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村上春樹『海辺のカフカ』を読む 後篇

 「『海辺のカフカ』を読む」前篇を投稿したのは去年の9月、小説を読み終えたのは確か8月なので、ずいぶん時間が経ってしまいました。記憶が曖昧になっているところもあるのですが…。


 時間を置いた今、深みと完成度から考えて、個人的には『海辺のカフカ』を村上さんのベスト長編小説に推したいです。『世界の終わり』+『街と』二作で一つの作品と考えると、『カフカ』に肉薄するかもしれませんが。また、『ダンス・ダンス・ダンス』と『国境の南、太陽の西』もすごく好きなのですが、この二作は村上さんが影響を受けたアメリカの作家たち、それに村上さんが影響を与えた若い世代の日本の作家たちにも似たタイプの小説を書く人が複数いる気がします。
 その点、『海辺のカフカ』や『ねじまき鳥クロニクル』『1Q84』は、村上さんにしか書けない小説だと思うんですね(勝手な独断です)。とても村上さんらしい…ある意味、好き嫌いがわかれる作品群ではないかとも思います。その中で特に『カフカ』を推すのは、主人公が背負うものに最も感情移入できたためです。

 noteを始めるまでは村上さんに苦手意識を持っていたくせに偉そうに語っていますが、「その作家のベスト小説は?」というお題が成り立つ純文学作家は、村上さんと夏目漱石ぐらいではないでしょうか。「森鷗外の小説、何が一番好きですか? 私は『渋江抽斎』です」などと振ってみても、「え? 鷗外? 『高瀬舟』しか読んだことがないです」と敬遠されて話が続かないよね…。

    *

 前篇に「『海辺のカフカ』に強く心を揺さぶられたのは、この小説が神話的な色彩を帯びた作品だからだと思います」と書きました。神話的であるが故に普遍性を持つ作品になったのだと。そして、どんなところが神話的なのかをカフカ少年の物語に注目して書きました。

 この小説には、カフカ少年以外にナカタという、もう一人の主人公がいます。ある事件が原因で知的障碍者になった男性なのですが、ナカタをめぐる物語はカフカのパート以上に神話的な色彩を帯びたものとなっています。
 知力は劣っているものの、清らかな心と不思議な能力を持つ中年男。聖愚者の系譜に連なるキャラクターと言ってもよさそうです。
 
 聖愚者は、ロシア文学によく登場します。最も有名なのはドストエフスキーの『白痴』。主人公のムイシュキン公爵は、世間知らずで常識が通用しない青年です。体も弱いので、知識や教養にも偏りがあります。だけど、イノセントな善人で誰もが彼を好きにならずにはいられない。かなりナカタに似ています。他にもプーシキンやトルストイも、似た雰囲気の人物を登場させています。
 ロシア以外では、映画にもなった『フォレスト・ガンプ』の主人公もそうです。知力には欠けるけど、優しくあたたかい心を持ったフォレストの存在がまわりの人たちの人生を変えていく。原作は読んでいないのですが、映画は現代アメリカの神話とも呼べる作品でした。

 ただし、ナカタはムイシュキンやフォレスト・ガンプのような、単なるイノセントな善人ではありません。
 自分でも意図していないのに、何かに導かれて、恐ろしいことを為す人物でもあります。その点も、神話に出てくる英雄たちと似ている気がします。狂気に陥って自分の子どもたちを殺してしまうヘラクレス、ワーグナーのオペラ『ニーベルングの指環』に登場するジークフリートも、世界の破滅を引き起こします。
 「神がかる」という言葉には、超人的な素晴らしいことをやってのけるという意味もありますが、同時に、自分が自分ではなくなるーー自分がしたことを思い出せないこともある、そんな意味でもあるのだとナカタの物語を読みながら考えました。
 私のような凡人ならば、自分を失ってもせいぜい笑われるようなことをしでかすだけですが、ナカタのような何かに選ばれた者は…。

 ナカタが、何かに選ばれた者であるのは間違いないでしょう。魚やヒルを空から降らせることができるのですから。その部分を読んだ時は、ちょっと興奮してしまいました。ポール・トーマス・アンダーソン監督の映画『マグノリア』を思い出したので。
 『マグノリア』は、生きづらさを抱えた人たちの群像劇です。今こうして書いていても、映画で描かれる孤独とかなしみを思い出して胸が痛くなります。この人たちはどうなってしまうのだろう、皆それぞれにかなしみを背負っているけど、お互いつながることもできず、どこまでも孤独に生きるしかないのだろうか? と思って息を詰めて映画を観ていると、最後に思いもかけないことが起きるんですね。ナカタのエピソードを読みながら、あの時感じたカタルシスを思い出しました(『マグノリア』は生きづらさや孤独を感じたことがある方に観ていただきたい映画です。こう書いているだけで、涙が出てきそう。サントラもおすすめ)。


 『海辺のカフカ』は少年の成長物語と不思議な力を持つ男の英雄譚として読むだけでも楽しい小説ですが、一度読んだだけでは気付けない、深い意味合いが多々ある気がします。そのうちまた読み直してみたいです。

*ところで、カバーイラストは作中で描写される絵をアドビのAIに描いてもらったものです。

海辺にいる少年の写実的な絵だった。悪くない絵だ。名のある画家が描いたのかもしれない。少年はたぶん12歳くらい。白い日よけ帽をかぶり、小振りなデッキチェアに座っている。手すりに肘をつき、頰杖をついている。いくぶん憂鬱そうな、いくぶん得意そうな表情を顔に浮かべている。黒いドイツ・シェパードが少年を護るような格好でそのとなりに腰をおろしている。背景には海が見える。何人かの人々も描きこまれているが、とても小さくて顔までは見えない。沖には小さな島が見える。海の上には握り拳のようなかたちをした雲がいくつか浮かんでいる。夏の風景だ。

村上春樹『海辺のカフカ』

 かなり省略されている箇所も多いし、相当イメージと違う絵なのですが、せっかく描いてもらったので、使いました。まあ、「いくぶん憂鬱そうな、いくぶん得意そうな表情」なんて、絵では描きにくいですよね。それにアメリカの会社だからか「頬杖」的な単語もわからないんだよなー。もっと賢いAIをご存じでしたら、教えて下さい。


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