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2024年3月 読書記録 川端、太宰、モリスン&マッカーシー

3月は海外文学を2冊、日本の作家では川端康成・牧野信一・太宰治の小説を読みました。


トニ・モリスン『ジャズ』(大社淑子訳・早川epi文庫)

 モリスンの小説は、これまでに初期に書かれた『ソロモンの歌』と『ビラヴド』を読んだのですが、この二作に比べて『ジャズ』はとても読みやすかったです。タイトル通りに、リズム感のある音楽的・詩的な文章が続くので、休日に一気読みできました。読者を選ぶ小説だとは思いますが。愛についの小説なんですね。欠落を抱えた者や自分を見失った者が他者とのつながりを探し求める話です。ただ、中には何かに捉われるあまり、一般常識では理解できない行動をとる人物もいます。彼らの行動原理ができるという読者はほぼいないでしょう。それを受け入れることができるか、どうか。受け入れて(理解はできなくても)彼らの心の声に身を委ねると、これは自分の物語だと思えてきます。できない人には、ただの不快な物語だと思いますが…。


川端康成『眠れる美女』(新潮文庫)

 先月は表題作の「眠れる美女」を読み、今月は収録作の「片腕」と「散りぬるを」を読みました。不快な物語といえば、川端のこの三作も人によっては受け入れられないと思います。自分でも、淡々と読み進めてしまう己に「怪しすぎないか?」と疑いの目を持ってしまうほどです。
 三作とも、川端が『舞姫』で唱えた「魔界」が具現化した作品なのでしょう。谷崎潤一郎の小説を読んで「フェチなエロ爺さんだな」と思っていましたが、川端に比べれば、谷崎はかわいいおじいちゃんレベル。川端は、真面目な顔をしながら、すごいことを考えたものです。
 「片腕」は、娘に借りた右腕と添い寝する老人の話。SF的になりそうなのに、普段通りの川端の文体で書かれています。「眠れる美女」もそうですが、体の老いを認めたくない老人の居丈高な醜さが出ている気がします。美しく繊細な部分と、グロテスクな部分が共にある作品です。
 「散りぬるを」は実際にあった殺人事件に刺激を受けて、警察の調書などを引用しながら、当事者たちの心理を妄想する話です。特に理由もない殺人。それを受け入れながらも、何か楔を打ち込みたくて仕方ない作者。普通の人が同じことをやれば、猟奇趣味の変な奴と思われるだけでしょう。


『ジャズ』も『眠れる美女』もノーベル賞作家の問題作と言っていいと思います。

コーマック・マッカーシー『すべての美しい馬』(黒川敏行訳・早川epi文庫)

 ほぼ無名だったマッカーシーがブレイクするきっかけになった小説で、マット・デイモン主演で映画化もされています。マッカーシーといえば暴力描写が特徴ですが、この作品、特に前半部分にはそれがほとんどありません。友情、メキシコの自然、牧場での仕事と恋……乾いた、美しい文章で馬を愛する少年の成長が綴られます。それだけに、後半の残酷な展開が胸に迫ります。最近発売された遺作も含めて、この作者の小説は全部読みたいと思わせる、素晴らしい小説でした。


青空文庫では、牧野信一の三作と太宰治の1940年〜43年に発表された作品を読みました。

牧野信一『ゼーロン』『鬼涙村』『村のストア派』

 SNSで教えていただいた作家です。ウィキによると、私小説作家に含まれるそうです。日本近代の私小説作家というと、まずは島崎藤村や田山花袋等の自然主義文学者がいます。自分の女性関係を赤裸々に語る作風ですね。恋愛にほぼ制約がない現代では、彼らの作品に意味があるのかどうか(徳田秋声だけは、女性を全人格的に知ろうとする作風が、今読んでも面白いですが)。

 その次に位置するのが、葛西善蔵・嘉村礒多などの奇蹟派です。彼らは、女性関係に限らず醜く卑小な自己をありのままに書こうとしています。
 牧野信一は奇蹟派の影響を受けていますが、ユーモアのセンスや笑い、皮肉など、のちの太宰治に通じる部分も多いです。『鬼涙村』は、日本の村落共同体を舞台にした陰鬱な話なのに、楽しく読むことができました。『ゼーロン』は異色作で、ドン・キホーテを日本に移し替えたような幻想的な話…と思ったら、作者が躁鬱病の躁状態だった時期の作品とのことです。知人に同じ病気の人がいるので、夏目漱石の『行人』も、漱石が躁状態の自分を思い出して書いたのだろうと推察しているのですが、躁の只中に書くと、『ゼーロン』のような奇妙に捩れた作品になるのでしょうか。
 牧野信一は、三十九歳の時に自殺します。苦しみの多い人生だっただろうに、笑いのある作品を書けたのが不思議です。


太宰作品は、どれも良かったです。この時期の太宰が私には合っているのかな(一般には、後期作を好む方が多いと思いますが)。特に良かった作品を挙げると。

『東京八景』

 『人間失格』の源流になった小説の一つではないかと思います。『人間失格』と比べると、技巧に乏しい分、よりストレートに作者の声が感じられます。


『清貧譚』 

 中国の短編小説『聊斎志異』の翻案です。翻案小説でも、太宰は太宰らしい。自分に似た登場人物を見つけて、その人になりきるんですね。いつもの太宰の文章に美しく幻想的な雰囲気が混じります。太宰作品の中ではあまり有名ではないと思いますが、もっと読まれてほしい作品でした。



『新ハムレット』

 シェイクスピアの戯曲『ハムレット』の翻案です。原作を読まれた方なら、ハムレットと太宰に共通点が多いのはすぐわかると思います。実際、いつもと同じ太宰節で話が始まるのですが、この戯曲はそれだけにとどまりません。原作では右往左往する脇役でしかない人達に生命が吹き込まれ、物語に深みが増すのです。ポローニアス、オフィーリア、ハムレットの母親である王妃。彼らには彼らの思いがあり、ハムレットの意のままに動いているわけではない。そんな風に、新たな視点でシェイクスピアの戯曲を読み直したくなる作品です。シェイクスピアの戯曲には新訳もいくつかありますし、子ども向けの『シェイクスピア物語』もあるので、読み比べると、より面白く読めると思います。


『恥』『十二月八日』『律子と貞子』『水仙』

 前二作は女性の一人称小説、あとの二作は女性が重要なポジションを占める小説です。違うタイプの女性が登場しますが、どの女性も同性である私から見ても、違和感がありません。中にはとても奇矯な女性もいますが、「こういう人っているな」と頷けてしまう。男性作家が奇矯な女性を書くと、「この作家は女性の一面しか見ていない」などと思ってしまいがちなのですが、太宰は別格です。本当に女性が好きだったのでしょうね。恋愛感情を超えたところでも。
 リアルな女性が描けるのは、日本の近代小説家では稀有なことだと思います。


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