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本多孝好「眠りの海」

こんにちは、うさぎのみぎてです。

昨日喫茶店に持っていった小説の最初のお話には、高校生の女の子とその学校の先生が出てきます。
もう20年前の作品ですが、その小説を初めて読んだのは6年ほど前、私が高校生のころでした。別の作品でその著者を知り、すっかり魅了され、行き着いた先の処女短編集でした。上述した最初のお話が彼の処女作。Wikipediaによると彼が作家を志すようになったのは大学4年生の頃、同じ学部の人(彼もいまも有名な作家)から卒業文集に入れる小説の執筆を依頼されたこと、らしいです。そういえば、昨年のいまごろ、先輩たちが卒業文集作っていたな、今年はどうするのだろう。とりあえず、著者が私と同じような年齢のころに書いた作品であるだろうと思っています。

高校生のころの私は、著者に対して「すごく魅力的な女性を書く人だな」という印象を抱いていました。私が惹かれるきっかけとなった別の作品でも、主人公の女の子は一見大人しく落ち着いているのに心には様々な葛藤を抱えていたり、あるいは抱えていないという葛藤であったり。彼の処女短編集でも魅力的な女性がたくさん出てきました。当時は、収録されている別のお話に登場する、強さと儚さを共存させていた女性のことが大好きでした。それに対して、この最初のお話に登場する女子高生は、どこか自分と共通する点を持っている気がして「好き」というよりは「親近感」のようなものを感じていました。主人公は先生側であり、女子高生はあくまで登場人物の1人でしかないけれど、女子高生の抱く想いや行動の意図、そうせざるを得なかった選択に共感し、私の中では先生はあくまで彼女を客観的に見るための語り手という認識でした。

大学生になり、何度かこの作品を読み返す機会がありました。すると、いままで見えてこなかった部分に心が揺れ動かされ、驚きました。

例えば、主人公の家に彼女がくる場面での描写。主人公は成人男性でもう1人暮らしをして長い。きっと来客がくることなんてほとんどなかったのでしょう。彼女にコーヒーを出すためにマグカップを使い、自分は仕方なく湯呑みでコーヒーを飲みます。
この光景が、痛いほど想像できて、苦しくなります。それは、自分も実家を出て生活をして、来客があったときにこのような経験をしたことがあるからでしょうか。高校生のころは気にも留めていなかった場面なのに。このマグカップの話が出たのは1度だけですが、きっと彼は彼女のためのマグカップを買ってしまっては元には戻れないことを知っていて、でもマグカップを買わなかったとしても、元には戻れないのでしょう。

高校生のころ抱いた共感も、大学生になって抱いた共感も、きっと話の本質的なところに関わるものではないのですが、価値観が変わっていくのも悪くないなと思いました。親になったら、違う登場人物に共感するようになるのでしょうか。あるいは、誰の気持ちもわからなくなってしまうのでしょうか。他の人がどのような感想を抱くのかも気になりますが、読書感想文ってなんだか普段の思考や経験が明らかになるような気がして少し恥ずかしいですね。

「眠りの海」(『MISSING』より)/本多孝好


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