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【小説】白い手(2)


前回:【小説】白い手(1)






 電車を乗り継いで、奈々は自分の最寄り駅に到着した。

 一日の中で一番暑い時間帯に耐え切れず、駅前にあるコンビニエンスストアでアイスバーを買う。口にするとキンとくる冷たさとともに、初仕事をやり遂げたという達成感が湧き上がってきた。

 不安もあったけれど、何とかやり遂げた。自分にかけてくれた言葉が正しければ、須崎も満足してくれた。そのことがじんわりと胸に染み入ってくる。

 アイスバーを食べ終わってから一〇分ほど照り付ける日差しの中を歩いて、奈々は自分の家に辿り着く。七階建てのマンションに入ると日差しがない分、涼しく感じられた。

 エレベーターを五階で降り、一番奥にある五〇八号室が、奈々が暮らしている部屋だった。

 ドアを開けても人の気配はなかったけれど、平日の昼間だから当然だと奈々は思う。一緒に暮らしている両親は、それぞれ会社に行っている。それに奈々だって、もう何時間かすれば勤務先の介護施設での夜勤が待っている。

 短い時間を休養に当てるために、リビングに着くと奈々はすぐに冷房のスイッチを入れた。涼しい風が、今日はよりいっそう心地よく感じられた。

 部屋着に着替えるよりも、ソファに腰掛けるよりも先に、奈々はベランダへと続く窓の横に正座した。

 そこにあったのは、位牌とお供え物の和菓子。一輪のシャクナゲが花瓶に飾られ、香炉に立てられた線香は出かける前よりも短くなっている。中央に立て置かれたピースサインをしている男性の写真を見ながら、奈々は軽くりんを鳴らした。

 透明な音色が小さく響く中、奈々は手を合わせた。目を瞑りながら、在りし日の記憶を辿る。

「お兄ちゃん、初めての射精介助、無事に終わったよ」

 手を下ろしてから、奈々はぽつりと写真に呼びかけた。写真に写っているのは、鷹野淳矢(たかのじゅんや)。去年亡くなった、奈々の兄だ。

「利用者の人、すごく喜んでくれた。自分に自信が持てたみたいに。それを見て、私もすごく嬉しくなったよ」

 写真の中の淳矢は、眩しいほどの笑顔を見せている。亡くなる直前からは想像もできないくらいに。

 一人で話していると、奈々の心は締めつけられる。たかが一年かそこらでは、悲しみは癒えるはずもない。

「それにね、来週にはまた別の利用者の方の予約が入ってるんだ。今回を無事に終えられたことで、私も少しだけ自信が出てきた。次もまたがんばれそうだよ」

 淳矢だけでなく自分にも言い聞かせるように口にすると、奈々はじっと写真を見つめた。目は合うけれど、もう言葉を交わすことはできない。

 奈々は心の中で頷くと、立ち上がって自分の部屋へと向かう。

 つけっぱなしの天井照明が、簡易的な仏壇をも照らし出す。線香の煙が、細く立ち上っていた。


* * *



 ホットプレートから肉汁が跳ねる香ばしい音がする。鷹野優花(たかのゆうか)が菜箸を使ってひっくり返すと、満遍なくついた焼き目から食欲をそそる匂いが昇ってきて、奈々は息を呑んだ。既にカップ酒を呑んでいるだけあって、優花の隣に座る鷹野拓雄(たかのたくお)の頬は少し赤い。

 その正面、つまり奈々の隣では淳矢が「そろそろいいんじゃない?」と、はやる気持ちを抑えられていない。子供のような仕草に、奈々の口元は先ほどからずっと緩みっぱなしだ。

「そろそろいいよ」。そう優花が言うやいなや、奈々はいの一番に肉に箸を伸ばしていた。自分の金で買った肉だ。誰にも文句は言われないだろう。

 他の三人も焼けた肉を自分の取り皿に持っていき、四人は改めて「いただきます」と声をかけあう。

 焼肉のたれをつけて口に運ぶと、柔らかな食感と濃厚な肉の旨味が舌に広がった。さすがは一〇〇グラム二〇〇〇円の高級和牛だ。三人も味に喜びを通り越して、驚いているように奈々には見える。奮発してよかったと最初の一切れで思った。

「どう? 美味しい」

「うん、すごく美味しいよ。旨味は強いのに、脂はさらっとしていて全然くどくない。やっぱり高い肉は違うね」

「奈々、ありがとな。大事な初任給を俺たちのために使ってくれて」

「いやいや、今まで育ててもらった分があるからね。これくらいは当然だよ」

 なんてことないように答える奈々。特別なことをした意識はなかったが、それでも三人が次々と肉をほおばって微笑ましい顔をしているのを見ると、胸が満たされていく。自分も家族もみんなが嬉しい。これこそ最高の初任給の使い方だ。

 会話も弾み、奈々はこの世の春を謳歌しているような気持ちになる。肉も野菜も白米も、全てが美味しい。

 だけれど、奈々には一つだけ気がかりなことがあった。淳矢の肉を食べるスピードが、自分たちに比べて遅いのだ。箸があまり動いておらず、茶碗に盛られた白米も半分ほどしか減っていない。優花がもっと食べるように勧めても、渋っている。

 奈々としては今までのお礼のつもりで買った肉なのに、二の足を踏まれると、心配以上の感情が湧いた。

「どうしたの? お兄ちゃん。食欲ない?」

「いや、そういうわけじゃないんだけど……」

「ならよかった。遠慮しなくても、まだまだたくさんあるからね」

 そう言って優花は焼き上がった肉を二切れ、淳矢の取り皿に置いた。奈々もぜひ食べてほしいと視線にこめる。

 だけれど、淳矢の箸を持つ手がどこかぎこちなく見えてしまう。肉をつまむのにも、口に入れるのにも心なしか大変そうで、その姿は勤務している介護施設の利用者の様子を奈々に思い起こさせた。酒は飲んでいないはずなのに。

「お兄ちゃん、大丈夫? なんか箸の持ち方ぎこちないけど」

 奈々がそう訊くと、淳矢は小さく微笑んでみせた。

「大丈夫大丈夫。最近残業が多かったから、もしかしたら疲れてんのかな。でもピークはもう過ぎたし、これからは少しゆっくりできると思う」

 そう言うや否や、淳矢はもう一切れの肉にも箸を伸ばしていた。だけれど、今まで何万回と行ってきたはずの動作が、奈々にはどうしてもスムーズなものに見えない。

 身体の末端である手指にまで現れるなんて、淳矢は相当疲れているのだろう。「無理しないでいいよ」と声をかけたけれど、淳矢は曖昧に笑うだけだった。

 食べ終わって満腹になったら、何も考えないですぐに寝てほしい。奈々はおぼろげな淳矢の瞳に、そう思わずにはいられなかった。



 本人が言ったとおり、それから淳矢の仕事は落ち着いて、定時に家に帰ってくる日も多くなっていた。毎日八時間はしっかりと寝ている。

 しかし、淳矢の手指のぎこちなさは一向に改善することがなかった。箸を握るのも大変そうで食事のときはスプーンを使うようになっていたし、書く字も明らかに形が崩れ読みづらくなっている。さらには、一緒に出かけていても歩く速度が合わなくなったり、階段の上り下りにも目に見えて時間がかかるようになっていた。

 誰がどう考えてもただごとではなく、奈々たちはまずは近所の整形外科に淳矢を連れていった。いくつかの検査をした後に医師から言われた言葉は、「もっと大きな病院で診てもらってください」だった。これで不安に思わない人間はいないだろう。

 日常生活にも苦労し始めた淳矢を見ていると、よからぬ想像ばかりが奈々の頭の中で膨らんでいっていた。

「鷹野さん、本日はお越しいただきありがとうございます」

 うやうやしく言った医師に、淳矢が小さく頭を下げる。その後ろ姿を奈々は、拓雄や優花と一緒に立って眺めていた。アイボリーでまとめられた診察室は、患者を落ち着かせようという意図なのだろうが、鷹野には少しだけ冷淡に見える。

 梅雨が明けて、本格的な夏の訪れを感じる土曜。鷹野たちは隣の市にある大学病院にいた。一週間ぶり二回目だ。

 案内されたのは脳神経内科。その響きだけで、奈々は何か不吉めいたものを感じてしまう。

「改めて、先週は検査お疲れさまでした。どうですか? それから調子の方は」

「まあ変わらずという感じです。でも、検査結果が気になって、この一週間は気が気じゃありませんでした」

 淳矢が応えると、医師は小さく頷いた。奈々たちの不安や緊張を和らげようとするように。

 それは奏功しているとは言い難く、診察室には入ってきたときからずっと神妙な空気が流れていた。

「では、鷹野さん。検査結果をお知らせします」

 四人は一斉に息を呑む。医師は色のない声音で続けた。

「結論から申し上げます。今回、鷹野さんは筋萎縮性側索硬化症と診断されました」

「えっ、それは……?」

「もしかしたら聞きなじみがない病名かもしれません。だけれどALSと言えば、一度は聞いたことがあるのではないでしょうか」

 医師の言葉に奈々の心は凍りついた。ALS。一度罹ったら現代の医学では治ることのない、進行性の難病。テレビや映画でしか聞いたことがなかったその病気に、まさか自分の家族が罹るとは。可能性は高くないのは知っていたけれど、検査結果が全て異常なしに終わることを期待していたから、その分受けた衝撃は大きかった。

 当の淳矢も動揺しているのが、背中だけで分かって奈々は目を逸らしたくなる。

 医師はパソコンに映る映像を用いて、検査結果を詳しく説明していたけれど、奈々の頭にはそれらが一個も入ってくることはなかった。本の読み聞かせを聞かされているみたいに現実感がない。

 だけれど、頬をつねるまでもなくこれは紛れもない現実なのだと、奈々は悟っていた。診察室には雷雲の中みたいな、灰色の空気が垂れ込める。

 指定難病だから医療費の一部は国が負担してくれると言われても、奈々は少しもいいことには思えなかった。



 窓の外を景色が滑っていく。幹線道路に並ぶいくつものチェーン店は見飽きてしまって、もう何の面白みもない。

 だけれど、鷹野は窓の外を見続けていた。いや、車の中を見られなかったと言う方が正しい。車内の空気は地を這うように重くて、冷房の風でも払拭できていない。

 ただ黙って運転する拓雄に、前だけを見ている優花。隣に座った淳矢の顔を奈々はとてもじゃないけれど、見られなかった。スマートフォンに落としている目の元気のなさを想像すると、恐ろしかった。

「ね、ねぇ今日何食べたい?」

 重苦しい空気の中で、焦るように優花が口を開く。今する話ではないと奈々は感じたけれど、今すべき話はしたくなかった。

「俺、カレーが食べたい。駅前のインドカレー屋のカレー」

「そ、そう。淳矢、あそこのカレー好きだったもんね」

 話を合わせる優花。だけれど、会話はそれ以上弾まなかった。いたたまれない空気が身を刺して、奈々は早くこの空間から抜け出したくなる。

「……ごめん。ALSなんかに罹っちゃって」

 ひりついた雰囲気に耐えかねたように、淳矢がこぼす。

 だけれど、それは奈々にとっては、今一番淳矢の口から聞きたくない言葉だった。謝ったところで病気は治らない。本人も家族もさらに辛くなるだけだ。

「淳矢、謝るなよ。お前は一つも悪くない。絶対に悪くないんだ」

「でもさ、これからは俺の医療費とかでお金も、介護とかで時間もかかるでしょ。そう思うと、どうしようもないとは分かってても、やっぱり謝らずにはいられないよ」

「ねぇ、淳矢。お母さんたちには正直、今の淳矢の気持ちは完全には分からない。でも、そうやって謝られると悲しくなるだけで、一個もいいことがないの。だから思っていても、なるべく口にしないでもらえるとありがたいな」

 優花の嘆願する声を受けて、淳矢は黙ってしまった。奈々や拓雄も何も言えず、車内には再び走行音だけが流れる。スマートフォンを見ることも憚られたから、奈々は引き続き窓の外を見るしかない。

 淳矢から目を背けている自分が、どれだけ酷いことをしているのかは分かっている。

 だけれど、奈々は退屈な景色を見て頭を空っぽにしたかった。いいことも悪いことも、何も考えないで済むようにしたかった。そうしたかったのだ。


(続く)


次回:【小説】白い手(3)


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