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漱石、最後の作品 『明暗』 【読書感想文】

 『明暗』が未完の作品だと知っていたので、2016年の漱石没後百年の年まで読んだことがありませんでした。未完の作品を読んだりしたら、結末が気になってフラストレーションがたまると考えていたからです。
 実際に読んでみると、ストーリーより心理描写に重点が置かれているので、未完でもあまり気にならないのですが。
 
 読んだことはなくても、「則天去私」という言葉と関連付けられているのは知っていたので、禅の境地のような澄み切った作品、またはそんな境地に至るまでの軌跡を描いた作品なのだろうと何となく想像していました。
 ところが、読んでみると…禅の境地どころか、感じの悪い人達の卑小なエゴがぶつかり合う話なんですね。比べると、『こころ』の先生を自殺するまでに追い込んだエゴは、気高く形而上的な感情だったなぁと感じます。

 『明暗』の主人公が「則天去私」の境地に至るには、文庫本四冊分ぐらいの描写が必要なのでは。作中で十年単位の時が流れ、様々な人や事件が主人公に影響を及ぼすーー大河小説に近い作品を漱石は書くつもりだったのでしょうか。

 もっとも、最近では、則天去私とは、漱石がこの作品を書く上での心構えだったとする意見もあるようです。則天去私を表す作家として、漱石はオリヴァー・ゴールドスミスとジェーン・オースティンを挙げているんですね。ゴールドスミスの『ウェイクフィールドの牧師』は大昔に読んだきりなのでよくわかりませんが、オースティンについては、ヴァージニア・ウルフの評を思い出しました。オースティンという作家の特徴をよく捉えた評であり、則天去私という言葉と通じるものがあるように感じます。

1800年という昔に、憎しみも、恨みも、恐れも、抗議も、お説教も入れずに物を書いていた女性がいました。これはシェイクスピアの創作態度と同じだと思います。

ヴァージニア・ウルフ『私だけの部屋』

 『明暗』の主人公は、恋人に振られて、全くタイプの違う女性と結婚した男です。『道草』同様、作中では主人公の心の動きが克明に記録されており、また、主人公の妻の心も描かれています。『虞美人草』も多視点でしたが、ヒロイン・藤尾や藤尾の母親の考え方を作者ははっきりと批判していましたし、作者の気持ちを代弁するような人物もいました。『明暗』にはそれがありません。作者は主人公にも妻にも距離を置いており、誰かに自分の気持ちを代弁させることもありません。

 また、『明暗』にはこれまでの漱石ワールドにはいないタイプ/階級の人物も登場します。出自のせいで教育の機会も得られず、仕事もうまくいかない小林という人物です。

 小林は、自分には何の得にもならないのに、意味ありげな言葉や嘘、ほのめかしによってまわりの人間を振り回そうとします。こういう卑屈さと世間への憎しみが入り混じった人は、現実の世界にもたまにいますが、フィクションの世界では、ドストエフスキーの小説によく登場します(小林自身、ドストエフスキーの名前を出しています)。ドストエフスキーの小説もそうですが、『明暗』でも、ストーリーが人々の会話によって進んでいくので、小林のような無駄に喋り散らす人間が不可欠なのでしょうね。抑制の効いた常識人同士の会話だけでは、いつまで経っても何も起こりませんから。

 主人公の妻は、小林のほのめかしで、夫の過去に何かあったのではないかと疑うようになります。また、主人公の方も、妻が小林に何か聞いたのではないか、何を聞いたのだろうと思い悩むようになります。
 それでなくても、主人公は、誰と話す時でも、どう話せば自分にとって、社会的・金銭的・人間関係的に得になるか、そのことばかり考えて、話す内容を決めようとするような男です。妻の方も、婚約時代に周囲に大見得を切った手前、幸せな自分、夫に愛されている自分を皆に印象付けたいと、そればかり考えています。二人とも、うわてに立つために決して自分の本心を人に見せようとはしません。そんな二人が疑心暗鬼に囚われていくわけですから、小説は、重いトーンで進行します。

 この憂鬱なトーンのまま話が終わってしまうのだろうかと思っていると、湯治という名目で主人公が昔の恋人に会いに行くシーンで、小説の雰囲気が急に変わります。気取りがなくおっとりとした昔の彼女の前では、主人公の計算高さが影をひそめるためです。そこから考えられるのは、俗物女性と結婚したことで、主人公も変化した=もともとはいい奴だったという可能性です。主人公の新旧の女性関係を知るパトロネス女性が、一度昔の恋人に会えと背中を押すのも、昔の自分を取り戻させるためなのかもしれません。そして、最終的に主人公は則天去私の境地を得るという流れ? でも、かなり無理のある話かな…。主人公が結婚してまだ数か月にしかならないので。結婚によって、良くも悪くも人は変わるとは思いますが、いくら何でも、そんなに短期間であそこまで嫌な性格になるものなのか…。
 いずれにしても、小説のトーンが変わってすぐに話が途切れてしまうので、主人公の行く末は、読者一人一人が想像するしかないのですが。

 
 漱石は、後期三部作において、それぞれに響き合う短編をあわせて一つの長編小説にするという、独自の作品世界を完成させました。でも、それに満足することなく、『明暗』でまた新たな境地を切り開こうとしていたのは間違いないでしょう。未完に終わったのは残念ですが、書き終えた部分だけでも、漱石のチャレンジを感じることができると思います。読んで楽しい話とは言えず、登場人物に共感できるわけでもないのですが、人の心理という密林に踏み込みたくなった時に、おすすめしたい作品です。
 


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