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現代アート

現代アートというのは、人に見せられる形になっている表現のことだと思う。

美術鑑賞という言葉を使ってしまうと、何だか多くの知識を求められる高尚な趣味のようでもある。近年は展覧会のチケット代もお高くなってきたので、気楽な趣味ではないかもしれない。

が、アート自体は、特別なことではないと思っている。

もちろん、昔の物だから価値があるとか、特別な技能を習得したからできた作品とか、特別な事情が絡むことはあるだろう。

それでも、日常はアートだとか、人は誰でもアーティストだとか、そういった、人の生き方や暮らしがそのままアートというような言葉は、昔からちらほらと見かけてきた。

そんな言葉にあまり実感はなかったが、今はフツーにそう思う。
このnoteを始めたきっかけでもある、ななめな学校でもそう教わった。

そう言葉などで明記できる形で教わった訳ではない。先生側から何かを教える、という場ではなかった。

ただ、日常を表現した日記と写真を、素敵に設営してくれた展覧会場で公開する、という内容で企画してくれていたのは、2021年のななめな学校。

特別なことではない日記が展示物になるというのは、アートの本質に近いと思う。その体験も、現代アートへの理解を促してくれた。

そのもっと前から、現代アートに親しむようになってはいた。が、どう楽しむんだろうというような、迷いや戸惑いのようなものを全く感じなくなったのは、ななめな学校も終わり、昨春「まれびとと祝祭」展へ行ってから。

小さな展覧会場だったが、岡本太郎作品もあった日本橋高島屋本館での展覧会。いろいろと腑に落ちたというのか、何だかすっきりと納得した。

初めて見た現代アートは、宮島達男作品だっただろうか。2000年の東京オペラシティアートギャラリー。ちなみに写真の「9」は2020年の個展のときの購入。

私のここでのnoteもアートだと思っている。
自分をアーティストとは思っていないし、アーティストになりたいという話でもない。

ただ、そのままの自分の好きやこだわり、日常を表現し、誰でも見られる状態で公開しているここは、私にとってアートの場所という認識。

特別なことではなくてもアート、と思えるようになったことで、現代アートを楽しめるようになったと思う。

現代アートというと、「何これ?」「何がいいの?」「意味がわからない」「で、何がしたかったの?」「わからないから要らない」というような感想を持ってしまったりする。私も、多かれ少なかれ、似た感想は持ったことがある。

アーティスト本人に向かってそう伝えてしまうなら、確実に失礼な感想。
だが、思うだけなら、それもフツーの反応だと思う。

それは表現する人の感覚もそれぞれ違うし、その表現を受け取る人の感覚もそれぞれ違うのだから。気が合う組み合わせになる方が、珍しいくらいではないだろうか。

商業として成り立つためには、珍しいくらいでは困るのだろうし、アーティスト側は、「何これ?」とかの質問に答えられる準備は必要だと思うが。

ここまでが、私の現代アートへの考え方。

今回、このテーマで書いてみることにしたきっかけは…
先日、展覧会を一緒した友人が、現代アートはわからないから要らないんだけどな、というようなことを会場内で話していたから。

個人的には、正解かどうかは知らないが、現代アートを理解して楽しんでいるつもり。一度、言語化してみるかと書いてみただけ。

そう。正解かどうか、そもそも正解があるのかどうかも知らないし、ここまでの文が誤りだらけの可能性もある。

それでも、気軽にいろいろな人が表現を楽しめる時代になったのだから…
いろいろな人の表現を楽しめる方が、日常もきっと面白くなるだろうと思う。

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