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【小説】ロックバンドが止まらない(91)


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 一日だけ休息日を取ると、レコーディングはすぐに再開された。休むことでわずかにでもリフレッシュができたのか、園田は爽やかな表情をしてレコーディングスタジオに現れていた。

 神原が「大丈夫か?」と声をかけても、「うん、大丈夫」と気丈に答えてくれる。疲労がリセットされたかのような雰囲気に、神原たちもその言葉を素直に信じることにした。

 そして、実際園田の調子は悪くはなかった。とはいっても絶好調ではなかったし、疲労からはまだ完全に回復していない様子だったけれど、弾かれるベースには澱みがなく、音も粒立っているように神原には聴こえた。

 テイク数も一昨日よりも減っていて、誰にとっても満足がいくOKテイクを作ることができていた。園田自身も、手ごたえを得ている表情をしている。

 同じように、スケジュールを圧迫することなく園田のレコーディングが済んで、神原たちも一息つくような思いがしていた。

 その日のレコーディングは、予定通り終わった。

 でも、レコーディングする曲はまだ二曲残っていたから、神原たちは次の日もその次の日も、長時間レコーディングスタジオにこもる必要があった。

 間に休息日を挟んだとしても、連日続くレコーディングに、神原たちはやはり疲労を感じずにはいられない。その色はとりわけ園田には濃く、演奏されるベースも少しずつ不安定になっていく。テイク数もかさみ、このままではいけないことは誰の目にも明らかだった。

 だから、六曲目のレコーディングを終えた後、神原たちは少し園田と話をした。園田は「疲れている」と正直に打ち明けてくれて、伊佐木も交えて対応策を話し合った結果、最終日のレコーディングは園田のベースからレコーディングすることに決まる。レコーディングが始まったときが一番疲労が少ないだろうとの判断を、園田も受け入れていた。

 そうして、翌日。神原たちは、今回最後のレコーディングに臨んだ。

 レコーディングスタジオに集まったときの自分たちの表情は、はっきりと疲労に侵されていたけれど、それでも今日で最後だからと、神原たちはお互いを励まし合う。

 前日に決めた通り、この日は園田からのレコーディングだ。メンバーやスタッフから温かい声をかけられ、園田はレコーディングブースに入っていく。

 準備を終え、伊佐木の指示でレコーディングが開始されると、神原たちはもう祈るようにブース内の園田を見つめることしかできない。

 神原たちの祈るような思いが伝わっているのか、園田は落ち着いて演奏に取り組んでいた。もとよりこの曲はミドルテンポの曲だから、そこまで大きく盛り上げる必要はない。だから、園田も焦らず着実にベースを弾くことができていた。

 それでも、ふとした瞬間の表情に疲労は見えて、神原はつつがなくレコーディングが終わってくれますようにと、改めて祈る。今のところ予備日はなく、何としても今日中に録り終えなければならないというのは、神原だけでなくスタジオにいる全員の総意だった。

 園田は、ひとまず伊佐木に指定された三テイクを弾き切っていた。しかし、まだレコーディングは終わったわけではなく、ここから上手くいった個所を繋ぎ合わせてOKテイクを作る必要がある。

 神原たちは音響卓の前に集合して、園田が演奏したテイクを聴いた。その結果、さらにもう二テイクを録音することになる。そう決めたのは紛れもなく園田自身で、再びブースに向かっていく園田に、神原たちは「頑張ってな」「リラックスだぞ」ぐらいの声しかかけられない。

 でも、そんな不十分な言葉でも確かに園田の心には届いたようで、園田は表情を緩めてくれていた。

 大きく頷く園田を、神原は頼もしいと思う。園田ならあと二テイクで決めてくれると、根拠もなく信じられた。

 自分だけでなくスタジオにいる全員が、園田の演奏を固唾を呑んで見守っていると神原は感じる。流れている祈りの密度は、今回のレコーディングでも今が一番高い。

 自分だったら少しやりづらいなと神原はふと思ってしまったけれど、それでも園田は最後にもう一度、集中した演奏をしていた。何としてもこの二テイクで決めるんだという意気が、一音一音からにじみ出ているようだ。

 そして、実際に園田は残りの二テイクを大きなミスなく終えていて、自分たちの元に戻ってきたときに、神原は拍手さえしたくなった。改めて聴いてみても、瑕疵はほとんど見られない。前の三テイクと継ぎ合わせてOKテイクを完成させることに、誰からも異論は出なかった。

 園田もほっとしたように、ソファに腰を下ろして胸をなでおろしている。まだレコーディングは終わっていなかったけれど、そのやりきったような姿に神原たちは労いの言葉をかけずにはいられない。

 口々に「良かったよ」や「お疲れ様」と言われて、園田も清々しい表情で答えている。でも、背もたれにどっかりと寄りかかっている姿は本当に疲れているようで、神原たちはしばらくは園田をそっとしておくことにした。

 久倉や与木も、最後の力を振り絞るかのように精一杯演奏に当たって、予定通りにレコーディングは進行していく。

 そして、いよいよ最後の神原の順番となった。ここまではなんとか期日通りにできているレコーディングを、納得のいく状態で終わらせられるかは、もはや自分にかかっている。そう思うと、神原は今回のレコーディングでも一番のプレッシャーを感じたが、それでもメンバーやスタッフから応援する言葉をかけられ、息を整えてからブースに向かった。

 まずはバッキングギターの録音だ。細心の注意を払いながら、伊佐木が出したキューに合わせて、神原はギターを弾いていく。やや複雑なコードを用いているから、いつも以上に集中する必要はあったが、それでも家で何度も練習してきたおかげで、演奏は神原の身体に染みついていた。

 バッキングギターの録音を指定されたテイク数で終えると、神原はいよいよ今回のレコーディングでも大詰めの、ボーカルの録音へと入っていく。ここでミスを重ねてしまったら、全てが台無しだ。

 でも、そういった神原の緊張をヘッドフォンから流れるオケが軽減する。四人で作り上げたボーカルの入っていない音源が、神原を強く勇気づける。

 だから、神原は変に意識することなく、スタジオでのバンド練習のときのような、自然な歌唱ができていた。疲労も脳内でアドレナリンが出ているのか、歌っている間はそれほど感じない。

 一度歌い終えると、窓越しに園田たちの姿が見える。その表情は神原のことを少しも疑っていなくて、そのことが神原の調子をより引き上げていた。

 トラックの再生が終わる。伊佐木が自分の顔を見ている。それはここにいる誰もが例外ではないと、神原には感じられる。

 心の中で一つ頷く。そして、神原ははっきりと口にした。

「これでお願いします」

 そう神原が言った瞬間、スタジオには大きな安堵が広がった。園田たちも頷いている。それは神原たちのメジャーデビューして初めてのフルアルバム、そのレコーディングが完了したことを意味していた。

 神原は深い達成感と解放感に包まれる。何時間も何日もかけた先にあるこの感覚は、何度味わっても得難いものだなと思う。疲労感さえ今は心地いい。

 園田たちも一つ大きな仕事を成し遂げたことに、頬を緩めている。お互いの顔を見て、気がつけば四人はそれぞれに手を取り合っていた。

 レコーディングスタジオから出ると、よりいっそう冷たくなった夜風が神原たちに触れる。神原としてはこのまま適当な居酒屋に行って、レコーディングの打ち上げをしたい気分だ。今回もよく頑張ったと、自分たちで自分たちを労いたい。

 でも、それは瞼が重たそうにしている園田を見ると、神原にはためらわれた。レコーディングを終えた安堵なのか、今までの疲労が一気に襲ってきているのだろう。

 疲れているのは神原たちも一緒だったから、自然と今日はどこにも行かず、このまま解散する流れになった。最寄り駅まで四人で行って、それぞれの方向への電車に乗る。

 帰る方向が途中まで同じ与木と神原は、一緒に電車に乗った。空いている座席に腰を下ろすと一〇分ほどの乗車時間にもかかわらず、二人とも睡魔に侵されてしまっていた。

 与木とも別れて、神原は一人帰路に就く。その途中にあるコンビニエンスストアでビールといくつかのおつまみを買いながら、自宅に辿り着く。

 暖房を入れて部屋着に着替えると、神原はすぐに缶ビールのキャップを開けた。喉を通っていくピリリとした感覚が気持ちいい。四人での打ち上げとはいかず、一人での酒となったが、この瞬間のために大変なレコーディングも頑張ってきたのだと、神原には思えるほどだった。

 温めたキムチチゲを肴にして、神原はビールを呑み進めた。キムチチゲは辛さのなかに程よい甘さがあって、神原の胃は満たされていき、一緒に呑むビールが拍車をかける。酔いが回っていく感覚が心地よく、また神原にとってはレコーディング期間の間は控えていた酒だったから、解放感もひとしおだった。

 たとえ一人で呑んでいても、自分は今幸福だと思える。一仕事やり終えたあとの達成感は、神原の気分をずいぶんと大らかにしていた。

 どちらかだけでも美味しいキムチチゲとビールの合わせ技に神原は上機嫌になり、誰かと話したい気分になった。携帯電話を手に取って、久倉に電話をかける。園田はとりわけ疲れていたし、与木よりも久倉の方が話が弾むだろう。

 だけれど、何回か電話をかけてみても、久倉は電話に出なかった。シャワーでも浴びているのか、もしくはもう疲れて寝てしまっているのか。いずれにせよ電話には出られない状況なのだろう。

 だから、神原は与木と話そうと切り替えた。でも、与木も神原からの電話には出なかった。与木も疲れた表情をしていたから、もうベッドに入っていても無理はないなと神原は思う。

 そして、二人が電話に出られない以上、残された相手は園田しかいなくなる。

 でも、園田は疲れきっていた。そんな状態で電話をかけても、迷惑なだけではないのか。

 神原は少し逡巡した後に、一回だけ電話をかけてみて、それで出なかったらもう諦めようと決める。数回の呼び出し音を経たのちに、意外にも電話はつながった。

「もしもし、泰斗君。どうしたの?」

「ああ、園田。今ちょっと話せる?」

「うん、別にいいけど」

「そっか。でも園田、疲れてるだろ。無理しなくてもいいのに」

「無理しなくてもって、電話をかけてきたのは泰斗君の方でしょ。ちょっとぐらいなら、私も大丈夫だよ」

「そっか。ありがと」と言ったものの、神原はすぐに言葉を続けられなかった。思えばただ電話をしたいという思いが先にあっただけで、実際に何を話すかはほとんど考えていなかった。

 瞬間的に頭を回して出た言葉は、「今、何してた?」というありきたりなもので、園田が小さく笑ったのが、電話越しにでも神原には分かった。

「ご飯食べてお酒呑んでた。缶チューハイを一本だけね。ほら、私明日もバイトだから」

「そっか。俺も飯食いながら酒呑んでる。コンビニで買ったキムチチゲと一緒に」

「ゼブンのやつ? あれ、美味しいよね。私もたまに食べるよ」

「そうそう、それ」なんてことのない雑談は、神原がそう言ったところでいったん途切れた。これ以上この話題は広がらなさそうだし、疲れている園田をどうでもいい話に付き合わせるのも気が引ける。

 だから、神原は「園田、あのさ」と話題を変える姿勢を示した。園田も「何?」と乗っかってきている。神原は何気ない口調を心がけた。

「レコーディング、お疲れ様」


(続く)


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