【小説】消えゆく彼らの純真を、僕らはオワコンとせせら笑う(11)
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夜更かしをしてまで見た映画は、あまり面白くなかった。長峰への朝駆けは休みだったので、俺は出社するギリギリまで寝ていた。
飛び起きて、すぐに着替えて部屋を出る。近所のコンビニエンスストアに寄っている暇はなかった。
局内に人はまばらだった。家から直接、取材先に行っている記者も多い。それでも社用車を使うため、出社しなければならなかった。オフィスに入ると、向田さんが男と話しているのが見えた。俺の知らない男だった。他の誰に聞いても知らないという。話の内容は聞き取れなかったが、笑顔は見られなかった。
向田さんに「ちょっと来い」と呼びつけられる。おそるおそる向田さんのもとへと向かうと、机の上には日々スポーツが置かれていた。その一面を見て俺は固まる。
〝高池、英ロンドンから正式オファー〟
「どういうことだ、これは。説明してみろ」
向田さんの口調には怒りが滲んでいた。今にも噴火寸前なのを懸命に抑えているようにも見えた。思わず黙ってしまう。何を言っても怒られそうな気がしていた。
「扱いの差はあれどな、山翠スポーツやスポーツジャパネスクにも出てるんだ。ウチだけが落としたんだよ。どういうことか分かるか」
特オチ。他紙が新聞に載っているニュースを、一紙だけが載せなかった状態。記者としては最も恥ずべきことだ。消えない汚点となり、いくら特ダネを取っても、その傷は癒えることがない。
悪夢のような出来事が、今日起こってしまったのだ。高池とラインを交換しただけで、舞い上がっていた昨日の自分を殺したくなった。
松谷さんが出社してくる。呼ばれる前に向田さんのもとへと行っていた。辿り着くやいなや即座に頭を下げていた。何が起こったのかは承知済みらしい。
「すみません。取材不足でした」
「謝って済む問題じゃないんだよ。昨日、長峰の元へは行ったのか?」
「朝駆けには行ったんですけど、その時は何も聞かされませんでした」
「夜討ちは?」
「行きませんでした。原稿を書くのに頭がいっぱいで、気にも留めてませんでした」
そこまで言うと、向田さんは小さくため息をついた。座りながら、足を揺らしている。
「じゃあ、その間にオファー来たんだろ。怠慢だな。お前らの」
怒鳴るわけではなかった。あくまで平静を保っている。それがかえって恐怖だ。焼き印を体に押し付けられているように、ヒリヒリとした感覚があった。
「いいから、さっさと取材行ってこい。今日はネタ取れませんじゃ済まされないからな」
俺たちは弾かれるようにオフィスを出て行った。振り返ることはできなかった。のど輪を掴まれたように思われた。
シーズンが終わっても、ヴァルロスの練習は続いていた。クールダウンの意味合いを多分に含んだ練習は、メニューは軽いもののシーズン中と刺して変わらない緊張感があった。
俺たちはクラブハウスの前で待機をしていた。日下部の姿がさほど遠くないところに見える。二回連続でネタを抜いた日下部は、余裕綽々といった表情で、出てくる選手を待ち構えていた。その態度が癪に障るというよりも、悔しい。抜かれた側は何も言えない。特オチならなおさらだ。
蒲生監督が出てくる。今年のヴァルロスは一一位でシーズンを終えていて、去年よりも順位を三つ上げていた。続投は確実視されている。それでも、蒲生監督は続投要請について肯定も否定もしない。
肩の荷が少し降りたように、清々しい表情で取材を受けていた。
十二月の寒さに震えているうちに、高池が出てきた。流石にこの時期の坊主頭は堪えるのか、昨日と同じ帽子を被っている。
俺は、高池のもとに近づいてICレコーダーを向けようとした。高池もこちらに気づき、一言声をかける。それでも、松谷さんが手で俺を制した。
「今日は俺が取材するから。お前は黙って聞いてろ」
そう言われると引き下がるしかない。俺は刀を鞘に納めるように、ICレコーダーをしまった。そして、松谷さんの後ろに回る。
小さく嘲笑う声が聞こえた。日下部が口に手を当てていた。良い性格をしている。
「スポーツ東美の松谷です。高池選手、少しお時間よろしいでしょうか」
「いいですけど、今日は可児さんじゃないんですね」
高池が俺の存在を認めていることを初めて実感した。しかし、取材できない悔しさが勝る。俺は高池から視線を外した。
「少し事情がありまして。海外移籍についてお話聞かせいただけますか」
「そのことですか。昨日の夜、長峰さんから言われましたよ。ロンドンから正式オファーが来てるって」
高池はあっさり認めた。もう記事が出ていて、ネットでも拡散されている以上、嘘をつくのは無意味だと思ったのかもしれない。あまりに早く認めたので、松谷さんでさえ少し戸惑っている様子だった。
「高池選手はどのように思っているのでしょうか」
「それについては、まだクラブとも話し合いの場を持てていないので。まず話さないといけないなと思っています」
はぐらかされた。ICレコーダーを持つ松谷さんの手が、かすかに震える。横で話を聞いている日下部が、不気味に頷いていた。高池からはその後も決定的なコメントを引き出すことはできなかった。
取材から解放された高池が中年の女性と話している。「行かないでね」という懇願するような声が聞こえた。高池は取材では見せなかった笑顔で応じていた。
「じゃあ、俺は長峰のコメント取って来るわ。お前はここにいて、選手の話でも聞いといて。契約満了になった選手のコメント取って来いよ」
そう言い残して、松谷さんはクラブハウスの中に消えて行ってしまった。高池は、まだ中年女性と話している。
俺はここにいる意味があるのだろうか。取材をせずに話を聞いているだけなら、学生記者でもできる。焦りしか浮かんでこない。
俺は本当にこれでいいのだろうか。自分にできることがあるのだろうか。
クラブハウスのドアが開いた。選手が出てくる。俺は、脳裏をよぎった懸念を払しょくしようと、早足で選手の方へと向かった。身を刺すような冷たい風がぴゅうと吹いた。
席のあちこちからめいめいに騒ぐ声が聞こえる。世間は忘年会シーズンに突入していた。団体客の利用も多い。暢気なもんだなと、俺は目の前のビールを眺める。お通しの枝豆にも手を付けずに待っていると、その人物は現れた。
「悪い悪い。電車が遅延しちゃってさ。始まるまで待ってくれたんだ。ありがとな」
石川さんは、悪びれもせずに言っていた。相変わらず笑顔に、今日もほんの少しだけ救われる。
「いえ、別に何とも思ってませんよ。それより、とりあえず乾杯しましょうよ」
「そうだな、乾杯」
ビールの苦みに慣れる気配は俺には全くない。それでも、気合を入れて呑んだ。喉が渇いていたわけではない。溜飲を下げようとしただけだ。
「とりあえず何か頼むか。いつもみたいに焼き鳥五点盛りでいいか」
普段とは違う俺の様子を、あえて気にかけないように、石川さんは普段と同じように振舞っていた。その気遣いにささくれた心が丸くなるような気がする。
「石川さん、奥さんとお子さんがいますよね。大丈夫なんですか。色々」
「ああ、その事なら大丈夫。今日も同僚と呑みだって言ってあるから」
今日も、というのがビール腹の石川さんらしかった。奥さんはだいぶ寛容らしい。
「お前から誘ってくるなんて珍しいじゃんか。何かあったか?」
別に家に帰って一人で過ごしてもよかった。身の丈に合った発泡酒を、咳をしながら呑んでいてもよかった。
ただ、それだけだと、胸のわだかまりは解消できない。
こんなときに相談できるのは、石川さんしか思い当たらなかった。
「石川さん、『働く』って何なんですかね」
「どうしたよ。やけに哲学的だな」
「いや、今日思ったんですよ。俺なんのために働いてんだろうって。ろくにネタも取れずにいる自分が情けなくて。取材もいつまで経っても上手くならないし。仕事している意味あるのかなって」
「だいぶシリアスになってんだな。お前まだ一年目だろ。焦ることないと思うけどな」
石川さんがビールを口に運ぶ。泡の髭ができている。
「じゃあ、聞くけどさ。お前は就活のとき、なんて言って東美に入ってきたの?」
「それはスポーツ新聞製作に携わることで、スポーツを盛り上げたいですって。よくある志望動機ですよ」
「スポーツのため、か。でも、それだと目的語が大きすぎるよな。お前は誰に向けて記事を書いてるんだ?」
若いサラリーマンの騒ぐ声が聞こえた。ある程度うるさい方が、今の俺にはありがたい。
「それは読者のためですよ。スポーツを見てくれる人のためですよ」
「そりゃそうだわな。でも、本当にそれだけか?」
「それだけってどういう意味ですか」
石川さんは答えない。一瞬奇妙な間が生まれる。ビールを口に運ぶことなんてできない。
「新聞は読者のためだけのものじゃないってこと。俺は印刷局にいるから詳しいことは分かんないけどさ、新聞って取材対象のためでもあるんじゃないのかな」
「どういうことですか」
「誰かが伝えないと、取材対象のことなんて、誰にも何にもわかんないだろ。その誰かが、お前なんだよ。取材対象と読者をつなぐ仕事を俺たちはしてるんだよな」
目が覚めたようだった。今までつまらないことを考えていた自分を、引っ叩きたくなる。俺はビールを口に運んだ。冷えたビールは体を火照らせる。
目が見開いていることを、石川さんに笑いながら指摘された。
「まぁ、これも研修のときの先輩の受け売りなんだけどな。可児はさ、記者を続けたいんだろ?」
「はい、続けていきたいです」
「だったらめげずにやるしかないよな。頑張れよ」
そう言う石川さんの顔に、ほんの一瞬だけだけれど、笑顔が失われた気がした。えびす様の真顔を初めて垣間見た。語尾も少し弱い。
しかし、それは真剣なアドバイスを送ってくれているのだと、俺は気にも留めなかったし、即座に焼き鳥五点盛りが届くと、石川さんは瞬時に笑顔を取り戻していた。きっと笑いっぱなしだと疲れてしまうのだろう。
俺は焼き鳥に手を伸ばした。「先輩よりも先に取るなよ」と注意されて、俺もまた少しはにかむ。
思えば、この時すでに石川さんは知っていたのだ。俺たちの明日を左右する宣告が、もう間もなくなされることを。
続く
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