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【小説】30-2(5)




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「そういえば、監督って今おいくつなんですか?」

 赤信号に止まると、後部座席に座った小野寺が尋ねてきた。バックミラー越しに見る目は、単なる好奇心で聞いているようだった。

 川里公園での撮影を終えた私たちは、レンタカーに乗っていた。次の撮影場所は、実家近くの団地の一室だ。歩いて行けるような距離ではなかったから、こうして車を借りて移動している。

 この辺りの道を知っているのは私だけなので、自ずとハンドルも私が握る。道は空いていて、しばらく車に乗っていない私でも、運転に支障はなかった。

「この前、二十八になりました」

「はぁー、お若いんですね」

 小野寺はただ素直に感情を言葉にしただけなのだろう。

 だけれど例によって、もう若くねぇよと否定したい自分が顔を出す。映像の世界には私よりも年下で、CMやMVを撮っている監督は何十人もいる。

 私は言い返したい気持ちをぐっと抑えて、曖昧に笑った。

「そういえば自己紹介の時、聞いてなかったですけど、小野寺さんたちはおいくつなんですか? 僕は今二十六なんですけど」と助手席に座る辺見が尋ねる。私は年齢の話はしたくないのに。

「僕はもうすぐ三十五になりますけど、まだギリギリ三十四です」

「私は三十三ですね。しっかり本厄です」

 二人は、私の想像よりも少しだけ年齢を重ねていた。見た目では三十より少し下くらいに見えたのだが。やはり俳優というのは若く見えるものだ。

「少し聞きたいんですけど、お二人とも三十になられたときってどんな心境でした? 嬉しかったですか? それとも焦りましたか?」

「焦るってどういうことですか?」

「いや、私もあと二年で三十になるのに、ほとんど何もしてないなと思いまして。平日の仕事もうまくいってるとは言えませんし、こうやって土日に映像を撮ってても、再生回数は伸びないですし。何者にもなれてないな、ヤバいなって思うんですよ」

 信号が青に変わって、私はアクセルを踏む。道路脇の斎場には、告別式の駐車場を知らせる看板が立っていた。

「まあ、何者にもなれてないって気持ちは分かりますけど、別にそんな大したことじゃないですよ。三十になるなんて」

「そうですか? 三十になったら周りの対応も違ってきません? なんか腫れ物に触るような」

「そんなことないですよ。二十代後半と三十代前半だと、見える景色は全く一緒ですからね。三十になったからって、急に世界が絶望的に見えたりはしませんよ」

 二人が私を励まそうとしているのは、痛いほど分かった。

 それでも、私はその言葉を額面通り受け取れない。二人と私は違う人間だ。

 車の中でよかった。視線を合わせなくても文句を言われないし、バックミラー越しに受け取る情報なんてたかが知れている。

「でも、やっぱり三十になるときって不安じゃありませんでした? 二十歳の頃に思い描いていた三十は、もう少し立派だったのになぁとか思いませんでした?」

「確かに僕も三十になってる頃は、もっと舞台とか映像とかガンガン出てると思ってましたから、そういう気持ちもなくはなかったです。まあでも、一応食いっぱぐれてはいないですし、コツコツと一つ一つの仕事を積み重ねられれば、それでいいのかなと」

「私は特に不安とかはありませんでしたね。私早生まれなんで、同い年の友達が先に三十を迎えてたんですよ。だから、誕生日のときには励ましてくれましたし。意外と何とかなるもんだよって。そう聞いていたので、私もまあなるようになるのかなと、自然と思うようになりましたね」

 話にならない。私は眉間に皴を寄せた。そうポジティブに考えられたら、こんなに苦悩していない。

 きっと言わないだけで、小野寺も森永もそれなりに悩んだのだろう。だけれど、言葉にしなかったら、その葛藤はないのと同じだ。志が低すぎると、馬鹿にしたくさえなる。

 だけれど、まだこの後も撮影は続くから、空気を悪くするわけにはいかなかった。

「そうなんですか。僕も少しだけですけど、三十になるのが楽しみになってきました。まああと二年もあるので、まだ全然先の話なんですけどね」

「いえいえ、油断してると二年なんてあっという間ですよ。それに交友関係っていうのは、年を重ねるごとに増えていくものですからね。二十代の頃だったら会えなかったであろう人に、会うのは楽しいですよ」

「私も三十になったら、色々できなくなるのかなと思ってましたけど、全然違いますよ。曲がりなりにも三十年生きてるんですから、色んな経験も蓄積されていって。ほら、RPGとかでもレベルが上がったら、新しい魔法を使えたりするじゃないですか。年を重ねるのもそれと同じですよ」

 前向きすぎる言葉に、私は小さく笑った。コミュニケーション能力がない私でも、それくらいの処世術は習得している。

 私には友達もいないし、今までの人生、傷つくことや失敗することを恐れて、あらゆることから逃げてきた。経験値が溜まっておらず、レベルなんて永遠に上がるはずがない。今できていることが、一つ一つできなくなっていくだけだ。

 辺見が話に乗っかって、気づけば三人は話しこんでいる。

 うざったい会社の同僚と違い、三人の声は心地よく、話にもどこか品があるように感じられた。



 翌週の土曜は叔母の三回忌だった。

 私は会社に行くのと同じスーツ姿で両親がやってくるのを、アパートの前で待っていた。間もなくやってくる両親。見慣れた車の後部座席が空いている。

 今は宇都宮で暮らしている弟は、まだ帰ってきていないのか、それでも家で寝ているのか。十一時からの法要に、間に合えばいいのだが。

 当たり障りのない話を少ししながら、二十分かけて車は実家に到着した。

 だけれど、実家がある通りの角を曲がった瞬間から、私は目を疑ってしまう。駐車スペースに、見慣れない車が停まっていたからだ。

 白いミニバンは、まだ新車なのか塗装にツヤがあり、後方には聞いたこともない英語のステッカーが貼られている。

 白と緑のナンバープレートは、その車が普通車であることを示していて、目眩がしそうになる。駐車スペースは二台なのに、今ここにある車は三台。

 どうしても私たちが今乗っている車を、道路脇に停めるしかない。

「あの車、何なんですか?」

 玄関に向かう間、私は前を歩く父親に尋ねた。父親は何てことないように答える。

「亮次(りょうじ)くんの車だってさ。ローンだけど買ったみたい」

 弟のものだという回答は、私の脳をしたたかに揺さぶった。

 別に今は車なんてほしくもないし、車を持つことがステータスになると言うつもりもないけれど、それでも胸には確かな敗北感が芽生えた。

 弟はSEをしているから、最低賃金程度の収入しかない私よりも、よっぽど稼いでいる。だから車を買えても不思議ではない。

 私は弟が一足飛びで大人になったように感じて、家に入る前から居心地の悪さを味わった。顔を合わせたくないと思ってしまう。

 しかし、弟はリビングにいて、私は荷物を置かなければならなかったから、嫌でも顔を合わせることになった。

 ソファに座ってスマートフォンを見ている弟が、話しかけてくる様子はない。私たちはもともとあまり仲が良くない。

 だけれど、私は何を思ったのか弟に話しかけていた。

「車、買ったんですか?」

「うん、買ったよ」

 素っ気ない返事でも、興味を向けてくれている以上、簡単に退くことはできなかった。

「いくらぐらいしたんですか?」

「二〇〇万。もちろんローンを組んだけど」

「それは凄いですね」

「ねぇ、兄ちゃんって車ほしいと思ったことないの?」

 顔を上げて聞いてくる弟に悪意はなさそうだ。

 しかし、新車の購入が現実的でない私には、嫌味にしか聞こえない。

 それでも、反発したい気持ちをぐっと抑える。弟は私よりも背が高くて、体格もよかった。

「雨の日はあったらいいなと思うことはありますけど、大体のことは自転車で間に合いますから。今はあまりほしいとは思わないですね」

 生返事をした弟は、私との会話が終わったと思ったのか、またスマートフォンに視線を落としていた。

 なんだこいつとは思わない。弟の方が収入もあるし、車も持っている。私よりも立派で価値のある人間だ。私ごときが何かを言うなんておこがましい。

 隣の和室から「宙市ー、そろそろ喪服着て行くよー」と母親の声がして、私はそっとリビングを出た。

 弟を見ないようにしていても、敗北感は無視できないほどに大きくなっていた。



(続く)


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