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どの訳を読むか? 与謝野晶子訳『源氏物語』 前篇 【青空文庫を読む】

 これまでも毎月の読書記録に少し書いていたのですが、今回からは「青空文庫を読む」というタイトルで、特に良かった作品や深掘りしたい作品を取り上げていきたいと思います。

 青空文庫には主に著作権が消滅した作品(作者の死後50年経ったもの)が収録されていますが、古文で習うような作品を入れても読める人が少ないという判断なのか、ざっと見たところ、江戸期以前の作品は『古事記』ぐらいしか見当たりませんでした。ただし、古典作品を有名な作家が現代語に訳したものがいくつか見つかりました。
 以前紹介した佐藤春夫訳の『方丈記』と宮本百合子訳井原西鶴『本朝二十不孝』、紹介はしていませんが、尾崎士郎訳の『平家物語』など。


 今回取り上げるのは、与謝野晶子訳の『源氏物語』です。
 『源氏物語』を知らない人はいないと思いますが、一応。平安時代中期の作家兼歌人である紫式部が書いた長編物語です。初めて文献に現れるのが1008年なので、その時期にはある程度書き上げられていたと推測されます。ウィキには「主人公の光源氏を通して、恋愛、栄光と没落、政治的欲望と権力闘争など、平安時代の貴族社会を描いた」とありますが、式部自身が下級貴族出身であり、宮中で働いていたこともあるので、自分がよく知っている世界について書いた物語と言えそうです。

 個人的に、読んだ回数が最も多い小説は、ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』なのですが(十代から二十代にかけて、毎年12月に読み直していたので)、次点は多分『源氏物語』です。
 森鷗外の『舞姫』もそうでしたが、授業で教わると苦手になる作品が多い中、『源氏』だけは、中学から大学まで授業で教わるたびに、ますます好きになっていったものです。
 古典学者によるオーソドックスな翻訳も読みましたし、田辺聖子さんの翻案『新源氏物語』も好きでした。ーーこの翻案は、古典になじみがない方におすすめしたいです。千年以上昔の作品なので、『源氏』には、今の感覚では理解しにくい部分もあります。そうした部分が田辺訳ではわかりやすく書かれており、また、原作にはない登場人物の気持ちなども補われているので、古典初心者でも楽しめる訳になっています。
 翻案といえば、大和和記さんの漫画『あさきゆめみし』も、原作に忠実に書かれた作品です。大学の古典の講師がすすめていたぐらいなので、時代考証もしっかりしており、昭和の少女漫画に抵抗がない方にはおすすめの作品です。


 作家による現代語訳としては、最近では角田光代さんの訳が有名ですが(池澤夏樹さんの日本文学全集に入っています)、私の若い頃には、与謝野晶子・谷崎潤一郎・円地文子の大御所三人の訳や瀬戸内寂聴さんの訳がありました。
 谷崎潤一郎の小説が大好きだった私は、潤一郎訳の『源氏』にもはまり、谷崎が生涯に三度『源氏』を訳したうちの、二度目の訳を一回、三度目の訳を二回読みました。ダラダラとした長い文章を夢中で読ませるあの卓越した技量。紫式部の作品というよりは、谷崎作品の一つとして読んでいたような気もします。
 なので、青空文庫で読む『源氏物語』として、できれば潤一郎訳をおすすめしたいのですが、残念ながら、今も作業中になっています(お金を出してもいいという方は、ぜひ谷崎源氏を読んでみて下さい)。

 私が青空文庫を読み始めた時には、谷崎の著作権がまだ切れていなかったので、与謝野晶子訳の『源氏物語』しか選択肢がありませんでした。谷崎よりも前に訳している分、こなれない表現や古い単語もあるし、文章もちょっと硬い気がしましたが、読み進めるうちに晶子の文章に馴染んできて、これはこれで読みやすい訳だと感じるようになりました。古典の専門家から見ると、間違いもあるかもしれませんが、物語として楽しむ分には特に問題ないでしょう。
 何といっても、『源氏物語』という偉大な物語を無料で読めるわけですから、与謝野晶子に感謝したいです。

 与謝野晶子は、明治〜昭和にかけて活躍した文学者で、古典文学に親しんでいたことから、『源氏』の現代語訳を思い立ったようです。晶子の詩歌は授業で習った「君死にたまふことなかれ」(日露戦争に出征した弟に向けて詠んだ詩)ぐらいしか知らないのですが、大学で女性史を学んだ時に、母性保護論争の論客の一人として、晶子の名前が出てきました。「国家は母性を保護すべき。妊娠〜育児期の女性を国家は保護しなければならない」という平塚らいてうの意見に対して、晶子は「女性は男性にも国家にも寄りかからず生きるべき」と主張したのです。意見の是非は置くとして、晶子自身は自分の主張通りに生きていたと思います(生活力のない夫の与謝野鉄幹を晶子が支えていた)。

 文学者としては、先日読んだ田山花袋の『田舎教師』に、田舎の青年たちが晶子の短歌に夢中になっている話が出てきました。くすんだ現実を生きる青年たちにとって、晶子の作品は、ロマンを感じさせてくれるものだったようです。
 また、森鷗外の手紙に、晶子にフランスを見せてあげたいので、留学費を出して欲しいと豪商に頼む文章がありました。鷗外がそんな骨を折るだけの才能がある女性だったんですね。
 
 次回に続く。


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