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【小説】なれるよ(2)

 

前回:【小説】なれるよ(1)



 窓の外はすっかり明るくなってきたようだ。車の往来も増えてきている。だが、俺の下に日光が差し込むことはない。カーテンは閉め切っているし、そもそも俺の部屋は北向きだった。案内されたときに、他の部屋よりも家賃が二千円ほど安かったので、つい食いついてしまったが、実際、暮らしてみると、想像以上に気分が滅入る。

日光を浴びないということが、人体にこれほどの悪影響を及ぼすなんて。まったく新たな発見だった。二本の足で立っていても、人間はやはり動物なのだ。

 起きてすぐに、歯を磨くよりも煙草を探す。床も机も物が散乱していて、フローリングが見える箇所の方が少ないくらいだ。雑誌が、丸められたティッシュが、転がっている。レジ袋が、検針票が、伏せっている。それでも、煙草とライターは机の一番上に置いてあったので、簡単に見つけられることができた。

煙草に陰毛が一本かかっていて、自分のものながら汚いと、手で振り払う。陰毛はどこにでも現れる。まるで天井から降り注ぐかのように。イメージすると吐き気がした。

 ベランダに出て、煙草を口にくわえる。火をつけると、口元が潤い、やがて全身が蕩けるような煙で満たされていく。吐き出した煙は、まだ寒いことも相まって白い。

起き抜けに吸う一本は、一日の中でも一番美味い一本だと、父親は言っていた。あのときの言葉の意味が今は分かる。この煙草は俺にとって、朝の日差しの代わりだ。胸がすくほど爽快で、これほど気持ちいものは無いと断言できる。見上げると空は雲一つない快晴で、憎たらしく感じるところだが、今はそんな気分にはならなかった。これも朝の一服がなせる業だろう。


 二本吸ったところで、煙草はもうなくなってしまった。まだ吸いたい気分だったので、外に買いに出かける。サンダルは季節外れだが、少しの外出なら問題ない。コンビニや煙草屋はダメだ。人と話す必要がある。しかも、そいつらは店員という仕事をしている。うっかり会ってしまうと、解れ始めたスウェットを着た俺が、惨めたらしく感じてしまう。

その点、自動販売機はいい。金を入れれば、何も言わずに煙草を出してくれるからだ。ゴトンと煙草が落ちる音が、俺には祝福の鐘の音のように聞こえる。

 煙草を手にしながら、上機嫌でアパートに戻り、郵便受けを確認した。しばらく放っておかれている年金通知書や、再配達の申し込みに交じって、区から一通の郵便が届いていた。そろそろ来る頃だと思っていたそれを、俺は気まぐれに家に持ち帰った。

無造作に封筒を破くと、書類には「雇用保険給付のお知らせ」と書いてあった。支給額は十万円。家賃に多くを取られてしまうが、寝て食べて起きているだけで、金が貰えるのだから楽なものだ。あと二ヶ月で切れると分かっていても、ハローワークに行く気にはなれなかった。貯金もまだ三十万円ほどある。今年中はこのままの生活を続けられそうだった。

 封筒を机に置き、適当に解凍した冷凍食品と、パックの白米で簡単な朝食を済ませる。皿を置くためのスペースを確保しようと、机の上の書類をどけると、床に落ちて、部屋はまた汚くなった。テレビはない。先月売り払ってしまったけれど、二万円にしかならなかった。

静かな部屋は、今の俺にうってつけだ。そう強がることで、平静を保とうとしていたのは、既に自分でも深く理解していた。






 

「おはようございます」

『おはようございます』

 洋一の会社では、出社したときに入り口で立ち止まって挨拶をすることが通例となっている。この日も微妙に揃わない挨拶が、洋一を迎えた。複数の声が洋一ではなく、コンピューターに向いていると分かっていても、洋一は安堵を感じていた。

当たり前のように、出社できる場所があるありがたみは、祐二と一緒に暮らしていると感じざるを得ない。ブラインドからかすかに日光が差す。

 洋一が席に着くと、隣席の小金井が話しかけてきた。名字に「小」がついているのに、体はやたらと大きい。

「おう、仲島、おはよう。昨日残業大変だったろ?どれくらいまでやってた?」

「大体九時ぐらいまでだな。リストを作るのが主だったけど、思ってたよりは早く終わった」

「なら、よかったじゃねぇか。月末で大変なときにそのくらいで済んで。まだ山越えたわけじゃないけど、一段落したら、飲みに行こうぜ」

「そうだな。でも、よく行く駅前の居酒屋はちょっといいや。それより新しいところを発掘してぇ」

「おう、じゃあ調べとくわ」

「本当に大丈夫か?この前、お前が見つけてきた店あまり美味くなかったじゃねぇか」

「今度は任せとけって。安くて美味い店見つけてきてやるよ」

 仕事前にするべきではない話題で、笑い合う二人。小金井の笑い方は、雨に喜ぶ蛙のようで、それが洋一にはなおさら可笑しかった。だが、その談笑は、極めて冷静な言葉によって遮られる。

「おい、仲島。ちょっとこっち来い」

 窓に背を向ける席から、宮本正好の低い声がした。洋一は、やおら立ち上がり、髪を触りながら、宮本の席へと向かう。目の前に座っている宮本は、ネクタイがきつく締められていて、ひりついた雰囲気を感じる。

洋一がやや背を屈めながら、どうしましたか、と尋ねると、宮本は眉を少し上げ、紙の右下を指差した。

「お前が昨日出した見積だけど、ここの数字が違ってるぞ。これだと桁が一つ少ないんだ」
 
確かに、取引先から提示された額とは乖離していた。昨日、退社間際に慌てて仕上げたのが、いけなかったのか。洋一は回顧したが、自分に原因があるようには、どうしても思えなかった。

「とりあえず、直した見積を午前中に出す。そうすればまだ間に合うから。新規の案件もあるだろうけど、一番に手をつけてくれよ」

 急なアクシデントに、洋一はため息をついた。上司の前であるから、深くなり過ぎないように極めて慎重に。目線を戻すと、眼鏡の奥に光る宮本の目は笑ってはいなかった。

「はい、分かりました。早めに終わらせます」

 洋一は、明るい返事を取り繕った。ゆっくりと席に戻る途中、ストライプのネクタイをした同僚が目を細めながら、こちらを横目で見ていた。視線を向けると彼は顔を背けて、マグカップを持ち、自分の席に戻っていった。それは、ミスをした洋一を心配しているのか、それとも蔑んでいるのかを判断するのに、十分な時間を与えない。

 ただ、そんなことを気にしても意味がない。仕事が滞るだけだ。洋一は何も言わず、昨日と同じようにコンピューターの電源を入れる。青と水色のグラデーションに、曲線が波打つログイン画面。パスワードを入力して、一日は再起動される。

神経を使う営業先との打ち合わせがあることを思い出し、洋一は少し肩を落とした。だが、コンピューターはそんな洋一を気にかけることもなく、高原が描かれたスタート画面を、実に整然と表示していた。




 祐二が朝食を食べた後、布団で横になり、SNSを見ていたら、いつの間にか四時間が過ぎていた。昨日の酒が抜けきっておらず、途中で眠っていたらしい。それでも、寝たことで頭痛は引いていて、祐二はスムーズに起き上がることができた。これで、今日もまた酒を入れることができるだろう。冷蔵庫には、まだ一本ビールがストックされている。

 自分の中の薄く広がる空腹に、祐二は布団から起き出した。キッチンに行くと、棚の中に六枚二百円の食パンがあったので、二枚だけ抜き取って食べた。昨日、兄が買ってきたばかりとあって、まだ毛布のように柔らかい。

一段下の棚にはポテトチップスの袋がしまわれていた。一昨日、自分で買ったそれを祐二は、部屋に持ち帰る。包装にプリントされた高原は、すっきりと晴れていた。

 ポテトチップスをつまみ、べとついた手でスマートフォンを触ると、カバーにも油が付着して、良い心地はしないが、そんなことは祐二には関係がなかった。今の彼にとって大事なのは、スマートフォンの中の映像だけ。イヤフォンもせずに、単純で軽薄な声が部屋を駆け巡る。隣は空室だし、この時間帯ならとやかく言われることはない。

『どうも、こんにちは!スパイシーマンタカミです!今回も動画をご覧になってくださって、ありがとうございます!今回いただくのはこちら!いなだ食品さんの〝灼熱のレッドカレー極辛口〟です!』

 赤く塗りつぶされて、黄色く縁取られた文字が画面に大げさに表示され、安いファンファーレが鳴った。どれだけチープな演出でも、祐二を笑わせるに足るものだった。

『さて、こちらの〝灼熱のレッドカレー極辛口〟の特徴は、何といってもこの赤い色!レッドチリパウダーを通常の辛口よりも三十%増量しただけでなく、鷹の爪、ハバネロ、バーズアイなど世界の唐辛子をブレンドさせた、まさにワールドワイドな一品となっています!まるで、マグマがぐつぐつと燃えたぎっているようですね!では、いよいよいただいてみたいと思います!いただきます!うん、あっ、でもこれはそんなに辛くないかな……』

 平然とした顔で、口を動かしているYoutuber。しかし、次の瞬間、画面にはエクスクラメーションマークが三つ表示され、Youtuberは手で口を押さえてのけぞり、「辛い辛い辛い」などと言って、大きく頭を振って悶絶しだした。

その姿に、祐二は口を開けて笑った。まるで、動物園で他のサルにちょっかいを出すチンパンジーを見るかのように。

 街を歩いていても、スーツやつなぎを着ている人を目にするたびに、心がうずくように祐二は感じていた。自分だけが、地に足が着かず浮かんでいるのだと。だが、画面の中の奴はどうだろう。激辛が売りの食品を食べて、みっともない姿を晒している。

祐二は、彼の動画を見るのが好きだった。自分よりもみっともない奴がいると感じられるからだ。その度に自分はまだ大丈夫だと、改めて確認し一時の慰めを得る。祐二にとっては酒を飲んでいるときの次に、心が安らぐ時間だった。

 自分はこうはなりたくない。彼がYoutuberを続けるために、様々な犠牲を払い、その対価として何十万もの再生回数と、少なくない広告収入を獲得していると知っていても。必要としている人々がいると分かっていても、こんな形で必要とされたくはないと、祐二の頼りないプライドが告げていた。

人はそれを世間知らずの青さだと笑うだろうか。

だが、その虚栄心が祐二の精神的支柱となっていることは、紛れもない事実だった。



続く


次回:【小説】なれるよ(3)



※このnoteは、以前投稿させていただいた自作小説『今日の可哀想は美味しいか?』を改題し、大幅に加筆修正を施したものです。

また、第二十九回文学フリマ東京で頒布した同名小説を、そのまま全文無料公開したものでもあります。

なお、全十回予定です。

そして、紙の本も以下の通販サイトで販売していますので、こちらも合わせてお願いします。

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