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5月の青いバラ

TOTOは不機嫌な男です。

いつもへの字に口を曲げ、ブルドッグのように頰をたるませている男です。まるで彫り込んだような頑固さでへの字に引き結ばれた唇は、いざ開かれたとなれば陰鬱に罵詈雑言の限りを尽くします。
スーパーで卵が高値になると、むっすりとした調子で「ここはぼったくりのひどい店だ」と罵ります。セールで安売りになると、「薄利多売で儲けようとするいやらしい店だ」と罵ります。その中間の値段になると、「不味い」と罵ります。だいたいいつでもそんな調子です。

そんなTOTOが輪をかけて陰鬱になるのは5月です。
5月は街に陰鬱の虫に取り憑かれた人が増えるのです。TOTOは一年中ずっと不機嫌な男なのですが、5月にはそんな街の空気につられてさらにさらに唇を引き結びます。
だから今日もひどいブルドッグ顔で、背中を丸めて歩いていました。

TOTOは年金暮らしで、今は働かずに生活しています。
若い頃にさんざっぱら働いたおかげで、年金だけで食べていけるのです。
けれど決して贅沢はしません。TOTOには自分以外に頼れる人間がいないので、病気や怪我や老後に備えて──もう既に年寄りといえばそうなのですが──貯金を怠らないのです。

唯一の趣味といえば、新聞のクロスワードパズルを解くことです。
けれどそれも楽しくてやっているわけではありません。それが習慣になっているからやるのです。TOTOにとって習慣とは、すなわち義務のことです。毎日果たさねばならないノルマです。
だから今日もノルマを果たすべく、新聞を片手に近所のカッフェーへ向かいます。パズルを解くのはそのカッフェーでと、そう決まっているのです。

けれど今日、いつものカッフェーは閉まっていました。

カッフェーの扉には張り紙があります。

まことに勝手ながら、今月から月曜定休といたします

今日は月曜でした。

「なんと勝手な!」

TOTOは歯軋りして罵ります。毎日、朝の8時にこのカッフェーのモーニングセットを食べるのがTOTOの習慣です。朝の8時にこのカッフェーで、ミルクと、バターとマーマレードを塗ったトースト2枚、エッグスタンドに乗った半熟ゆで卵、カリカリに焼いたベーコン、くし切りにしたトマトとレタスとサニーレタスのサラダを胃袋に収め、最後に角砂糖をふたつ落とした紅茶を飲みながらクロスワードパズルを解くのが義務なのです。
これではノルマが果たせません。
TOTOにとって、それはひどく理不尽な暴力でした。

「××××…××××××××…!!

TOTOは呪詛を吐くように、陰湿な言葉で罵りました。
しかしどんなに罵ったところで、カッフェーの扉は閉ざされたまま。

そういうわけで、今日のTOTOはそれはそれはひどいブルドッグ顔で、背中を丸めに丸めて歩いていました。

朝食を食べねばなりません。そして朝食は8時でなければいけません。
しかし、TOTOはそのカッフェー以外で、朝の8時にバターとマーマレードのトーストを提供している店を知りません。いらいらと街をさまよいながら、
「あの店は10時まで開かない」「この店はバタートーストしかない」
と毒づきます。
何もかも気に入らないまま歩き疲れたTOTOは、公園のベンチに腰を下ろしました。
握りしめていた新聞はぐしゃぐしゃです。
朝の公園には誰もいません。薄汚い灰色の鳩がみっともなく首を振っているだけです。風が吹き、何羽かの鳩がはばたいて、公園に備え付けのトイレの屋根へ留まりました。

それを見て、TOTOは反射的に尿意を催しました。そして忌々しく舌打ち。
ベンチから立ち上がり、トイレへ入りました。


そのトイレは、暗く、じめじめとしていて、黴くさいところでした。
鈍く冷たく光るタイルはところどころひび割れていて、壁と床の境目には黒っぽい水垢がこびりついています。
もう一度舌打ち。ろくでもない場所です。
何より気に入らないのは、便器と壁の間が空きすぎているところです。
便器は古びた陶器製の腰掛式。つまり男女両用で大小用。
であるならば当然、便座に座った状態で、壁に設置したトイレットペーパーホルダーに手が届く程度には狭くあるべきです。けれどこのトイレは不必要に広すぎる。座った状態で手を伸ばして壁に届くようにはできていません。
TOTOはこういう非合理なものが大嫌いです。
きっと設計ミスなのでしょう。壁にはかつてトイレットペーパーホルダーが設置してあったとおぼしき跡が残っておりますが、肝心の紙はどこにもありません。公園の公衆トイレだというのに!

××××××××

TOTOは顔も知らない設計者を罵り、さっさと立ち去ってしまおう、と新聞を小脇に抱え小便を済ませました。用を足してしまえばこんなところに用はない。
そうして水を流そうと身をかがめ、便器の後方に設置してあるレバーに手をのばした時です。

ぽちゃ──────────ん、

といやに涼やかな水音がしました。

まだレバーを引いていないのに、はてな。
とTOTOは便器の中を覗き込みます。すると、水の中で何かのゆらめき。

それを認識した次の瞬間、螺旋を描くようにその"何か"が立ち昇ります。

TOTOは驚いて二、三歩下がり、口をあんぐりと開けて"それ"を見上げました。

それは、


それは青いバラでした。

TOTOの背丈をゆうに超えた、それは大きな青いバラでした。


TOTOは非合理なものがきらいです。
どうしてそうなったのか、理解できないものを見るといらいらむかむかして仕方がありません。
けれどこれは、なぜこんな広いトイレを作ってしまったのか…などというのとは次元の違う非合理さです。
あまりにも意味がわからなすぎて、唖然とするしかありません。

それは美しいバラでした。
みずみずしく渦を巻く、しっとりとやわらかに折り重なった花弁のつぼみが、ほどけるようにふぅわりと開くそのさまをTOTOは確かに見ました。
少しうねった茎へならぶ棘はふしぎとやわらかそうで、のびやかに続く葉っぱはかわいらしくて。
薄暗く湿った部屋の中で、それは厳かに、輝いてさえいるようで。

それは青いバラでした。


さてどれくらいの間、バラはそこへ在ったのでしょうか。

立ち昇るように現れたそれは、融けるように宙空へ消えました。
ちょうど、水の中に落とした絵の具がふっと拡がって透明に融けてしまうのとおなじ風情で。
融ける直前のその瞬間こそ鮮やかな青色を閃かせ、それは消えてなくなってしまったのです。

「……………………」

あとにはゴボボボボ、という水音とともに汚水を洗い流す便器だけが残されていました。レバーを引いた記憶はありません。しかしたしかにそこへ水は流れ、やがて吸い込まれて静かになりました。

「……………………」

茫然自失で退室し、おぼつかない足取りのままどさりとベンチへ崩れ落ち、間の抜けた鳩のクルッポゥ、という鳴き声を聴いてようやくTOTOの頭に「白昼夢」という言葉が浮かびました。

白昼夢。

そう、きっとあそこでどこぞの阿呆がおかしな煙でも吸ったのだ。
自分はその残り香にあてられて、幻覚を視たのだろう。

決して納得できたわけではありませんが、そう結論づけるよりほかに方針がみつからず、TOTOは長く息を吐きました。

ぐぅ、と腹の虫が鳴きます。

そこでようやく、ああ自分は朝食を摂ろうとしていたのだと思い出します。
朝の8時に、バターとマーマレードの…

そう胸中でひとりごちたのをまるで見計らったかのように、噴水の向こう側から香ばしいかおりが漂ってきました。
視線を投げると、それはベーグルのワゴン車です。
ぐぅ。もう一度、催促するように腹が鳴りました。

TOTOは重たい体を持ち上げて噴水の向こうへ足を向け、ふと思い直しそばの水飲み場で軽く手を洗ってから、ベーグルサンドを買いました。
手の中にはBLT、クリームチーズとブルーベリーのベーグルサンドがひとつずつと、紅茶のカップがひとつ。
パリッと硬い皮にかぶりつけば、やわらかな甘みが口腔へ滲みます。

クルッポゥ、クルッポゥ。

鳩の声を聴くともなしに聴いているうち、そうだノルマを果たさなければということに思い至ります。
いつも通り、ペンはポケットに入っている。ぐしゃぐしゃだけれど新聞も脇に。

9時を少し過ぎた陽射しは、いつもより眩しい。



このお話は、2011年作の連作イラストのうちのひとつ
「5月の青いバラ」にあらためて物語を添えたものです。

サポートしていただいた売り上げはイラストレーターとしての活動資金や、ちょっとおいしいごはんを食べたり映画を見たり、何かしら創作活動の糧とさせていただきます。いつも本当にありがとうございます!!