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【小説】消えゆく彼らの純真を、僕らはオワコンとせせら笑う(12)


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 翌日、スポーツ東美の記者全員が編集局に集合した。昨日、取材前に必ず本社に顔を出すようにとの連絡があったからだ。初めて顔を合わす記者もいた。ワンフロア丸々の大部屋が、いつもより狭く感じられる。

 大部屋窓際の中央に位置するのは、北方編集局長の机だ。いつも親会社の東美新聞社との往復を続けているから、あまり顔を見たことがない。いたとしても第一局に顔を出すことが大半で、俺は初日を除いて話しかけられたことすらない。あまり背は高くないが、窪んだ目に威厳があって、笑うと彫りが深い分、不気味にすら感じてしまう。

 その北方さんが、珍しく自分の机の前に立っていた。全員が固唾を飲んで見守る。北方さんの顔に笑顔はなかった。

「皆さん、今日はお集まりいただきありがとうございます。皆さんの精力的な取材のおかげで、スポーツ東美は刊行できています。編集局を代表して御礼申し上げます。いつもありがとうございます」

 北方さんは、形式的な礼から挨拶を始めた。ここまで心に響かない感謝は初めてだった。

「さて、今回皆さんにお集まりいただいたのは他でもありません。重大な東美新聞社からの伝達事項があるからです」

 親会社である東美新聞社から連絡が来るなんて、俺が入社してからは一度もなかったはずだ。聞きたいけれど、聞きたくない。背反した感情が俺の中に存在していた。

 少し溜めてから、北方さんはゆっくりと口を開く。

「単刀直入に申し上げます。スポーツ東美は、来年の三月で廃刊となることが決定しました」

 ざわめきは起こらなかった。誰もが、覚悟していたように感じられた。

「去年、発行部数が三〇万部を割り込み、決算も二年連続で赤字です。このまま刊行していくのは厳しいだろうと、先日決議を開いた結果、スポーツ東美は東美新聞社に吸収合併されることが決定しました。それに伴いスポーツ東美は廃刊となります。七〇年続いたスポーツ東美の歴史をこんな形で終わらせることになり、皆さんには誠に申し訳なく思っています」

 あまりの衝撃に呆気に取られて、声が出なかった。まだ一年目だというのに、これからどうすればいいのだ。読者は? 選手は? 監督は? そして何より俺たちは? 様々な思いが胸に去来する。

 誰もが黙っていて、局内には判を押したように重たい空気が流れ込んでいた。

「ただ、皆さんの仕事がなくなるわけではありません。スポーツ東美はこれから一〇〇%デジタルに移行します。今後はインターネットでのニュースの配信が、主な仕事になります。取材はこれからも続けていただきますので、どうか安心してください」

「納得できません」

 どんよりとした空気に似合わない声が発せられた。見ると、徳永が立ち上がって、声を上げていた。

「私はスポーツ新聞が作りたくて、この会社に入ってきたんです。コンビニでスポーツ東美が買われるところを見ていると嬉しかった。その光景が失われるなんて信じられません」

 徳永の声には熱がこもっていた。少し震えていた気もする。それでも、徳永の後に続く者はいなかった。俺も声を上げることができず、徳永はこの部屋で孤立していた。一人だけ舞台に立つ俳優のように。

「では、聞きますが徳永さん。あなたは街でスポーツ新聞を読む人を、見かけたことはありますか」

「それは……」

「昔はスポーツ新聞を読む人はそこら中にいました。電車の中でも、定食屋さんでも。しかし、今ではスポーツ新聞はすっかりマイナーなメディアとなってしまいました。店に置かれることも少なくなり、どんどんと読者数は減っています。残念ですが、スポーツ新聞はもうその役目を終えつつある。これが現実です」

 反論する言葉を失くしたように、徳永は「すいません……」と言ったきり、席に座ってしまった。旗印を失って、空気はますます重さを増す。この場にいることが、耐えられなくなる。

「重ね重ねになりますが、これからはインターネットでの配信が主になります。新しいフィールドで記事を書くことで、また発信を続けていきましょう。私からは以上です」

 そう言って、北方さんは腰を下ろした。向田さんの「では、仕事に戻ってくれ」という声が空しく響く。「取材行ってきます」という力のない声が聞こえた。押しつぶれそうな大部屋から、逃げるような声だった。

 机を叩く音がした。悔しさとやり切れなさが表出したような、乾いた音だった。

 俺はしばらく座ったまま動けなかった。活字に目を通すゆとりは、失われてしまうのだろうか。新聞は消えゆく一方なのだろうか。それが時代の流れなのか。いくら考えても答えは出なかった。

「可児、取材行くぞ」

 松谷さんの声が耳をすり抜ける。俺は立って用意をして、取材に向かった。

 活気はなく、振り返ると、見慣れたはずの大部屋が、嫌に広く感じられた。





 取材は収穫のないまま終わった。高池に何を聞いても「まだ何も決めていないので」の一点張り。これでは記事にならない。

 俺は今日も、クラブからの発表ネタを書くほかなかった。ベタ記事からはなかなか卒業できない。それでも、少しは書くのに慣れてきて、直しも減ってきていた。

 ただ、いくら上達しても独自ネタを取れなくては意味がない。一年目だから大目に見てもらえるなんてことはない。

 早版の記事の執筆が終わる。俺が明日の紙面作成のためにできることは、残されていなかった。

 隣でまだ執筆をつづける松谷さんには申し訳なく思いながらも、帰り支度を始める。今日に限っては編集局にこれ以上いたくはない。

 それでも、赤ペンを走らせる向田さんに「少し残れ」と言われると、帰ることはできなくなる。

 何の戦力にもなれず、先輩たちが奔走する様子を、指をくわえて見ていることは、なかなかの拷問だった。徳永が遅版の記事をチェックされている。戦力になっている気配が、余計俺を惨めたらしくさせる。

 せめてできることはないかと、買い出しに出た。

 三日月が腹立たしいほど綺麗だった。


 最終版の降版時間が過ぎた時には、もう日付が変わっていた。「お疲れ様です」という声があちこちから聞こえる。気づけば編集局には、もう数人しか残っていない。最後の一人、根本さんが帰ったことを確認すると、向田さんはおもむろに話し出す。

「可児、最近どうだ。記者にはだいぶ慣れてきたか」

 優しい口調だった。まるで取り繕っているかのような。教壇に立っているような、そんな口ぶりだった。

「まだまだ全然慣れないです。ベタ記事を書くにも苦労しきりで。向田さんだって分かっているでしょう」

「そうだな。何しろまだ一年目だからな」

 待たされた時間が、俺の言葉に刺を持たせた。口に出してから言い過ぎたと気づく。

 向田さんは怒らない。

「お前、記者以外の仕事に興味あるか?」

 すぐ直感する。向田さんが何を言いたいのかを。それでも気づかないふりをして聞き返す。

「それってどういうことですか」

「いや、お前に総務課への異動の話が出てるんだ。別に今すぐってことじゃない。来年の四月からでいいんだ。どうだ興味あるか?」

「それは記者失格だということでしょうか」

 異動を口実に、俺は厄介払いされようとしている。記者として何一つ成長していない俺を。

 そこまで余裕がないのかと、身勝手な絶望をした。

「そうじゃない。お前にはもっと力を発揮できる場所があるんじゃないかってことだ。ウチもな、紙の新聞を辞めるからには、事業縮小しなきゃならないだろ。そんなに記者抱えてられないんだよ」

「記者数が減ったらますますネタが取れなくなって、より立場が悪くなると思うんですが」

「事業っていうのは選択と集中なんだよ。お前にだって分かるだろ」

 流石に俺でもその言葉は聞いたことがある。ついていけない者を切り落とす体のいい言葉だ。

 「少し考えさせてもらっていいですか」とようやく絞り出す。本当はそんな立場にないことは分かっている。それでも、俺のちっぽけなプライドがそう言わせた。

 向田さんが「ああ、分かった」と頷き、俺はようやく解放された。時刻は終電に差し掛かろうとしている。

 俺は乗り過ごさないように、駅へと走った。走れば、余計なことを考えずに済むような気がしていた。





 ドアを開くと生暖かい風が俺を迎えた。暖房をつけたまま出てきてしまったらしい。コンビニエンスストアの袋を右手に持ちながら部屋に入る。十二時間温まったままの部屋は、ぬるりとした感触があった。

 スイッチを切る。稼働音が止んで、立ったまま笑った。介抱しきれない自分の情けなさに、思わず笑いがこみあげてきた。

 コンビニエンスストアの袋から、三五〇ミリリットルの発泡酒を取り出す。プルタブを開ける音が、やけに大きく聞こえた。

 半分ほど飲む。初めて、小麦色の液体を美味しく感じた。辛いときほど、酒は美味く感じられるらしい。皮肉だ。

 早く酔っぱらいたい一心で、俺は一〇分も経たずに、発泡酒を一本開けた。空き缶を窓に投げつける。単純な音がして、落ちたアルミ缶から、残った発泡酒が少し漏れ出ていた。

 どこで道を間違えたのだろう。配属されたときからか。それとも入社したときからか。そもそもスポーツ新聞を志望したこと自体が間違っていたかもしれない。スポーツ業界なんかに入らずに、口を開けたままで無邪気にスポーツを楽しんでいればよかったのだ。

 就活時に「好きなことを仕事にするな」と先輩から言われたことがある。好きなことと、できることは違う。

 仕事を好きだと言えるかどうか。今の俺は、足を失くして、地面を這いつくばるしかない蛙のようだ。

 酔えば眠くなると思っていた。アルコールが悔しさを紛らわせてくれると思っていた。

 それでも、無音の部屋は、俺の不甲斐なさを浮き彫りにする。

 何か仕事に役立つことをしなければ。そう考えて、パソコンの電源を入れた。

 配信サービスを開いて、試合詳報をチェックする。高池に正式オファーを送っているというロンドン・ユニオンの試合だ。再生ボタンを押そうとしたところで手が止まる。俺は、パソコンを閉じた。

 間違いなく自分の意志で、逃げた。

 窓を開けると叩き起こすような、冷たい風が吹いてくる。いつの間にか風は強くなっていた。俺は、袋を持ってベランダに出た。

 中からタバコを取り出す。電子タバコみたいな、ごまかしのタバコではない。れっきとした巻きタバコだ。電子タバコは、第一部に配属されなかったあの日にもう捨ててしまっていた。

 三か月ぶりに口にくわえるタバコは、紙の感触が呆れるほど滑らかだった。

 吹く風のせいで、何度もライターの火が消えてしまう。手をかざすと、ドラマみたいだなとひっそり思う。タバコの煙は想像以上に刺すように俺の喉まで届き、思わずせき込んでしまう。味も苦くて渋い。

 しかし、俺はまたタバコをくわえ直して、今度は勢いよく煙を吸った。涙目になりながら、見上げた空は雲が月を覆っていた。

 このまま雨が降ったらどれだけよかっただろう。いや、初雪でも構わない。とにかく俺の劣等感を洗い流してくれたら、どれだけ救われただろう。空気は雨の香りを纏うだけで、一滴も雨粒を降らすことはなかった。

 小さく「馬鹿野郎」と呟く。虚空に放ったはずのその言葉は、ブーメランとなって俺の心を深くえぐった。

 ろくに味わえもしないのに、タバコをもう一本くわえる。

 深夜二時。

 明日なんていらないと、青い思いを抱いた。


続く


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