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幼馴染み|短編小説 後編

 車をUターンさせ、前日に宿泊したホテルに向かって再び出発した。今夜は泊まるわけではなかったが、風呂に無料で入れさせてもらえるというので東京へ戻る前に立ち寄る約束を咲希としていた。風呂に入ればお互い気持ちが整理されて仲直りできるかもしれない、そう思った。

 事故を起こしそうになった道の先から雪の勢いも和らいできた。街灯も少しずつ増え始め、運転が楽になった。あのカーブを何事もなく抜けていれば、こんなことにはならなかった。国道に出てからおれは遠く離れた山麓にちらりと目をやった。月明かりは弱く、はっきりとしなかったが、いつにもなくその姿が壮大に感じた。

 高速道路のインターに近いそのホテルは小高い丘の上のような所に建っていた。到着する頃には雪も止んでしまい、少しばかりお風呂でくつろいでいっても車が再び雪に埋もれる心配はなさそうだった。おれたちはずっと黙ったままだった。エンジンを止めて車の外に降りると、咲希も黙って降りた。おれが後部座席からバックを取ると、咲希もその下にあった自分のバックを黙って取った。鍵を閉めるとピッという電子音が異様に響いた。振り返らずにホテルの方に歩いて行くと、リズムの間隔がおれよりも狭い両足が雪の上をザクザク鳴らしながら続いた。暗闇の中で2つの白い吐息が浮かんでいた。

 受付フロントは2階にあった。1階の入口から赤い絨毯が敷かれた大階段を通っていく必要があった。頭上には巨大なシャンデリアがつり下げられていた。ライトの光がその内部で無数に反射して、夏の海のような輝きを放っていた。咲希は昨日この階段の途中で突然立ち止まった。おれは写真を撮りたいのかと思って放っておいたが、一向にスマホを取り出すことはなかった。振り返るとまっすぐおれの方を見つめていた。よく分からなかったので、おれは結局かまうことなく階段を登り終えた。

 とりあえず咲希をそっとしておくことにして、受付フロントに向かった。そこにはベトナム人のグエンという女性が立っていた。身長はおれとあまり変わらなかったが、すらりと伸びた手足はおれよりも長そうだった。褐色の肌はより顔が引き締まっているような印象を与えた。黒々とした瞳の中にはわずかに茶色が混ざっていた。

 彼女とは昨日一緒にワインを飲んだ仲だった。受付フロントの横には暖炉があり、それを囲むように木製のロッキングチェアや金華山織りのソファーが置いてあった。夜になるとスタッフが無料でホットワインを提供してくれるので客がそこに集まってきた。グエンは集まってきた客と一緒にホットワインを飲んでいたので昨夜は彼女がスタッフだということに気が付かなかった。

 咲希が寝付くのを待ってから、少しだけ会に参加した。グエンが手渡してくれたワイングラスはその日最後のものだった。着いた頃にはすでにほとんどの客は引き上げ、最終的にはグエンと二人きりになった。本当は部屋で酒が飲みたかったが、未成年の少女がいる前でそうはできなかった。

 昨夜グエンは青いジーンズに、グレーのロングTシャツというラフな格好をしていた。お酒を飲んで気分をよくしていたのかこちらは何も聞いていないのに、故郷ベトナムのことを語ってくれた。一度もベトナムに行ったことがないことを伝えると「絶対に来る約束してください。わたしが案内します」と言って手を握ってきた。

 制服を着た彼女の姿を見るのは今日が初めてだったが、ジーンズを穿いているときよりも、スカートの下にスパッツを穿いているほうがより足が長く見えた。おれは咲希が側にいることを忘れ、グエンとまた会えたことを喜んでいた。

「タクミさん、今夜も泊まるんですか?」
「いや、今日は泊まらないんですよ。だからワインは飲めないですね」
「飲酒運転はダメですからね」
「そうなんですよ。でもまた来るからその時にでも」
「お待ちしております、うしろにいる方は妹さんですか?」
「妹ではないんですけど、昔からの知り合いで」

 会話の途中で咲希がおれのコートを背中から引っ張ってきた。すぐに振り向いたが、うつむいているばかりで何も言わなかった。グエンは心配そうな面持ちでこちらを見つめていた。おれはそっと咲希の肩を掴み、グエンの前に立たせた。

「この人名前はグエンって言うんだよ。1年くらい前に日本へ来たばかりなのにこんなに話せるなんてすごいと思わない?」
「こんにちは。私はグエンです。お名前は?」
「咲希です」
「タクミさんの妹さんですか?」
「ちがいます」
「……」

 グエンが少し困っていたので、二人の間に割って入った。

「とりあえずお風呂に行ってきますね」
「タオルはありますか?」
「自分のを持ってきたので大丈夫ですよ」
「わかりました。どうぞ、ごゆっくり」

 脱衣所の中には誰もいなかった。背の高い木の棚にはいくつか空になった籐の籠が置いてあったりした。だが、衣服は入っていなかった。最後に出ていった客が電源を消さなかったせいなのか、扇風機だけは動き続けていた。ぬるい風は規則正しく籐のタイルが敷き詰められた床を抜けていった。急いで裸になると、洗面台の上にあった3つの丸い鏡の真ん中に自分の姿が映っていることに気付いた。

 貸し切りの風呂場でおれはつい口ずさんでしまった。浴槽は1つしかなかったが、たった1人で入るとなると市民プールのように広く感じた。お湯は濁りなく澄んでいて、ドット柄のようになっている浴槽の底がよく見えた。

 気分よく鼻歌を続けている途中で、脱衣所に人影が見えた。何事もなかったように洗い場に戻り、体を洗い始めた。そして、馬油のボディーソープで体を洗っているとがっちりした男が風呂場の中に入ってきた。おれは自分の行動が見られたかもしれないと思うと恥ずかしくなった。同時に、その姿を見ると心の中に何かが引っかかった。なるべく早く出ようと思ったが、一番奥に座っていた。出口に向かうにはあとから来た男の側を通り過ぎないといけなかった。ハンドタオルをきつく絞りながらどうしたものかと考え込んでいたが、すぐ側にサウナがあることに気が付いた。一度逃げ込んで様子をみることにした。

 雑に体を拭いてからサウナの扉を開いた。れんがの暖炉からヒノキの香りを含んだ独特な熱風が吹き、肺の中にどっと流れ込んできた。体の準備ができておらず、おれはたまらず咳き込んだ。サウナはこぢんまりとしていた。

 オレンジ色のマットが敷かれている座席は2列しかなく、せいぜい4人くらいしか座れそうになかった。おれは後列の奥のほうに座った。できるだけ物事を考えないように努めた。壁にかけられている12分時計にも目を向けないようにした。最初は息苦しさを感じたものの、汗が毛穴から吹き出てこなかった。おかげでタオルを使って汗を拭く必要がなく、かなり集中力を高められていた。

 しばらく立つと、せき止められていた大量の汗が老廃物と一緒になってぽつりぽつりと皮膚の表面に現われた。そこからはあっという間だった。汗でべったりとした顔面を拭おうとすると、その手からもまた汗が垂れて落ちた。集中力は完全に途切れた。

 もうそろそろダメかと思い始めた頃に、サウナの扉が開かれた。新鮮な空気が入りこんできた後、さっきまで体を洗っていたあの男が中に入ってきた。おれは咄嗟に下を向いて話しかけられないようにした。へそに溜まっていた汗がつーっと下に流れ落ちるのが見えた。男はすぐにおれの左下の座席に腰を下ろし、手にしていた薄い黄色をしたハンドタオルを丁寧に股の間に広げた。それから深く溜息をついて両膝に手をつきどっしりと構えた。

 男のうなじは刈り上げられていて、頭と首の境目がよく分かった。肌質はやや張りがないように見えたが、背中には一本線がしっかりと刻まれているのがわかった。それなりに体を鍛えているか、土木関係の仕事をしている人間なのか。とにかく体力には自信がありそうだった。

 すでに息は苦しく、心臓が内側から胴体を叩いているように感じた。ハンドタオルでいくら汗を拭いてもろくに吸い取らなくなり、肌の表面にただ水分を広げているだけだった。目を背けていた12分時計に目をやる度に、針が徐々に遅くなっていくように感じた。男の背中にも毛穴という毛穴から汗の球が吹き出していた。しばらくはぴくりともしなかったが、その大きな背中が微かに揺れ始めた。おれは腰を上げかけていたが、もう一度下ろした。

 どうしたわけか、男よりも先にサウナを出るわけにはいかない、そういう気持ちになっていた。試されているような不思議な感覚。もう一度拳を強く握りしめ、姿勢を整えた。男はこちらに興味はなさそうだったが、時より後方に体をひねるタイミングで目が合いそうになった。

 最終的に男はにっこり笑って出て行った。サウナの中では険しい表情を浮かべていたが、笑うと愛嬌のある顔をしていた。男がいなくなると、もう無理をする必要はなくなった。おれはマットの上にどっさり倒れ込んだ。板にはずいぶんと熱がこもっており、はじめ座ったときはマット越しでも熱く感じた。が、今は全身を押しつけても何も感じなかった。

 その後すぐに、サウナの外に出た。火照りを冷ますために水風呂に浸かると全身がぎゅっと縮んで、側頭部が縄で締め付けられているような気がした。男はもう脱衣所にいて、何やら楽しそうに口ずさんでいた。聞き覚えのある歌だった。そして、おれはハッとした。

 もし生きていれば咲希の親父さんもあの男と同じくらいの年齢だったはずだと。ギターの弾き語りを教えてくれたあの親父さんはおれが中学生の頃にくも膜下出血で死んだ。男が歌っていたのは初めて親父さんから教えてもらった歌だった。

 お風呂から上がったら咲希にも教えてあげよう。

                                  
 

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