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【SNS時代の考える力】情報過多にどう向き合い思考力を養えるか?

TAKA(@Murakami_Japan)です。先日clubhouse(@takamurakami)で「常識を疑う、問う力」のテーマで話をしました。私が質問を受ける立場だったのですが、あらためて自分の「思考」に対する考え方を言語化する良い機会となりました。私が子供の頃よりも情報過多で、簡単に世界中の情報にアクセスでき、またSNSが浸透した現代でこそ、情報との向き合い方や「思考」について考えることが重要なのではないかと考え、恥ずかしながら私の「思考」の癖をnoteすることにしました。

常識を疑うには知識(=インプット)が必要です。一方で、しっかりとした「思考」がなければ常識を疑えませんし、適切な問い(=アウトプット)も立てられません。結果、新しい視点や付加価値を生み出すようなアウトプット自体もなかなか生み出せないと思います。

ましてやSNS時代において個人や行動データに基づきターゲティングされ、情報を選別的に投げつかられる時代では、情報の選別そのものが「思考」に与える影響も甚大になってきていると感じます。

ビジネスの世界でも、この手の壁にぶつかり期待した成果を得られないケースは多くあると思います。つまりなかなか新しい発想が生まれず、他者やトレンドのフォロワーに陥り、差別化要因が見出せないといったことです。情報の選別と「思考」を磨くことができればより良い結果が得らる可能性は高まります。ただ、本当の正解を私も知りません。今回は各人のやり方を振り返る意味、つまりもう少しよい情報との付き合い方、また「思考」の深め方がないか考えるためのフレームワークを提供することを目的としたいと思います。

ちなみに今回のテーマである「思考」は、個々人の時間の使い方、思考力の育て方、教育などの多方面に通じ得ると考えています。とはいえ、脳科学や思考法の専門家ではないので振りかぶった議論をするつもりはなく、素人らしくカジュアルにあくまでも私はこうやってきたという一例として、気楽に読んでいただければ嬉しいです。

インプットor思考orアウトプット、いずれを重視すべきか

私はインプット、そして思考、その結果をアウトプット、と3つのステップに分けて考えています。

1)インプット:本やメディア記事を読んだり、話を聞いたり、目で見たりする

2)思考:頭で色々と考えを巡らせる

3)アウトプット:考えたことを、話したり、言葉で表現したり、文章にしたり、発信する

どれをどれぐらい重視するかとか、人によってかなり違いがあるのではないでしょうか。丁寧にインプットをすることを重視、つまり正しい知識を得るために専門書などを多く読む方もいれば、とにかく考えたことをどんどんSNSやブログなどに発信するアウトプット重視の方もいるでしょう。

私は「思考」を圧倒的に重視していると思っています。あまり余計な情報を入れるよりも、とにかく「思考」をできる限り優先させるようにしています。インプットは限定し、思考を優先させていると思います。

インプットを限定する意義

限定するデメリットははっきりしています。通説や常識に対する正しい理解ができなくなる可能性があることです。そして、正しい理解がないことで思考が深まらない、もしくは間違ったロジックや結論を導き出すリスクがあります。

現代は情報過多の時代とも言えます。知りたいことは調べれば対外の情報にはアクセスできますし、専門書も世の中に溢れています。情報、専門家の意見、真理、色々な常識が溢れています。

そんな中、私はインプットを限定していると思います(あくまでも個人の実感値です)。ただ、全てを遮断しているわけではありませんし、重要性の高い情報と感じるものは積極的に取りに行きます。その中で、必須の論点(それほど多くない)やコンテクストは掴むようにしていますしが、そのための時間は最小化していますし、全ての論拠を詳細に理解することは(それが必要だと判断したらやるが、多くの場合は不要)敢えてしません。

それは思考の「自由度」を持たせるためです。インプットを「まとまった情報を正しく理解すること」を目的にしすぎてしまうと、そのために脳のエネルギーを使いすぎて「思考」のパワーが減退してしまいます。「自由度」という観点では、SNS時代では個人に最適化された同質性の高い、ある種の自由度を奪うような情報が多数投げかけられ、情報のdirectionに対して大きな偏りが生まれます。「思考」に対しては「均質化」という強い力が働くのです。「自由度」が奪われやすく、私が「自由度」を保つ意義が高いと考える理由です。

逆に重視すべきなのは、まとまった情報ではなく「一見意味がなさそうな情報」です。ふとした瞬間に目に止まったものかもしれませんし、関係なさそうな情報です。こういうインプットは軽視せずに大事に噛み締めます。インプットを限定することで、自分自身で「大事な情報を取捨選択する癖」がついてきます。情報のダイバーシティも極めて重要です。

結果として、ごく少ないインプットでもその「密度」が高くなるため、思考につなげやすくなりますし、異なる違う事象の情報をつなげて、思考を深めたり発展したりすることがしやすくなります。情報は増えることがメリットになることがありますが、増えすぎると脳が情報をクレンジングしきれなくなり、その前捌きに多大なるコストが発生するのです。

これはAIの世界でも言われることですが、情報を活用するためには、まずそこに意味付けし、コンテクスト与えて、意味のある情報にクレンジングすることが、パフォーマンスを上げる上で重要なのと似ていると思います。いかに効率的にクレンジングするか、つまり「大事な情報を取捨選択」することが大事だと思います。

思考を重視するわけ

端的には考えるのが好き、というのが答えなのですがもう少し真面目に考えてみます。

まず脳が活性化します。さらには思考を繰り返すことで、思考の型が増えてきます。これは思考の量が増えることの意義なのですが、それ以外にも明確な意義があると思います。それは重要なインプットのスクリーニングです。

インプットを先行させると、思考の幅がどうしても狭まってしまいます。したがって、思考を先行させて、どういうインプットが必要なのか炙り出します。そうすることで、より重要性の高いインプットをピンポイントで得ることが可能になります。

思考の幅が狭くなると、そのループから抜け出すのは思いの外簡単ではありません。与えられたインプットが一定のロジックやストーリーを内包してしまっている場合は尚更です。他の誰かが結構頑張って考えたものだったりすると、それを超える思考を手に入れることは容易ではありません。

なので、私は「思考」を最優先します。このプロセスを経ることで、思考力がつくだけではなく、最終的に得た結論も、その思考のジャーニーを自分なりにたどることで本当の血肉にすることができます。加えて、新しいアングルや視点を発見できる可能性も高まると思います。

アウトプットからインプットを得て思考のループを回す

「思考」を重視する意味はアウトプットとの関係性にも現れます。ちなみに、アウトプットが重要ではないはいっていません。あくまでも「思考」>アウトプット>インプットだといっているのです。

アウトプットをする意味は、もちろんその内容を具体的に整理する、つまりロジックや思考の整理に役立つ点が一般的に挙げられます。確かに、この点は重要なメリットではあります。一方、「思考」を重視している場合は、その効果は相対的には低減する傾向があります。つまり考え尽くされているため、個人レベルのアウトプットだけでは追加的な整理(&気づき)の余地は限定的だということです。

それよりも私が重視しているのは、アウトプットすることによる他者からのフィードバックの価値です。整理されたアウトプットは、論点が明確で他者にとっても頭に入りやすいものです。より高い精度のアウトプットであればあるほど良いフィードバックが得られる可能性が高まります。また、専門外の方からのフィードバックを得られる機会も増大するでしょう。なぜならば、論点が明確で誰にとっても理解がしやすいからです。多様な方々からのフィードバックを得られる意義はとてつもなく大きいです。フィードバックのダイバーシティを保つには、接続する顧客獲得のダイバーシティの有無が極めて重要だと考えています。また、高い精度であればあるほど、専門性の高い方の目に触れる可能性も高くなり、価値の高いフィードバックを得られる機会は増大すると考えています。

この効果は、note, twitter, clubhouseといったSNSが普及した現在においては尚更です。外部に発信する意味は、単なる自己主張やPRという意味にとどまらず、具体的なメリットがあるということです。これはプロダクトをローンチして、ユーザーからのフィードバックを得ることで、さらにプロダクトを磨くヒントを得るのと似ています。

「思考」が重要なのは、このフィードバックというインプットを得て再度考え、付加価値を高めることができるからです。加えて、より良いフィードバックを得るために、しっかりと高精度のアウトプットが出せるよう「思考」を深めておくことも重要です。

これによりインプット>「思考」>アウトプット>インプット>「思考」・・・という無限ループが完成します。これをできる限り高速に回転させることで、より深い洞察を得ることができるようになるでしょう。

思考力を育てる教育

私は教育に大きな課題と可能性を感じている1人です。ただ、教育の専門家ではありません。それをご理解いただいた上で、教育について少しコメントしてみたいと思います。

日本の教育はよく「詰め込み」だと言われてきました。今回のnoteでいうところのインプットを極めて重視したものです。繰り返しですが、私はインプットが重要ではないと言いたいのではないのです。インプットを重視するあまり、「思考力」が育たないのがもったいないのではないかという風に思うのです。日本のテストはインプットを正しくアウトプットできるかをみています。確かに、短期的に知識を深め、視野を広げる上では大事です。

私は思うのは以下の二点です。

1)大人になって活かせる能力は「思考力」である。子供の頃から磨いておかないとなかなか短期的に磨くのが難しい。一方で、インプットは大人になってからでも十分補強できる

2)インプットは正確性もよりも、視野を広げる点を重視すべき。視野が狭くなると思考の幅が狭くなり、知識の広がりも自ずと狭くなってしまう

このような「思考」を重視した教育は海外ではより積極的に取り入れられています。これは上記のような背景があるからだと私なりに解釈しています。

アウトプットから学ぶ教育

もう一点、教育について触れてみたいと思います。アウトプットから学ぶ教育です。

海外でよくディベートが重視されますが、これもアウトプットを重視しているからだと思います。プレゼンテーションスキルやディベートスキルを磨くことに主眼があると解釈されていることが多いようにも見受けます。それも確かに一理あるのですが、それだけでしょうか。上記で触れたように私は、アウトプットすることで思考にフィードバックがかかることが最も重要だと思います。果たして、インプットを重視した状態でやみくもにアウトプットを重視するだけでうまくいくでしょうか。私はそうは思いません。

あくまでも「思考力」がしっかり育っていることが大事だと思います。「思考」が不在でインプットに偏重した状態でアウトプットをいくらしても、それは単なる記憶力ゲームやプレゼンテーションに過ぎません。

最後に

ここまで読んでいただきありがとうございました。今回のnoteは、Clubhouseで「なぜTAKAさんは常識を疑い、問う力が高く、新しい視点を持てるのですか?」と聞かれたことがきっかけです。自分自身、本当に自分がそうなのか確信はありません。ただ、もし人よりも少しその傾向が強いのだとしたら、今回noteしたように子供の頃から「思考」、つまり考えることを重視してきたからではないかと思いました。

私自身の経験から得られた感覚をあえて言語化してみました。自分自身の時間の使い方に悩んでいる人、勉強法に限界を感じている人、より幅広い視野を得たい人、教育を改革したい人、それぞれ少しでも役に立つ視点を提供できたのなら幸いです。

また私自身の思考を深めるためには、ダイバーシティ、すなわち異なる価値観や専門性を持った方々との交わりが極めて重要だと考えています。私の専門性はnote等に記載している通りですが、異なるバックグラウンドの方々との議論はどんどんしていければと思います。

追伸)
今回の写真はかぼちゃです。正直特に意味はありません(笑)

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