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教師、教育、教授法(1)


はじめに

みなさん、こんにちは。以前からこのアカウントは開設していましたが、全く更新していない(開いてもいない)状態でした。

現在、私は大学3年生で、歴史学を専攻しています。ですが、将来教育を学びたいと思っています。なので、歴史に対する学びを深めつつ、教育に対する学びも深めているという2024年です。

こんな感じの現状なのですが、何を書いていくかは未定です。とりあえず、書きたいことを書いていければいいなと思っています。歴史や教育に関連する書籍を読んだ感想とかを文字化できればいいなと思っています。

今回は、私の理想とする教師について書きます。偏った意見が多いと思いますが、これが私のなるべきだと考えている教師の姿です。

理想

私はまだ教員ではないですし、そもそも教員になるかもわかりません。
みなさんも日常を重ねていくごとに、夢や目標が変わったりしていると思います。私はそんな感じです。

しかし、私にとっての「理想の教師」というものがあります。
「教師はこうあるべきだ」という私の考えでもあります。
これは、現場経験がない現時点での理想なので、この考えは変化すると思います。

今回は、現時点での理想を書いていきます。
私にとっての「理想の教師」というのは、要約すると「カリスマ性のある教師」です。ちなみに「カリスマ」を辞書で引くと、

① 神の賜物としての超自然的・超人間的・非日常的な資質・能力。教祖・預言者・英雄などにみられる。M=ウェーバーは,このような資質をもつ指導者に対し人々が人格的に帰依する関係をカリスマ的支配と呼び,伝統的支配・合法的支配と対照をなす支配類型の一概念とした。
② 転じて,一般大衆を魅了するような資質・技能をもった人気者。

スーパー大辞林「カリスマ」より

という説明になっています。
ここでは、②の説明が私の思うカリスマに近いのかなと感じます。この記事では、私が思う「カリスマ性のある教師」になる要素を書いていきます。

言葉遣い

個人的な考えにはなりますが、大前提として挙げられることは「言葉遣い」です。普段から生徒と関わるものなので、こういうところはちゃんと綺麗な日本語で話してほしいです。

みなさんも、方言のある地方に行くと、その地方の方言を話してしまうみたいなことありませんか。また、憧れの有名人の口調を真似したり、などなど。

このように、言葉遣いは他人から影響を受けるものだと思います。

全く言葉を話さない授業は授業ではないので、生徒は少なからず教師から影響を受けていると思います。普段の口癖や言葉遣いが悪いと、生徒の将来(社会に出たとき)に悪影響をおよぼす可能性があります

ここでいう「悪さ」は人それぞれですが、私の場合は、「罵詈雑言」などの相手想いではない言葉はもちろん、「ら抜き言葉」や「二重表現(例:達成感を感じる)」も含みます。

私も完璧ではありませんが、文法としてのミスも避けたいです。ちなみに私は「やばい」を多用してしまうので、修正できるように気をつけます。

理論

教師にとって大事なことは複数あります。その中でも、教育理論(教育学)については完璧でなくてもいいので、知識としていれるべきかなと思います。

みなさんにとっての教育とはなんでしょうか。「偏差値〇〇からの逆転合格」に導いた教育が一番いいのでしょうか。教育の分野においては一番というものは決められないと思います。それぞれにメリット・デメリットを持っている、それが教育だと思います。

日本の場合、教育は全員が受けてきたものなので、みなさんそれぞれに「教育経験」があります。そのため、「〇〇教育がいい」とか「こういうときは〇〇するべき」とか、十人十色の教育に関する意見を言い合うことができます。

しかし、ここで気をつけてほしいことは、それは「経験」であり「理論」ではないということです。広田照幸さんの著書『ヒューマニティーズ教育学』には教育学について以下のように記述されています。

ともかく、教育については誰でも議論ができてしまうし、教師の仕事には誰にでもやれそうだ、というムードがある。もしそうであれば、教育学なんか学ばなくたって大丈夫だ、ということになってしまう。

広田照幸『ヒューマニティーズ教育学』(岩波書店、2019年)

このように、誰にでも教育に関する経験があるからこそ、教育理論を知るべきなのだと考えています。とある事象に自分自身の経験だけをもとに解決策を出す場合と、教育学の理論を知った上で解決策を出す場合では、結果は異なると思います。

せっかく教師になるんだから、といった気持ちです。

本質

「カリスマ性のある教師」という条件に、担当教科の本質をどれだけ理解しているかは重要なポイントです。本質という言葉では捉えづらいので、どれだけその教科の知識が豊富かということにしましょう。

私は以前、学習塾の教師をしていた時代があります。そのときに「知識の多さではなく、どう教えるかが重要」というアドバイスをもらったことがあります。確かに、「どう教えるか」という「教え方」は重要なポイントです。

しかし、私はこの意見には反対の立場をとります。完全に「教え方」を否定しているわけではありません。「教え方」を気にしなくても、素晴らしい授業ができるかといえばそうではありません。

私の意見は、「知識」という基礎がなければ、「教え方」では勝負できないということです。

みなさんが印象に残っている授業はどんな人物でしたか。

私は高校時代にスタディサプリにかなりお世話になりました。画面越しの先生はみんな豊富な知識を持っていて、その知識を活かして授業をしていました。私は、その豊富な専門的な知識に惹かれました。

こんな感じで、みなさんが思い浮かべた印象に残っている授業は、専門的な知識を持った教師がおこなっていたと思います。「知は力なり」という言葉があるように、専門的な知識は、授業をする上での大きな武器になります。

専門的な知識を備えていると、自然とその教科の本質がみえてくるものです。この本質を伝えられるかどうかは教師次第になってきます。ここで、教え方が登場してくるのです。

浅い知識で教えても、なにも面白くないし、本質も伝わりません。生徒に伝えるべきは、その場しのぎの面白さではなく、教科としての面白さです。そのためには「知識」が必要だという考えです。

前半の総括

今回、私が思う理想の教師として「正しい言葉遣い」「理論を用いた教育」「教科に対する専門的知識」、という三つをあげました。

私が思う理想の教師の要素としてもう一つあるので、
次の記事に書きます。

賛否両論はあると思いますが、
ここまで読んでくれてありがとうございました。


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