになるのか。
それはその人の主観によって変化すると思う。

私は今までに何度か「素直」であると言われたことがある。
しかしそれをあまり長所として感じたことがない。
つまり、私は少し捻くれ者なんじゃないかな…と思う

私が「素直」でいたことでたくさんのものを得ることができたことは確かだ
さまざまな交友関係、自分のやってしまった失敗、恋愛感情、、、
しかしそれと同時にたくさんのものを失ったとも思う。
海外で「素直」に困っている人を助けたつもりがお金を取られたり、「素直」にこの人に会ってみたいと思った人に騙されたり、「素直」であるが故にチャンスを逃したり

「素直」であることは常に善であるとは限らない。
なのになぜ大人は「素直」であったり「いい子」を育てたいと思うのか。

「素直」であることで、社会に出て困ることはたくさんあると言うのに。
そういう人がなぜ痛い目に遭わなくてはならないのか

「素直」でいることはいつでもいいことではない。
「素直」でいることで自分自身を殻の中に閉じ込め、外から突かれた際に崩れてしまう、そんな人に私はなりたくない

教育学の授業で出会ったある四字熟語「啐啄同時」(そったくどうじ)について少し話したいと思う。

教育現場において、教師が生徒の準備ちょうど整うころ、そしてちょうどいいタイミングで少しの支援を同時にしてあげること。
「絶好の好機、またとない好機」を逃さない。
卵の中のヒナがつついている(啐)のを親鳥が気付かなかったり、つついていないのに親鳥が殻を破って(啄)もいけない。

これが啐啄同時の四字熟語の意味である。

では、「素直」であること、これはどうだろうか。
子供でいる間は多くの場合、さまざまな支援がある。
独り立ちするまで「素直」でいることは、ある意味従順でいることのような感じがする。

そしてその家族と暮らす「殻」から出る時、子供は「素直」さを持ったまま「殻」から出ていくことが多い。
多角的な方面から物事を観察し、考える、いわばクリティカルシンキングの能力が足りないことが多いように感じる。

私は子育てをしたこともなければ、まだ教師として働いたこともない。
しかし、生徒に単なる「素直」さを抜け出して、「愛情」を持って相手を見れるように、接することができるようになって欲しいと思っている。
「素直」という殻から抜け出すためには教師が上手く殻を突いてあげる必要がある。

そのために教師が必要とされる能力は何か。
それは、「質の良い問い」であると私は考える。
どれほど生徒に対して自身の「素直」さの脆さを知らせられるか。
社会について学機会を与えられるかが大変重要になるのではないだろうか。

情報がすぐに手に入る時代に当たり前に「素直」でいることが本当に大事なことなのか
考えるきっかけを与えていきたい。
それは道徳や哲学の授業でやってもいい。
しかし、私はそう言う実用的なスキルこそ、どんな生徒も受けるであろう「教科教育」に落とし込んで学んでいくべきであるのではないかと思う。

何か確固とした正解があるとは思わない。
でも、今よりも明日、そして将来も大きな心と視野を持って行動できる生徒を育成するには、クリティカルシンキング、「素直」さを捨てたそんな能力を持った生徒が必要なのではないかと思う。


何事もしっかり考えてからやってみる。
やってみたら必ず振り返る。
私がふとこの考えに至ったのは、とある人物と「ケータイを使って現代的な出会い方」をしたからだ。(きっと多くの方がこう書くだけで理解してくれるだろう)
自分を大切にしつつ、経験を積み、いつ死んでも悔いがないように生きるポリシーを常に大事にしていきたい!




この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?