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当たり前だけど大切なもの~三男①~

 高校1年生、中学2年生、小学5年生の三人の息子達。同じ両親から生まれたのに、外見も性格も全く違う息子達。その子の性格や環境などが違えば、個性も違って当たり前。そうは思いつつ、長男と次男とは育て方を変えたことで、ちょっと気がかりだった三男。でも、見えないところで「優しさ」「思いやり」がちゃんと育っていた。やっぱり最後は「愛情」なんだ。

S(三男の名前)は、ずるい!

 長男は正義感が強く、自分の信念をしっかり持っているタイプ。次男は気が弱く、しかし同時に思いやりに溢れ、感受性も豊かなタイプ。

 では、三男は?と聞かれると、お調子者で明るく、誰からも可愛がられるタイプだった。

 「だった」というのには訳がある。ある時、長男と次男から異議申し立てを受けたのだ。誰からもという訳ではなかったようだ。

「お母さんは、Sばっかり甘やかして!Sは、ずるい!!Sのことも、厳しくしてよ!」

 驚いた。育て方を変えたことで、こんなにも不公平感が生まれていたのかと。

叩いて教えた時代

 私自身が幼いときの話。悪いこと(あの頃は定義が良くわからなかったが)をしたら、両親からげんこつをされた。または、裁縫用の75センチものさしでお尻を叩かれた。祖父母から昭和初期の教えを受けた両親により、私は痛みを伴う教育を受けて大きくなった。今、それが正しいとは思わないが、恨んだこともない。

 自分が子どもを産み、育てる中で、何が正しいのか分からなくなった時があった。時代は「しつけ」と「虐待」について違いを語り始めており、私にとってそれは、同時に両親を否定されていることにも通じたからだ。

 ある時、TV番組の中で、とある俳優さんがこう話していた。

「僕は、危険なことや人に危害を加えるようなことがあった時、迷わず叩きます。叩くこと自体は悪ではないと思っているからです。」

 なぜか、私はほっとした。まだ長男を生んだばかり(生後半年くらい)の頃で、この先息子とどう関わっていこうか悩んでいた時だったからだ。どこかに、両親の教育方法を否定しなくて済んだという想いがあったのかもしれない。

痛いのは自分

 私は、その子が3歳を過ぎるのを待って、息子達にげんこつを使うようになった。なぜ3歳なのかは分からない。あまりに小さいと可哀そうと思ったのだろうか。(でも、3歳でも十分小さくて、今となっては可哀そうなことをしたと反省している。)

 聞き分けが無かったり、人に迷惑をかけるような行動をとったりした時にげんこつをしていた。人目は気にしなかった。

 げんこつをする度、自分の心がとても痛んだ。そして、げんこつという行為を反省し、落ち込んだ。なぜなら、「しつけ」なのか自分の苛立ちをぶつけているだけの「虐待」なのか、自分のしていることが分からなくなったからだ。そんな私を日々見てきた夫が、ある日こう言った。

「もう、げんこつ止めたら?一番痛がっているの、自分じゃない?」

叩かなくとも子は育つ

 息子達の中で、唯一げんこつをされずに、叩かれもせずに育っているのが三男である。時々、「叩かないと分からないんじゃ?」と私も錯覚を起こすことがある。それくらい伸び伸びと自由に成長している。周囲に気を遣うこともなければ、何かをしてもらって当たり前の顔というか。自分の立ち回り方も知っているから、大概のことは思い通りに動かしてしまう。だから「Sは、ずるい!」と言われてしまうのだ。

 三男の自由奔放さ、天真爛漫さに不安はあった。社会生活に支障はないのだろうかと。叩かれずに育つと、こうも自分のことばかり優先にする子になるのだろうかと、しつけを間違えたかもしれないと本当に悩んだ。

 でも、違った。叩かれなくても、ちゃんと人を思いやれる人間になれることを、三男は証明してくれた。(長男、次男よ。叩いて育てたこと、本当にごめんなさい。)

最後は愛情なんだ

 コロナで自粛生活を余儀なくされ、買い物へ行くにも時間帯を選んだり、場所を選んだり、なかなか思うように暮らせない。そんな中、三男と二人で1週間分の買い物へ出かけた。

 山ほどの荷物をカートに乗せて、屋上のパーキングへ向かう時のこと。先に乗り込んだエレベーターには、次から次へと人が乗り込み、最終的にはカートが4台、大人が6人、子どもが4人乗った。ぎゅうぎゅうにもほどがある。エレベーターの中が三密だよ・・・。

 屋上について、エレベーターのドアが開いた。ドア付近の人から、次々と降りていく。驚いたことに、ボタン付近にいた人がさっさと降りてしまった。赤ちゃん連れのお母さんが下りようとした時、ドアが閉まりかけた。

 その瞬間、エレベーターの奥側にいた三男が、すかさず歩み出て、【開】ボタンを押したのだ。二人は、ドアに挟まれずに済んだ。

「ありがとう」

お礼を言われながら、【開】ボタンを押し続ける三男。ほどなく、全員が降りて行った。マスクをしていたため、三男の表情は分からない。が、私は驚きと安堵を一度に味わって得した気分だった。

 今までだったら、そういう役回りは長男か次男が担っていたはずだ。そして、「開けてもらって当たり前」のような顔をして、お礼を言いつつさっさと降りるのが三男の役目。その光景しか見て来なかった私には、本当に驚く出来事で、同時に、三男にも思いやりの心が育っていたんだと安心した出来事だった。

 私が見ている前では、もしかしたら【三男坊の役目】を理解し、それを果たしているだけなのかもしれない。そう言えば、三男を知る友人からは「優しい」と言われていたっけ。百聞は一見に如かずとはこのことか。(それに、三男と出かけるときは、必ず他にも誰かいたっけ。)

 叩かれて育った子はどうとか、叩かれなかった子はどうとか、人それぞれいろいろな意見があると思う。叩かれて嫌だった経験も、叩いて嫌だった経験も、叩かなくて不安だった経験もある私だが、叩かなくて良かったと安心した経験も積めた。そして、今回のことで分かったことがある。

 最後はやっぱり愛情なんだ。

◎あとがき◎

 最近、「虐待か?」と思うような罵声と鳴き声を耳にすることがある。昔の自分を垣間見ているようで、とても心が痛い。と同時に、お母さんの精神状態や子どもの心についてとても心配してしまう。自分もそうだったから、どちらの気持ちもわかるから。だから、私は、そういった保護者の力にも、そういった子ども達の力にもなりたいとも思っている。

 そして、いつかどこかで伝えたい。「愛情こそが全てだよ」って。

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