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銀座東洋物語。4(忘れられない面接)

 そんなこんながあって、私の就職活動の方向性は当初のものから180℃変換した。というより、帰国して二年近くがたち、そろそろ本気で正社員のポジションにつかなければと焦ったところに、例のごとく、Japan Timesの求人欄に銀座東洋の求人欄が舞い降りたのだった。
 あの頃の求人広告といえば、ラフなのはフォントも変えることなく、新聞記事と同様にすらりと書かれているものがほとんどで、数字の幅寄せもなくアルファベットがベタに並んでいるタイプが多かった。そこから感じ取るのは、港町の埠頭近くにたたずむ古びた洋館の2階にひっそりある貿易事務所とか、人形町あたりの細路地の奥の小さな個人輸入業者事務所とか、そういう小さなスケール感。『孤独のグルメ』の井之頭氏の事務所はこんなふうじゃないかって感じのやつ。そんな広告が多い中、銀座東洋の求人は毛色違っていた。四角く囲った罫のなかにまずはあの幾何学マーク、それから柔らかい字体がならんでいた。トレードマークはキューブが並んでいるようにも、ソフトな流線にもみえる、あの懐かしいホテルの外観をデフォルメしたもの。肝心な内容は私のテレフォンオペレーターの意外に何があったか、残念ながら覚えていない。なによりも、その広告の優雅さが印象に残っている。

 私はその囲み罫の求人広告をきりとった。そして机のクリアシートの下にしまったけれどすぐには取り掛からなかった。覚悟が必要だったのだ。なにせほんの半年ばかり前にドイツのフラッグキャリアの最終面接まで残ったのだ。まだ自分のチャンスを諦めきれなかった。
 けれども散々頑張ったあとのドイツでは虚無感を経験し、挑戦を続けたくて応募したキャリアでは現役のスチュワーデスたちたちの必死さに負けた。自分にはそういう競争の最前線で戦うのは無理じゃないかと感じ始めていた。普通のOLのように実家からおくりだされて仕事に毎日通う、そういう仕事がいいのかも。そう考え始めていた。結局、応募の手紙を書き、採用されることになるのだけど、その時はテレフォンオペレーターでいいのか、迷ったのが正直な気持ち。でもその迷いは面接の時点から覆された。

 たかが電話交換士の採用試験なのに、ホテルのトップが面接してくれるのだろうか。正直そう思った。何度目かの面接だったように思う。
 面接によばれたのは高速道路を背にした狭い土地に細かいビルがひしめくように建つ路地の事務ビルのひとつだった。飾りっ気のないそのビルの会議室でまっていると、茶系のダブルのジャケットを着た人が入ってきた。それが伝説のN支配人だった。不思議はオーラがあって、一目で普通の人でないと感じた。どう言ったらいいのだろう。さっきまで、航空会社の面接のときのように、できる自分をアピールする気構えだったのに、それがふわりと溶ける感じ。N支配人の強力なのに包み込むような空気は、どんなに身構えて理論武装しても立ちどころに解かされてしまうようだった。

 「将来どんな自分になりたいですか?」

 当たり前な質問がいくつかされた後、N支配人は唐突に英語で尋ねた。そのころの私はやる気はあるものの、それが空回りするのがわかっていた。『頑張る』ということばには私の中に生産性はなく、消耗と虚無しか生み出さないことはわかっていた。でも、しかし、仕事はしなくてはならない。仕事をすることでしか、自分で自分の存在を認められない。悲壮な考えではなく、あのころは、そんなふうに仕事することで自分にできることを発見する。自分で自分の価値を見つける。それが自信になる、生きている意味がみいだせた、そんな優しい時代だった。べつに賢くなくても、兄弟に負けても、それでもちゃんと別の生きる世界を見つけることができた。
 こう書いていていて、いまは違うことを痛感します。学校の延長線上の進むべき進路のお手本はいつも簡単に思い描けるところにあって、だれもがそれを追随するのが当たり前と考えられるますよね。でもあのころは違った。実家は戦争を経験した頭の硬い両親がいました。彼らを納得させるには、経済的な安定が一番説得力があった。時代がちがうことは彼らが一番わかっていた。わかっていても彼らに染みついた育ち方や考え方以外の方法を知らない。そういう環境で、自分を保ちながら、家族からも認められる生き方はやはり仕事をすることだった。
 それも自分をあたかも会社に貢献する人間として稼働する何かのように駆り立てることではなく、会社はその人間が会社にはいったとき異質ではないか、ファミリーとして動けるか、そんなことまで考えてくれていた気がする。少なくとも、銀座東洋においてはそれを感じた。

 N支配人の言葉は、一瞬の間に私の胸にいろんな思いと感情を起こした。ドイツでの自分を恥じる気持ち、臨機応変に対応できない残念さ、それでも自分を諦めたくない意地。そしてなにより、やってきたことに自分自身納得できていないことが、私の感情のネックになっていた。

 How or what do you want to be in the future? 

 支配人はそう尋ねたのだった。この質問に「ホテルの仕事をとおして」という一文が入っていたかもしれない。でも私はこの、漠然とした、そして私の常なる疑問にクリーンヒットした質問にすっかりスイッチが入ってしまったのだった。

 I  want to be a one who can pride myself…, no,… I mean, pride oneself.

 どもりながら、頭のなかで英文を組み文法は正しいだろうかなどと考えながら説明した。
 プライドと発音したあたりで、支配人はやおら口をひらき自分の経験談を披露しはじめた。
 When I stand night at Woldorf・・・・、

 静かで、かつ誰もが耳を傾けざるを得ない強さで語りかけた。相当な自信と比較する必要のない圧倒的な実力、その時はなんの実力か分かりもしなかったが、そういうものがあるのを感じた。

 「まあ、最後まで言わせてあげなさいよ、
  ジャスト、ウエイト。レット ハー フィニッシュ ザ ライン」

 その時初めて隣に座っていたいかにも日本のビジネスマンの典型と言える御仁の存在に気づいた。グレーのピンストライプ。事務方の匂いがするけれど自由裁量の権限を持っている感じの振る舞い。ものすごいオーラをゆらめかせたN支配人をさえぎるのだから、この人もすごい人なのだと気づいたのだった。ピンストライプのスーツは地味だけど、見るからに良質だった。シワひとつないし布地を押し上げる体格にも負の印象は全くなかった。

 「そうだよね、ねえ」と
 その人は、私のほうに軽くウインクしてみせた。それは、いわゆるウインクではなく、相槌のついでに目配せしたという感じの好感が持てるもので、私は安心して口をひらいた。おかげで自分を誇れる人間になりたい、という抽象的で短い一文をやっと言い終えることができたのだった。

 いま考えると、こんな、考えすぎがちな、頭でっかちな返答をする女子なぞ採用すべきじゃないんじゃないかと思う。それでも合格した。あの頃の特徴なのかもしれない。いかに言われた通り、求められた通りの仕事をするかが重要なのではなく、どう仕事と一緒に成長できるかということを見られていた。仕事にしても今のようにすべきことがフィックスされていなかった。仕事内容はつねにグレイであり、ピンクであり、黄緑であり、何かと何かのミクスチャーで変幻自在であった時代だ。その対応力が、企業とか働く人の能力の高さだったりした時代だ。マニュアルもなかった。曖昧なゴールだけがあって、皆が自分のやりかたでそこを目指せた自由な時代だったのだ。

 まあ、あれやこれや、昔話っていうのは、うらしまたろうが玉手箱を開けるっていうのに似ていて、シュッとその時に戻ってしまう効果がある。脚色は多少あるものの、この面接のことは後になっても忘れられないでいる。
 それはアメリカの有名な一流ホテルで、日本人で初めてナイトマネージャーとして働いたことのある支配人に出会ったからだった。普段オーラだのなんだの、誰かが口にするのを耳にしてもフンッと鼻で笑っていた私だが、後にも先にもこれほどのオーラを醸す人を見たことがない。
 この方は、ホテルの経営母体のグループ企業が、銀座に民間の迎賓館をつくろうとホテルを計画し、その目玉として引き抜いたと聞いている。日本には旅館のおもてなしの作法や思いやりの尽くし方があり、それを西洋的なホテルの業態にも使おうとしたのがこの方だと理解している。

 そしてもう一人、面接で私に話す機会を作ってくださったグレーのスーツの御仁。この方も、のちに、グループ企業が吸収合併を繰り返し大きな飲食・サービスインダストリーに成長する立役者の一人になった方だった。
 にもかかわらず、入社二ヶ月の私は、この御仁のお名前を覚えておらず、ただの新人オペレーターだった私を名前でよび様子を聞いてくてくださった。人間力のすごい方達だった。客室に支配人室を構える総支配人には、下っ端の頃はお会いすることはなかったが、年に数度あった社員のためのイベントにおでましあったことがある。
 83室しかないホテルの、一室3名の従業員。つまりのべ250人しかいない。そのひとりひとりに言葉、そしてなにかをいただいた覚えがある。初めてお会いした時にノックアウトされたので用心していたのに、訳もなく滂沱の涙が溢れた。自分で自分がわからなくなっていたが、隣をみると同僚もめに涙をためていて「すごいオーラだから、仕方ないよ」とつぶやいた。このときがオーラという呼び方を認めた瞬間かもしれない。

 ダークスーツの御仁は、のちに経済新聞のトップにお名前が載っているのをみたし、平成に元号が変化したあたりは経済がどんどん新しい方面へ花開いていた時代だったのだ思う。



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