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【小説】白い手(5)


前回:【小説】白い手(4)





 玄関のチャイムを鳴らす。中から聞こえる「どうぞ、入ってください」という声は、一ヶ月前と何も変わっていない。鍵をかけていないのは不用心とも言えたが、それだけ人間を信頼しているのだろう。

 奈々は「お邪魔します」とドアを開けて、家の中に足を踏み入れた。ホームヘルパーを利用しているのだろう。玄関は相変わらず整理整頓が行き届いていた。

 左側にある引き戸を開けると、奈々の目にはたくさんの本が再び飛びこんでくる。やはり整然と並べられていて、使った痕跡があまり見られないほどだ。

 ベッドに座った須崎が、「こんにちは」と奈々に笑いかける。二回目だから、大分緊張も解けてきているのだろう。

 でも、奈々は同じ言葉をぎこちない笑みでしか返せなかった。心配しなくても、須崎が奈々を悪く言うことは考えられないというのに。

「どうしたんですか? 鷹野さん。少し表情が優れませんが、何かあったんですか?」

 奈々がリュックサックを下ろして、射精介助に必要なものを取り出していると、須崎が不思議そうに訊いてきた。自分ではうまく取り繕っていたつもりだったのに見抜かれてしまったのは、作家としての観察眼の鋭さからだろうか。「いえ、何でもないです」と言ったところで、須崎に無駄な心配をかけてしまうだけだろう。

 だから、奈々は正直に答えることにした。

「あの、須崎さんって作家をなされてるんですね」

 須崎の顔は驚いても意外に思ってもいなかった。本名で活動している以上、誰に知られても構わないと思っているのかもしれない。「ええ、そうですが」と言う声には、何の疑問も含まれていなかった。

「私、読みました。今月号の『月刊介護』のエッセイ」

 奈々がそう投げかけてみても、須崎は「ありがとうございます」と答えるだけだった。作家は文章を書いて読んでもらうのが仕事だから、当然の反応だ。

 奈々が「面白かったです。読んでてとても励まされました」と感想を伝えても、須崎は相好を保ったままでいた。誰に向けても不満に思われることはない表情。だけれど、奈々の心には小さな棘が芽生えていた。

「あの、違ってたら否定してもらって構わないんですけど」

「どうかしましたか?」

「今回射精介助を利用されたのは、エッセイに書くことを作るためですか?」

 エッセイを読んだときから抱いていた疑問。須崎はすぐに返事をしなかった。表情に少し困惑の色が混ざり始めたように奈々には見える。

「……違いますよ。射精介助を依頼したのは、自尊感情を保つためです。自分がまだ男として機能しているかを、確かめたかったからです」

 須崎はまっすぐ奈々を見て言っていたから、あながち嘘と言うわけでもないのだろう。奈々は納得した。というか納得するより他はなかった。こんなところで澱を残して、介助の妨げになってはいけない。

「分かりました」という言葉は、たぶん自分自身にも向けられていた。

「それでは、これから射精介助を始めさせていただきます」

「はい、お願いします」

「それではズボンと下着をお取りしますね」

 須崎が頷いたのを確認して、鷹野は慎重に須崎の下半身を持ち上げて、短パンとトランクスをゆっくりと脱がしていく。

 一ヶ月ぶりに見た須崎の陰茎は、奈々が記憶していたよりも少し大きかった。前回、数年ぶりにした射精を誇っているようでもある。

 心なしか須崎自身の表情も、前回よりもリラックスしているように見える。自分に心を許し始めてくれていることが分かって、奈々の中では使命感が膨らんだ。

「では、お身体の方拭かせていただきますね」

 バスタオルでへそから太ももまでを覆い、鷹野は介護用手袋を着用した。もう一枚のタオルをお湯で濡らし、須崎の陰部に当てる。

 他のケアスタッフにきちんと洗ってもらっているのだろう。須崎の陰部には垢一つなくて、実に清潔だった。清拭なんて必要ないみたいに。

 それでも奈々は、優しく須崎の陰部を拭いていく。じっと陰茎を目にしていると、奈々の緊張は否が応でも高まった。もう数回射精介助を行っているのに、全然慣れていない自分を自覚する。

 だけれど、この緊張はプライベートな介助には欠かしてはならないものだ。奈々はそう自分に言い聞かせた。

「それではまずは勃起の介助を始めさせていただきます」

 かしこまったような須崎の「お願いします」を聞いて、鷹野は気づかれないように小さく息を吐き、気持ちを新たにした。

 須崎の陰茎にそっと手を当てる。そして、手のひらと指を使い、円を描くようにささやかな力で揉んだ。全ての指を使って、優しく陰茎を撫で上げたり、会陰部を押したりと、勃起を試みる。

 指を通して、須崎の陰茎に血液が巡っていくのを奈々は感じた。変な言い方だけれど、一度射精介助を行ったことで、コツをつかんだようにさえ思える。

「力を抜いて、楽にしてくださいね」と奈々が言うまでもなく、須崎は奈々に陰茎を通して身体と心を預けてくれていて、奈々の気持ちは引き締まった。

「では、続いて完全勃起の介助に移らせていただきます」

 須崎の陰茎は前回よりも、半分ほどの時間で勃起した。だから、奈々もスムーズに次の段階に移行できる。

 須崎の返事を聞いて、奈々はまず左手で包皮を押し下げて陰茎の根元に固定した。表出した亀頭は、心なしか以前よりも血色がいいように見える。

 右手の人差し指と親指でリングを作り、ゆっくりと上下にこすり始める奈々。前回の反省を生かして、動かす手は焦らない程度に、それでも少し速めのスピードを心がけた。「速さは、これくらいでよろしいですか?」と尋ねてみても、須崎は「はい。これくらいがちょうどいいです」と応えてくれる。

 見る見るうちに膨れ上がっていく亀頭に、奈々は早くも手ごたえを感じた。自分の技術が上達しているのか、須崎との呼吸が合ってきたのか。いずれにせよ射精介助は前回よりも自然に進んでいた。

「それではこれから射精の介助を始めさせていただきます。ローションを用いながら行いますので、射精したくなったらお声がけください」

 完全に勃起した須崎の陰茎に手際よくコンドームを装着させて、奈々は改まったように告げた。須崎の返事は実に落ち着いていて、不安をまったく持っていないことが分かる。

 奈々はローションを適量手のひらに垂らして、両手でこすって人肌の温度に暖めた。再び陰茎をそっと握って、上下にこする。須崎の穏やかな表情を垣間見ながら手を動かしていると、自分がとても意味のあることをしているように思えた。

 手を動かす速さを確認しながら、射精へと近づけていく。交わす言葉は少なくてもコミュニケーションには、はっきりとした意図が介在する。

 一分ほど経って、須崎から「射精させてください」という言葉を聞いて、奈々は手を動かすスピードを速めた。「出したくなったら、いつでも出して大丈夫ですよ」と言いながら、奈々は自分の心臓が速く脈打ち始めたのを感じた。

 手を動かし続けて、どれくらい経っただろうか。須崎の亀頭から、再び精液が姿を現した。前回よりは黄色がかっていないし、射精する勢いも目に見えて強くなっている。

 コンドームに垂れていく精液を見ながら、奈々はほっと胸をなでおろしていた。まだ後片付けがあるが、今回も無事射精させることができたと安堵する。所要時間は短くなっていたけれど、呆気ない感じはない。

 それに安心した表情を見せている須崎を見ると、ここに来るまでに心にかかっていたもやが晴れていくような気も奈々にはした。須崎の役に立てたという思いもあったが、それ以上に自分がこの仕事を続けていいのか、明確な答えが出た気がした。

「以上で今回の射精介助は終了になります。須崎さん、お疲れさまでした」

 介助後の片づけを終えて、奈々は須崎と今一度向き直る。しゃがんで目の高さを合わせていると、須崎のまっすぐな視線が奈々の心に刺さった。

「鷹野さん、今回もありがとうございました。前回に引き続き射精することができて。鷹野さんのおかげです」

 須崎の目が直接的に感謝を伝えてきていたから、奈々は謙遜する必要を感じなかった。「はい、ありがとうございます」と素直な笑顔で答える。「あなたのおかげ」と言われて、嬉しくない人間はいない。

「須崎さん、今回の介助についてよかった点や、逆にここはこうしてほしかったという点は何かありますか? できたら次回の参考にさせていただきたいのですが」

「前回と同じように丁寧に介助していただいて、とても嬉しかったです。ちゃんとコミュニケーションも取ってくれて、安心して身を委ねることができました。こういうデリケートな介助はなかなか頼めることではないので、その僕の勇気を鷹野さんは汲み取ってくれて。すごくありがたかったです」

 須崎は前回と同じように、いやもしかしたら前回以上に奈々のことを褒めちぎっていた。奈々はそこまで捻くれた性格をしていなかったので、言葉を意味する通りに受け取る。報酬以上の喜びを感じられて、頬がさらに緩みそうになるのを何とか抑える。

 自分たちはあくまで、介助者と利用者の関係だ。距離を詰めすぎてはいけないという感覚は、奈々にも確かに存在していた。

「ありがとうございます。須崎さんにそう言ってもらえて、私も励みになります」

「それは何よりです。その上でこういったことを言うのは心苦しいのですが、少し、ほんの少しなんですけど、今日の鷹野さんは射精を急いているように思えました。僕の体調を気遣ってくれたのは分かるんですけど、それでももうちょっと余裕を持ってやってほしかったなとは正直思ってしまいました」

「ってこんなこと言うのは失礼ですよね。介助していただいているのに」。そう須崎は申し訳なさそうに言っていたが、奈々は苦には感じなかった。もちろん、指摘されてへこんでいる部分はある。

 だけれど、それは改善の余地が見つかったということだし、それ以上に至らない点を正直に教えてくれているのは、それだけ須崎が自分に心を開いているということだろう。余計な遠慮が薄れたようで、奈々にはかえって嬉しくさえある。

「いえ、教えてくださってありがとうございます。今後に生かしたいと思います」との返事は、心から出た言葉だった。

「いえ、こちらこそ今日はありがとうございました。鷹野さん、また依頼してよろしいですか?」

「はい。事務局の方に伝えていただければ、大丈夫です。もともとプライベートな介助ですので、よほどのことがなければ、次も須崎さんのお宅にお伺いできると思います」

 奈々が言うと、須崎は安心したように胸をなでおろしてみせた。細められた目に、奈々は自分たちの関係がこれからも続いていくのだろうと思う。

 奈々としても紳士的に接してくれるし、意見するにも建設的に述べてくれる須崎と接するのは、緊張感はあれど、その一方で心が落ち着きもする。迷いや憂いを少なくとも今は感じていないような須崎の表情を見ると、思ったことを口にするのに苦労はいらなかった。

「あの、須崎さん」

「なんでしょうか?」

「よかったら、このケアサービスのことをエッセイに書いてくれませんか?」

 須崎は微笑んでいたけれど、同時にかすかに驚いてもいた。でも、奈々は自分が言ったことを撤回しなかった。ただ須崎にだけ伝わるような温度と声量で言葉を続ける。

「もちろん、恥ずかしかったり気が進まなかったりしたら、いいんです。でも、障害者だって人間だから、ちゃんと性的欲求はあるんだぞってことを、私は他の人にも知ってほしくて。だって、愛し愛されるのは人間としてあるべき姿じゃないですか。その一因となる性的欲求を、私は誰にも否定してほしくないんです。たとえ障害を持っていようと、持ってなかろうと」

 奈々は実感を込めて言った。今まで数人の射精介助をするなかで、身に染みていたことだった。誰もが生きる価値や尊厳を探していて、それは心ない言葉を浴びせかけてきた寺島でさえ例外ではなかった。

 須崎は腑に落ちたような表情をしている。だから、奈々は自分が的外れなことを言ったのではないと思えた。

「そうですね。確かに鷹野さんのおっしゃる通りです。分かりました。ここで約束をすることはできないんですけど、それでも検討してみたいと思います」

 須崎は奈々と目を合わせながら答えた。簡単に約束をしなかったところに、かえって奈々は須崎の誠実さを感じる。

 もちろん書いて発表してほしいが、でもつまるところは須崎の個人的な問題だ。熟考して書かないことを選んだのならば、それはそれで受け入れようと奈々は思った。

 いくら文章で残されなかったとしても、自分が須崎の射精を介助しているという事実は消えてなくなったりしない。

「それでは、私はこの辺でお暇させていただきます。須崎さん、改めて今日はお疲れさまでした」

「いえ、こちらこそありがとうございました。またよろしくお願いします」

 そう言って、須崎がこの日一番の笑顔を見せる。心からの信頼を示す表情に、再び会うのはそんなに遠い未来のことではないだろうと奈々は確信した。「はい、また」と答えたとき、心はすっきりと晴れ、胸は達成感で満たされる。

 須崎の家から出ると、相変わらず高く昇ったままの太陽が奈々を強く照らした。九月に入っても暑さは少しも和らぐ気配を見せていない。

 じりじりとした空気の中を、奈々は確かに前を見据えて歩き出す。今日は事務局にいい報告ができるなと思った。



 夏はもうすぐ終わる。暑さは少しずつ下り坂に向かっていく。気象予報士が朝のニュースでそう言っていたのがでまかせに思えるほど、その日もうだるような暑さが街を覆っていた。

 午前一〇時に少し遅めの起床をした奈々は、朝食を食べ、身支度を調えるとすぐに外に出た。ビニールハウスの中にいるみたいな熱気の中を、駅の方へと歩いていく。

 南口を出てすぐのところにあるショッピングセンター。その五階に書店はあった。普段本をめったに買わないか、買うとしてもネットショッピングで済ませてしまう奈々には、前に来たのがいつか覚えていないほど、久しぶりに来る場所だ。

 足を踏み入れただけで、一面に広がる本の数々に軽く目眩さえしてしまう。

 でも、その本は入り口付近の目立つ場所に、平積みで置いてあった。掲げられたポスターに奈々は吸い寄せられるようにして近づいていく。

『須崎知通の脳性まひ生活百転び百一起き』

 タイトルの下にはデフォルメされたイラスト。帯には鷹野はあまり名前を聞いたことがないけれど、たぶん著名だろう作家のコメント。

 須崎が『月刊介護』に掲載していたエッセイは、一年間の連載を終えたのちに単行本化されていた。きっともう既に手に取られているのだろう。二つ並んだ本の山の高さが異なっている。

 書店で本を買うのは数年ぶりだから、奈々はこういうときどうしたらいいのか、いまいち分からない。だけれど、こちらを向いて微笑んでいる須崎の顔をイメージしたであろうイラストと目が合って、自分でも気がつかないうちに頬が緩んだ。

 とりあえずSNSに投稿する用に写真を撮って、一番上の本を手に取る。二〇〇ページにも満たない本は大分軽い。でも、書かれていること、須崎の過ごした人生は決して軽くない。

 奈々は一つ息を吐いてから、本を手にレジへと向かった。

 一気に読めなくてもいい。それでも奈々はがんばって最後まで読み切ろうと思った。


(完)


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