【小説】なれるよ(3)
前回:【小説】なれるよ(2)
「でさー、レッツ滝行の福森がグラドルの砂田ひかりを口説いたらしいんだよ。確かに砂田はおっぱいもでかいし、いい女だとは思うけど、そこいくかって感じだよねー」
祐二の、どうでもいいとしか思えない話に、洋一は曖昧に頷いた。心底、興味がなかった。テレビが疎かに光っている。映っているのは、量産型のトークバラエティ。ひな壇から太ったワイシャツの芸人が、ガヤを飛ばしている。
食器を洗おう。洋一はそう思い立ち、椅子から立ち上がってキッチンへと向かう。暖房はキッチンに届くころには弱まっていて、やや寒気がした。祐二はというと、胡坐をかきながら床に座って、楽しそうに喋り続けている。
「ていうか、兄ちゃんレタキ知ってる?去年、Mー1で準決勝まで行ってたんだけど。敗者復活戦は惜しかったよなあ。来年はきっと来ると思うから注目しといた方がいいよ」
「お前、どこからそういう情報仕入れてるんだ?まさか一日中、動画見てたんじゃないだろうな」
キッチンから声を投げかける。オレンジ色の洗剤は、泡になると跡形もなく白くなる。
「だって、他にすることないんだもん」
祐二は、あけすけにそう言った。何の感情も含まれていないその台詞に、洋一は体の力が抜ける思いがした。食器の水を切ってトレーに置く。プラスチックに水がポツリと落ちた。
「なあ、お前いつまでここにいるつもりだよ。大学を出てからもう二年も経つじゃないか。周りはしっかり働いてるのに、お前は一日中動画ばっかり見て」
テーブルの上のリモコンを手に取り、テレビを消す。押し黙った部屋は、空気の流れも鈍い。
「何?俺が邪魔だっていうの?」
祐二がこちらを睨みつけた。瞼が垂れているので、迫力はあまりない。洋一は、怯むはずもなく続ける。
「あのな、邪魔ってわけじゃないけど、そろそろ働いてもらわないと困るんだよ。俺も今の仕事、まだ二年目だし、そんなに手取り多いわけじゃないから。母さんから月三万仕送りを貰ってるとはいえ、なかなかに厳しいんだからな」
「しょうがないじゃん、まだやりたいことが見つからないんだからさ。俺はやるときはやる男なの。兄ちゃんも知ってるでしょ。今はやりたいことを探している段階。充電期間だよ」
洋一は、内心呆れた。いくら充電していても、放電しなければ意味がない。こういうことを悪びれもせずに言えるのが、祐二が祐二である理由だった。
「じゃあ、お前いつも動画見てんだから、Youtuberになればいいじゃん。動画さえアップしていれば、好きな時間に起きれるし、好きな時間に寝れるだろ。それで広告収入も入ってくるし、いいこと尽くめじゃないか」
「うーん、Youtuberはパス。だって、機材買うのにお金かかるし、編集も時間かかるし。それに毎日コツコツ上げなきゃいけないでしょ。正直、面倒くさいんだよね。広告も一万再生とかでやっとお金になるみたいだし。俺は、見るだけでいいよ」
もうこの話はしたくないと、祐二は立ち上がり、再びテレビのリモコンに手を伸ばす。嫌いな食べ物を最後に残す小学生みたいに、苦い顔をしながら。テレビの画面には、天気予報が流れている。明日は午後から雨が降るらしい。もっとも弟にはあまり関係がないけれど。洋一はひそかに毒づいた。
当てこすりのように、漫画がぎっしり詰まった、カラーボックスに近づく。その上は郵便の一時保管所になっていて、クリアケースに封筒が手前から整列していた。今日届いた郵便物の中から、洋一は茶封筒を一通取り出した。開封しないまま、祐二に渡す。
「え、何この封筒?」
「母さんからの郵便。見りゃ分かんだろ」
茶封筒には華奢な字で、アパートの住所と「仲島祐二様」と宛名が書かれていた。もちろん裏に描かれているのは実家の住所だ。電車で二駅しか離れていない実家の。それを目にし
て、祐二の口角は下がった。不満を隠そうともしていない。
「えー、また母ちゃんからー。もうなんだか分かるよ」
祐二が洋一の方を向いたが、洋一は目線を合わせるだけで、口を閉ざす。
「分かったよ。開ければいいんでしょ。開ければ」
糊付けされた先端を、祐二が爪を立てて剥がす。中から三重に折られた白い紙が顔を覗かせた。
「ほら、やっぱり求人票だよ。俺、こんなデスクワークの仕事興味ないっつうのによー。しかも契約社員で、給料十四万くらいじゃん。こんな薄給じゃやってらんねえよ」
「俺の給料もあまり変わらないけどな」
「あ、ごめん」
テレビはいつの間にかドラマを放送していた。俳優がぎこちなく笑う。暗い夜のシーンだった。
「とにかく、母さんはお前を心配して、こうして送ってくれてるんだ。そろそろ仕事に就いたらどうかって、気が気じゃないんだよ」
「いや、それは分かるんだけど、やりたくない仕事を、無理してまでやりたいとは思わないんだよなー。給料も二十万くらいは欲しいし」
「いきなりそんなに貰えるわけないだろ。もう二十五だろ。ちゃんと考えろ。いいか、お前は母さんだけじゃなくて、父さんにも心配かけてるんだぞ。父さんだってお前のことを……」
「アイツは関係ないだろ!」
語気を強めたのは、祐二だった。余計なことを思い出させやがって。吐き捨てるかのように、続ける。時計の針の音が、テレビの音よりも大きく聞こえた。
「アイツは俺が何かしたいというたび、『勝手にしろ』としか言わなかったんだぜ。大学に合格したときも何もくれなかったし。そういえば兄ちゃんは、ノートパソコンを買ってもらってたよな。アイツが可愛がってたのは、兄ちゃんだけじゃないかよ。アイツは俺なんて、どうだっていいんだよ。まあ俺もアイツのことは親とは思ってないけどな」
洋一は、返す言葉を見つけることができなかった。父親が自分を偏愛しているのは、自分でも強く感じていた。褒められる自分に向けられる祐二の視線は、いつだって痛かったことを思い出す。褒められたくなくて、わざとテストの点数を落としたりもした。
もっとも、父親はかえって自分を心配するだけで、あまり効果はなかったが。
意識の外で、ドアが閉まる音がした。祐二は自らの部屋に戻ってしまった。テレビから流れる陽気なCMも、今の洋一の耳には届いていなかった。無音の部屋。
本棚の上のテディベアの黒い瞳に、自分の姿が映っていることに洋一は気づいた。青と黒のチェックが、不気味に歪んでいた。
*
例えば、大手企業に就職して、収入は高い水準で安定。残業代も満額支給され、有給休暇も積極的に取得するように勧められる。家に帰れば、妻と子供が待っていてくれて、ありふれた食卓を囲む。もちろん土日は休みで、家族で遊園地にでも動物園でもどこにでも出かけられる。
ささやか過ぎて、自分たちが幸せであることにすら気づいていない。そんな男。
俺とそいつでは、一体何が違うというのだろう。人生は電車だ。引かれた線路の上を走る。いくら車体を揺らしても、線路を脱することはできない。俺とそいつでは、元々は同じ線路を走っていたはずだ。
しかし、分岐器により道が違った。そいつは幸福へと進み、俺は不幸へと進んだ。電車に手はない。分岐器を操作したのは、俺たちが干渉できない存在だった。それは、親をはじめとした他人だったり、単純な経済力だったり、関心の持てない政治だったりした。俺の顔も見ずに平気な顔で、分岐器のスイッチを押していた。
つまりは、俺はこんなハローワークに来るような人間ではないということだ。照明は薄暗く、観葉植物は萎れ、水色のソファは年季が入った公園の遊具みたいにくすんでいた。行く人の顔は暗かったり、焦っていたりいずれにしてもいいものではない。先の見えない将来への不安が蔓延っていて、就職への気力を削ぐには、お誂え向きの環境のように思えた。
だが、雇用保険が終わるまで、もう一か月を切ってしまっている。試算してみると、想像以上に自分が危機的状況に陥っていることに気づいた。親は、俺を大学にも行かせられないぐらいだったので、期待はできない。結局、仕方なくハローワークに来て、促されるままにソファに座っている。
本来、俺はもっとできる人間のはずだ。今も座るべきはこんな固いソファではなく、オフィスチェアーの柔らかいクッションのはずなのだ。経営陣の判断という見えない手が、分岐器を操作し俺をここへ来させた。今の線路は、俺の能力に見合っているとは言い難かった。それでも、電車は線路の上を走ることしかできない。
面談は二分で終わってしまった。やりたい仕事は特にないと言ったら、ブローチをした女性の職員は顔をしかめた。俺には大体の仕事をこなせる自信があった。求人票は見ましたかと聞かれたので、見ていないと答えたら、まずは求人票に目を通してどんな仕事に就きたいのか大体の方向性を固めてきてくださいと言われ、そこで面談は終了した。
やる気のない態度にいら立ったが、向こうも進んでこの仕事をしているわけでもないと思うと、少し気が紛れた。
一応、言われた通りに求人票が収められたファイルを捲ると、これでもかと正社員の求人が目に飛び込んできた。給料も軽く二十万円を超えている。契約社員で月十三万という給料は、俺には安すぎると感じていたから、その数字は夢のようだった。これだけ人手不足の世の中だ。すぐ働き口は見つかるだろう。
そう思うと、薄暗かった照明がルクスを上げたように感じた。ようやく正当な評価をされるであろうということが、心のもやを晴らしていた。たとえ、何一つ決まっていなかったとしても。
続く
次回:【小説】なれるよ(4)
※このnoteは、以前投稿させていただいた自作小説『今日の可哀想は美味しいか?』を改題し、大幅に加筆修正を施したものです。
また、第二十九回文学フリマ東京で頒布した同名小説を、そのまま全文無料公開したものでもあります。
なお、全十回予定です。
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