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苦悩の果てに 夏目漱石『行人』 【読書感想文】

 前回は、時代の変化によって読み方が変わる話を『細雪』を例に挙げて書きました。
 今回は、自分の経験によって読み方が変わった例です。割と作品の根幹にかかわる変化なのですが…これが私一人の変化なら、そんなこともあるよねという話。でも、私自身が第三者として経験したことを、作家の中村真一郎さんが当事者として経験し、やはり『行人』の読み方が変わったと書いておられたんですね。作家の方が同じ意見なら、その変化についてちょっと書いてみようかなと思った次第です。

 最初に、作品のあらすじを。『行人』も『彼岸過迄』同様、複数の短編から成る作品です。短編どうしのつながりが薄かった前作とは違い、『行人』では、視点人物である長野二郎から見た男と女の有り様が描かれます。長野家の下女だった貞と結婚相手・佐野の関係、友人・三沢と女達の関係、そして二郎の兄・一郎と妻の関係が並列的に語られるのです。
 ただ、『彼岸過迄』が最終的に須永という男の話に収斂したのと同様に、『行人』でも、一郎が妻との関係に悩む話から始まって、最終的には、それにとどまらない一郎の苦悩が、二郎の視点と一郎の友人・Hの視点で浮き彫りにされていくことになります。一郎の苦悩があまりにも深いので、並列的に描かれた他の男女関係とのバランスが崩れていますが、作品世界を崩壊させかねないほどの激しいエネルギーが、この作品の場合はプラスに働いている気がします。


 若い頃から『行人』が好きでした。というのも、一郎の苦悩が強く心に響いてきたからです。自分では共感も理解もできない苦悩を描いた作品を好きになるのは結構難しいと思うのですが、『行人』の場合は、「こんなことでここまで悩むなんて」と呆れつつも、心が揺さぶられたのです。これが「明治を生きた知識人の苦悩」ってやつなんだなと感じました。
 悩みの深さと悩んでいる事柄が、あまりにアンバランスなんですけどね。何しろ、一郎は妻が弟・二郎と不倫しているのではないかと疑うあまり、弟に頼んで妻と二人きりで一夜を過ごさせたりするのです。私は、深い部分では他人の気持ちなんて所詮わからないと考えていますし、その割に、表層部ではこの人の気持ちは◯◯だろうと勝手に決めつけてしまう。決めつけられて相手は嫌かもしれないけれど、私の方では、人の気持ちのことであれこれ悩まずに済んでいます。だから、一郎のように他人を疑って悶々とする人にはあまり共感できないのですが、共感できなくても、一郎に深く同情し、気の毒な人だと哀れみを覚えました。
 それに、常に何かに追い立てられ、そんな自分を自覚しているのに何もできずに自分やまわりの人たちを追い詰めていくという一郎の人物像は、今の日本では、割とよく見かけるとも感じました。現代的な人物像だなーと考えていたものです。

 六年前、2016年の夏目漱石没後百年の年に、漱石の作品を読み直しました。『明暗』や『坑夫』のように初めて読んだ作品もあり、それ以外の作品も新たな視点で読むことができたのですが、『行人』の場合は、大きな衝撃を受けました。
 この小説が描いているのは、近代知識人の苦悩なんかじゃない、長野一郎は精神を病んでいる、『行人』は精神を病んだ男の姿を克明に描いた小説なのだと感じたのです。
 以前謎だった一郎の苦悩の深さと悩んでいる事項のアンバランスさも、病気だと思えば何ら不思議ではありません。病気だから、本質ではないことに取り憑かれてしまうのだとわかりました。

 そんな風に感じたのは、私自身、一郎と同じ病に苦しんでいる(と思われる)人から罵詈雑言を浴びせられたからです。支離滅裂な言葉の奔流、自責の念と他責の念が混じり合った感情の渦。全く関係がない、些細な事柄同士が彼女の中では結びつき、大きなものとなって、それが自分を罰しているのだと思い込んでいるようでした。
 彼女が私を責めたのは、不倫といった深刻な話ではなく、頼まれていたことを彼女が望む期限内に果たさなかったためなのですが、知人の精神が崩壊していく様を目の当たりにして、深い恐怖と驚き、悲しみにとらわれました。
 その知人が数年前に産後鬱になったのは知っていたものの、治ったと聞いていましたし、そもそも、鬱や産後鬱とは全く違うものでした。病気ですから、彼女に対しては怒りもなく、むしろ、彼女の頼みに対して悠長に構えていた自分を責めましたが(今思うと、あんな面倒で厄介な頼み事をされた時点で、何か気付くべきだったのかもしれません)、彼女の病を隠していた彼女の近親者には今も割り切れない思いがあります(少し前に仕事も辞めさせられていたようなのです)。とはいえ、彼女の近親者も、一郎の家族同様、どうしていいかわからなかったのかもしれません。普段の彼女は、心のあたたかい優しい女性なのですから。

 『行人』で描かれる一郎の姿が彼女の姿と重なりました。これが、彼女の苦しみだったのだ。そう感じました。

 ちょっと話がそれますが、森鷗外の史伝小説を読み、江戸期の文学に興味がわいたので、参考になる本がないかと探していた時に、作家の中村真一郎さんの評論『頼山陽とその時代』に出会いました。当初の目的にもかなった本でしたが、ここで取り上げるのは、中村さんがこの本を書いた理由です。

 中村さんは一時期、神経を患って小説が書けないどころか、フィクションを読むことさえできなくなっていたのだそうです。その時期に唯一読めたのが、淡々と書かれた伝記でした。
 その中で特に興味がわいたのが、頼山陽の伝記です。というのも、頼山陽には廃嫡・座敷牢入りといった荒れた時期があり、研究者の間でも様々な解釈がなされているのですが、中村さんには、「山陽は自分と同じように神経を病んでいたのだ」としか思えなかったためです。
 一時は、座敷牢に押し込められるほどに病んだ山陽が病を克服して、ベストセラー『日本外史』を書くまでになったことに、中村さんは勇気づけられたのです。
 そうした経緯で書かれた評論なのですが、まえがき部分で、中村さんは夏目漱石にも触れています。中村さんには、頼山陽と同じように、漱石もまた神経の病を克服した作家に思えたのです(精神の病ではなく神経の病となっているのは、五十年以上前の本だから。当時は、心の病は神経症、神経衰弱などと呼ばれることが多かったらしい)。

私の場合、たしかにその頃『行人』や『明暗』の細部に、それまで──というのは私が神経を病む以前という意味であるが──私が見遁していた重要なものを、突然に読みとるようになっていた。私の病気が、今までは幽暗のなかにあった漱石の作品の部分に、鋭い光を投げ与えてくれるに至ったのである。
 『行人』の主人公は、単なる文学的想像による異常な人物の設定というのではないだろう。作者は自分の病状を注入することで、あの人物を創造し、そしてあの人物と周囲の、病気にかかっていない正常な人物たちとの関係を、作者自身の他者との交りの経験に重ね合わせることで、物語を進展させて行ったものに相違ない。(中略)漱石は晩年に至って、彼の長年の異常心理を、遂に現実の闇の部分の照明の武器にまで転換させたのであると、私は思う。 (中略) 漱石は自分の病気という弱味を、ねばり強い自己との闘いを通して、遂に強味にまで転化している。

中村真一郎『頼山陽とその時代』まえがきより


 『行人』は、夏目漱石にとって、極めて個人的な経験に基づく小説なのだ。ーー今の私は、そんな風に考えています。

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