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知識は思考の餌である

 子供の頃、あたくしはクイズ番組が好きだった。いまでは死ぬほど嫌いである。問いに答えて正解すればポイントが入り、最終的に最もポイントが高い者が勝者となること。このときの勝者というのがなんか頭のいい人みたいな扱いになるし、視聴者にもそう見えるらしいのだが(これには複数の証言がある)、与えられた問いに答えるのは頭脳の使い方のひとつに過ぎないので、勝者の頭脳の優秀さを手放しに褒めるわけにはいかない。なるほど彼らは物知りではあるだろう。だが人間の能力は知識として貯蔵されたものの大小とは関係のないところも多いぞと。クイズに正解したら頭いいっていう安易さをやめろと。

 一方で知識それ自体はいいものだと思う。経験や本によって学ぶことは多い。最近ではネット動画で勉強する人々も多く、学びの様式はいろいろとあるものだ。で、そうして蓄えた知識をいったいどう使うんですかの話になる。あたくしの持論では、知識は思考の餌にしなさい、ということをけっこう昔からいってるんだけど。つまり知識とは考えるための栄養や道具なのでありますと。以前あたくしに「ボク勉強できたんですよぉ(ニタァ……)」といってきた人がいたけど、その人はあんまり考えるためには知識を使えていないようだった。無駄な勉強と知識だったんだろうな。刺しに来そうだからあまり悪口はいえねーんだけど。

 で、クイズと知識の話をすると、あまりクイズ番組を見すぎると非常な弊害があるとはいえそうだ(内輪の観察結果による)。問いがあったら正しい答えがあって当然である、という考え方が染みついてしまって、ただ0か1かに囚われるような思考形態で物事や会話に当たる。そうした人たちは一様に考えたがらない。0か1か、正しいか誤りか、こちらなのかあちらなのか、それだけを知って完結、満足する世界に住んでいる。考えるべきときの別の答えの可能性、グラデーションについて、それが0.2なのか0.5なのか0.8なのか、そうしたことについてはまったく想像すらできていない。自分で考えるということをしない。いや、全部が全部クイズ番組のせいでもないんだろうけども、でもちょっとは責任あるよ。視聴者を馬鹿にして番組つくって、そのせいで本当に馬鹿になっちゃってるんだから。そこらの日常会話で出るでしょ、「正解!」のひとこと。悪いけどなんも偉くないからなそれ。

 ともあれ人生、その場面場面において、簡単に正誤だけでは割り切れませんよと。あたくしはもう疲れているのです。正しいも間違いもない世界に行きたいな、となれば本を読むのがいちばんだ。それも文学を読むのがよい。哲学書もいいでしょうね。さあさ、読書の秋はまだ続きましょうから。

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