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インストラクターとしての市場価値を受け入れた時にキャリアが変わった

みなさんこんにちは、工藤です。

私は20代から30代半ばまで、フィットネスクラブのインストラクター職を続けていました。正確には、プレイングマネージャーの時期が長く、メインとしてマネジメント業務を担当し、現場業務も兼任していました。

本日は、私がフィットネスクラブのプレイングマネージャーを起点に、新しいキャリアに進みはじめた頃のお話をさせていただきます。

 

🥚インストラクターの裏舞台

フィットネスクラブのインストラクターは、運動するマシンがあるエリアや、スタジオと呼ばれる運動スペース、プールなどを中心に、運動をはじめとした健康に携わる指導・サポートを行う仕事をしています。

特にスタジオレッスンと呼ばれる業務は直接的に身体を使って「魅せる」要素が必要で、私が担当していたものは激しい動作内容ばかりでした。

例えば、音楽に合わせた筋力トレーニングのレッスンでは、インストラクターに対してバーベルの重りを競ってくるような参加者もいます。こちらは内心きついな…と思いながらも、参加者より重量を重くして、平然とした顔をしながらレッスンをするわけです。

格闘技の動きを模倣したレッスンも同じで、平然と激しい動作を繰り返すのですが、インストラクターもコンディションが万全な時ばかりではありません。筋肉や関節に痛みがあってもスケジュール通り続けることはもちろん、普段の自分とは違う(私の場合は)ハイテンションなキャラクターをいつでも演じる必要があります。

更に、年齢を重ねると身体の疲労回復が年々遅くなります。

私は30代になってから、スタジオインストラクターの仕事は好きだけれど、今のまま同じ道を進むことはできないと感じるようになっていきました。質は違えど、スポーツ選手が引退を考えるのと同じような心境だったと思います。

  

🥚相談できる相手がいない

そんなことを考えてはみたものの、同じフィットネスクラブの中に、インストラクターの先にあるキャリアを考えている人はほとんどいませんでした。

それどころか、他のキャリアについて触れることはタブーとされていたような雰囲気さえありました。

生涯ずっと続けないことは専門職への裏切り。

なぜかそのように捉えられてしまうのです。

相談できる相手もいないため、私は非常に困っていました。

 

そんな日々が続いていた頃、

①車に轢かれて、

②所属クラブが売られ、

③無職になりました。

 

30代半ばで野に放たれるとわかります。

ああ、年を取ったのだな、と。

就活の手応えで、特にスタジオインストラクターとしての魅力は、市場価値を失っていることを痛感します。

まるで所属チームを失ったスポーツ選手のようです。

自分はまだやれる・・・

そう思いつつも、市場に求められていない現実も受け入れなければなりません。

 

🥚無職の予習ができて良かった

しかし結果的に、強制的にインストラクター業務が中断されたことは、いつか同じことがやってくる時の予行演習になりました。

遅かれ早かれ、加齢に伴い似たような状況にはなっていたと思います。

私が40代で同じ状況になっていたら、選択肢は残っていなかったかもしれません。フィットネスクラブの職務に偏りすぎた経験値しか持っていなかったからです。

まだ余力が残っているうちに、自分のキャリアと向き合うことができたことは不幸中の幸いでした。

 

馬車馬のように身を粉にして働いていても、終わる時は一瞬なんだな。

いつの間にか自分も年を取っていたんだな。

自分はこの先どうやって食べていけば良いのだろうか。

 

そんなことを30代で考えたことは、今に活きています。

 

そして、私が職を失った次のステップは、東京で得たものをすべて捨てて、沖縄で新規事業を立ち上げることでした。

異業種・異職種へのチャレンジ。

周りでは、ポジティブ・ネガティブ、様々な意見が飛び交いました。

どれも正しいような気もするし、腹落ちしない気もする。

選択した時点では答えなんて分かりませんでした。

 

本日は長くなりましたのでその話はまた別の機会に。

つたない文章をお読みいただきありがとうございます。

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