【読書感想文】『不実な美女か貞淑な醜女か』米原万里
著者の米原万里氏(1950-2006)は日ロシア同時通訳者。『不実な美女か貞淑な醜女か』は、ことばに興味のある人なら楽しめると思うエッセイです。
大きく頷きたい文章が至るところに散りばめられており、初版は1994年ですが30年をいう年月を感じさせない作品です。とにかくおもしろい。ことばに興味があれば。
上記引用の文章も好きです。
「国際」と叫ばれ続ける昨今ですが、相手にばかり目が行ってしまい、こちら側がおろそかになっている気もしなくないな〜なんて。そんなふうに思わなくもない。
きっと、文化や社会などでいろいろな例はあるんでしょうけど、私は言葉でそれを感じます。やたらめたらに横文字を使いたがる人たちや社会に違和感を覚えます。
「やたらめたら」は悪意がありましたね。
同じことを指す母語があるのにわざわざ横文字で表現することにまだ私は違和感を覚えます。とはいえ私も使います、カタカナ語。
横文字っぽい表現もなるべく使わないようにしています。
「エモい」や「ディスる」でしょうか。
もちろん状況に応じて使うこともあるけれども、
これらって「それっぽい」言葉であって、限定を避ける言い方でなんだかずるいなあと思います。自分が体験した物事の機微を、自分でしっかりと考えずにぼんやりした表現で受け手に投げて解釈までもを委ねているような。
言葉を大切にしていきたい民からすると
限定を避ける類の横文字単語をなるべく使わないように心がけたい。
横文字言葉で表現することで限定感が払拭され、その言葉の意味がマイルドになる気がします。そう、マイルドに。それは良い点でもあるのでしょうが、横文字に頼り続けると表現がどんどん下手になっていきそうな気がします。
自分の心情や目に見えるもの、触れているものをなるべく自分の感覚に近い言葉で表現したい。だからこそ、これからも母語を大事にしていきたいものです。
私はカタカナ語を多用することに抵抗があるのですが、著者はこのようにも記していました。
とっても、、、わかる、、、。
カタカナ語を多用する人の言葉はなんだか知的風に聞こえますよね。
だってこちらが耳慣れない言葉を使うのだから。
そして本来抱く必要のない「恥」のせいで、その言葉の指す意味を訊ねることもできないまま会話についていけなくなり、劣等感を抱く。
カタカナ語を多用する側は、自身が教養のある人だと勘違いし優越感に浸る。
本当は、その言葉の指す意味を母語の日本語で説明できないほどに、曖昧な意味合いで話しているのに。
そもそも、曖昧な言葉は英語発でなくても日本語のなかだけでもたくさんありますが、それは承知の上、今回はカタカナ語の多用による日本語の危うさについて書きました。
先人が作り上げてきた私の母語である日本語と日本の文化やしきたりをこれからも愛でていきたいものです。その上で、英語をはじめとする諸外国語や異文化も大切にしていきたい。
そんなふうに思うのでした。