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学生時代の小論が出てきたよ?その4―夏目漱石論「生老病死」一部抜粋

   Ⅰ章  「修善寺大患」から『思い出す事など』へ

      1 昭和六十年代までの主な議論

 持病の胃潰瘍がもっともひどくなったのが、「修善寺の大患」においてである。これは、静岡県伊東市にある修善寺にて、胃潰瘍の療養をはかった期間のことを指す。漱石は『門』(明治四十三年)を執筆してすぐに、持病の胃潰瘍を悪化させ、大量吐血のため死にかけたのである。漱石の弟子でもあった小宮豊隆などは、昭和二十八年(初出は昭和十三年)の『夏目漱石』の評伝において、あるいは昭和四十一年に出版された漱石全集七巻の解説において、はじめて「則天去私」なる言葉に触れて、論を展開している。この大患前後で漱石の人格が大いに変化したものとして、『明暗』の中に「則天去私」という、思想を見出し、一部の漱石研究者から痛烈な批判(1)を受けることとなった。
小宮豊隆は、「大患が漱石にとって一大転換期であった」として、「一度病気をして『天賚』を感じた漱石は、この『天賚』に別れるに堪えないのである。病気は漱石に、人生を楽しむことを教えた。」と、考えている。ここで言う「天賚」とは、三度の吐血、大量出血からの心臓停止、脳貧血による三十分間の人事不省のあとの、病床中の回復期における一種の恍惚状態を指している。また、大患に際して以降、漱石の人格は寛大になったものとしている。「天賚」に帰ることが、晩年の漱石の望みであり、生活、社会における戦いよりも自然の中の静寂や芸術、「死」に対して尊さを見出していた、としている。(『夏目漱石』昭和二十八年)
このような小宮の漱石観は、これまで「先生から本当には愛されなかった」弟子たちが、病床時にはじめて優しくされたことからくる、感慨の言葉に過ぎないのだろう。その漱石の人に対する感謝や、優しさなどに関しては、江藤淳が「病後の感傷に過ぎない」とはっきり切り捨てている。(『決定版 夏目漱石』昭和五十四年)さらに、佐藤泰正は「この三十分の死を、どう対象化しつつ捉えたか」ということと、「修善寺の日記を素材にして書かれた『思い出す事など』を、どのような作品として読み切るか」と、いうところに主題を見出し、「作家漱石の認識の側面」を見ようとしていた。(『夏目漱石論』昭和六十一年)
たしかに、漱石が体験としての死を味わったのは、これがはじめてだろう。それが大患以後の作品に、どのような影響を与えているのかは知れないが、おそらく小宮のいうような、「寛大さ」という形ではなかった。正宗白鳥の「しかし、大吐血の後の漱石が前期の彼よりも、人生の見方が一層温かになり、一層寛大になったとは思われない。かえって反対ではないだろうか。『心』『行人』『道草』『明暗』がそれを証明している。」(『作家論』「夏目漱石論」昭和三年)という指摘にあるように、自己利害と人間関係の衝突の描出が、鋭く、また徹底されてゆくところに、作品の中にある痛切さが、表出されているのではないのだろうか。

      2 死の記述と身体不全

 漱石は、明治四十三年の八月から十月初めにかけて、静岡県伊東市にある修善寺にて、大患の安静をはかった。八月初頭、胃潰瘍による大量出血、吐血による、脳貧血を起こし、三十分間意識を失う。しばらく回復したのちに、当時の死の前後、あるいは「死」そのものについて思考し、日記に残している。『思い出す事など』という、エッセイのような作品は、当時の日記から、さらに思考を深めて書いたものの一つである。

強いて寝返りを打った余と、枕元の金盥に鮮血を認めた余とは、一分の隙もなく連続しているとのみ信じていた。……死とは大方こんなものだろう位にはかねて想像していたが、半時間の長き間、その経験を繰り返しながら、少しも気が付かずに一か月あまりを当然の如くに過ごしたかと思うと、甚だ不思議な心持がする。
……その間に入り込んだ三十分の死は、時間から云っても、空間から云っても経験の記憶として全く余に取って存在しなかったと一般である。……そうして余の頭の上にしかく卒然と閃めいた生死二面の対照の、如何にも没交渉なのに深く感じた。(『思いだす事など』十五・傍線引用者)

 「その経験を繰り返しながら、少しも気づかずにいた」というのは、妙な記述である。しかし、この部分が「死」という、経験不可能な現象の本質を示している。「吐血後の三十分間の死」とは、漱石にとっては他者のものであった。なぜなら、体験を体験として認識する「意識」を失っていたからであり、経験として記憶する、また視覚認識することが、不可能だったからだ。
その場合「死」の経験を記憶する、見るというのは、他者に依拠した行為となり、漱石の死の体験とは、むしろ妻鏡子(2)ならびに、医師や看護師など、傍で死を認識していたあるいは、見つめていた者の経験となる。そのような意味において、自らの死を、主体が経験することはできない。
つまり漱石にとって、「死の体験」とは、単なる自己の喪失でしかなかったのだ。そこには神秘も無ければ、悟達もない。「宗教」は生きている者のための「死」への知識である。しかし、知らないうちに死んでしまった者にとって、「死」とは意識の点滅に過ぎない。「生死二面の対照の、如何にも没交渉なのに深く感じた。」とは、その通りである。まさに連続していた意識の喪失を意味しており、だからこそ「死」とは認識不可能な、あるいは主体にとっては「不可視」なる体験となる。
しかし、あとから鏡子の残していた記述を読み、あるいは医師などの話しを聞くことによって、「死の経験」を知ることはできる。先ほどの引用部が、明瞭なのも話しを聞いたことによって、自己の「不可視」の経験を、知ることができたからだ。そのような意味において、自己の死とは、獲得可能なものなのだろうか。しかし、人が「死」を認識できるのは、生命活動を表明するあらゆる器官や、機械などを媒介にしてでしかない。療養中の漱石は、妻の話しから自らの死を獲得し、「死の先にある生」を認識し思考するようになる。それはすでに過去となった自分、「他者の死の経験」の記述を、知識として認識しているに過ぎないのである。
病床において、ドストエフスキー(3)のてんかん病の神秘性へ憧憬に似た尊敬を抱き、ウィリアム・ジェイムズの『多元的宇宙』(4)という論文に共感を持ち、胃腸病院の長与院長の死などに、同情を寄せた挿話からも、それがわかる。しかし、「死」の体験が直接的に、漱石の心的状態に影響を与えている、とは必ずしも言えない。むしろ、「死」や「病」という、避けがたい状況に対する人々からの同情、あるいはそれにともなう身体機能の著しい低下と、自己との関係が重要なのではないだろうか。

ただ驚かされたのは身体の変化である。騒動のあった明くる朝、何かの必要に促されて、肋の左右に横たえた手を、顔の所まで持って来ようとすると、急に持ち主でも変わった様に、自分の腕ながらまるで動かなかった。
……漸く傍のものの気が付いて、自分の手をわが手に添えて、無理のない様に顔の所まで持って来てくれて、帰りにもまた二つ腕を一所にしてやっと床の上まで戻した時には、どうしてこう自己が空虚になったものか、我ながら殆ど想像が付かなかった。後から考えて見て、あれは全く護謨風船に穴が開いて、その穴から空気が一度に走り出たため、風船の皮が忽ちしゅっという音と共に収縮したと一般の吐血だから、それでああ身体に応えたのだろうと判断した。(同 十八・傍線引用者)
   ……余は生れてより以来この時程に吾骨の硬さを自覚した事がない。その朝眼が覚めた時の第一の記憶は、実にわが全身に満ち渡る骨の痛みの声であった。……多数を相手に喧嘩を挑んだ末、散々に打ち据えられて、手も足も利かなくなった時の如くに吾を鈍く叩きこなしていた。(同・傍線引用者)

「ただ驚かされたのは身体の変化である」「わが全身に満ち渡る骨の痛みの声であった」とあるように、意識喪失の後、漱石が最初に問題にしたのは肉体に残る苦痛と不具合だった。通常の健康体であれば意識されなかった部位や、動作などを意識せざるを得なくなったのは、痛みのためである。腕を持ち上げる、下ろす、という単純な動作でさえ、他人に手伝ってもらわなければならない。自己の肉体の不安定さ、頼りなさを「護謨風船の酸欠」として考え、身体の不全について説明している。この部分に、自己の思い通りに動かなくなる、他者としての身体がある。
意識できるものとは、すでに自然状態とは違うものである。痛みの持続のために、つねにその患部を意識していなければならない苦痛をともなう。そして、自己の身体だけで起こっている異質性、闘いというものは、他者には決して理解することはできない。それは、目に見える怪我とは、また違った異質性を有している。
漱石が三歳の時にやった疱瘡による、あばた面などは、人の目に見えるものだ。あばたがコンプレックスになっていたことは、『吾輩は猫である』の中にも揶揄され、描かれている。たしかに、見えるがゆえに苦痛をともなう場合もあるが、胃や骨など皮膚の下、見えない部分における異質性を、常に意識し続けることは、また違った苦痛をともなう。
なぜなら、視覚における共有は、時に個人を慰めることもあるが、視認さえできない欠如、不具合は、共有できない苦しみを絶えず内包している。肉体が衰弱して、動けなくなり、右手も満足に動かせない自己の身体への心細さなど、そばで世話をしていた妻鏡子でさえも、共有することのできない感覚である。
では「死」は見えるのか。先ほど漱石の死の経験は、他者の経験だと言ったじゃないか、という反論も当然起こる。「死」とは、医師および機械などを介して記述されるものを、あるいは「息をしていない」「心臓が停止している」という状態を「死」と定義して視覚認識できた場合、意識のない自己にとっては「不可視」なる体験として論じてきた。しかし、「痛み」や「症状」などの身体の感覚は、「不可視」の症状において、その肉体の持ち主にしかわからないものであり、そのような意味で共有の不可能性を、ここでは指摘している。つまり、皮膚の内側の問題に限定して言うのであれば、共有できない感覚ということになる。
共有できない感覚とは、他者にとっては存在しないものと同じである。しかし、痛みを感じる自己にとっては、確かに存在しているものである、それが他者との齟齬をより強調する何かとなって、自己に迫ってくる。より強調された他者と自己との相違、あるいは関係性の断絶、了解不可能性などとなって、漱石にある種の切迫感を与えていたのかもしれない。それは、誰もが持っている孤独であるにも関わらず、以後漱石に「継続」や、「片付かない」苦痛を覚えさせるのは、「症状」や「痛み」によって「意識」し続けてしまう身体の状態に依るのかもしれない。

      3 「不可視なる可視」と「自己本位」

『門』執筆前から、すでに胃潰瘍を患っていた漱石が、身体の側から迫りくる異質性を知らなかったとは、思えない。ロンドン留学中に書いた『文学論』から、神経を極度に疲弊していたことから、精神における疲労、不安は知っていただろう。しかし、実質的に肉体が死を体験するのと、精神の緊迫による衰弱は違う。死が「臨死体験」(一度死んだが、生き延びた)や、「内包」(病気とは、長期的に死を意識することから、「死」の内在化とも考えられる)に移行したとき、生死観は大幅に変化してゆく。
つまり、持続的な痛みこそ、意識されないものを意識させるものであるため、漱石の胃潰瘍も、身体の一部にある種の「死」の継続的なものを持っている、ということになる。だから漱石は、胃がどこにあるのかを、つねに知っていたのだ。(痛みのために意識していた)「余は明け暮れ自分の身体の中で、この部分だけを早く切り取って、犬に投げて遣りたい気がした。それでなければこの恐ろしい単調な意識を、一刻も早く何処へか打ち遣ってしまいたい」(『思い出す事など』八節)のである。
この「生-病-死」への考察に関しては、フランスの思想家、ミシェル・フーコー(5)の『臨床医学の誕生』(一九六三年)という優れた論文の中で、中心的に展開されている問題でもある。フーコーは「九章 不可視なる可視」において、「生-病-死」の三位一体から、現代の医学の問題と共に「不可視なる経験」について分析している。人が病気になるのは、彼が死に得るものだからであり、有限的な存在だからである。その論点は、エリアス(6)の中にも見出されたものだ。死によって、病の脅威から生が解放されたとき、これら三つのことは三角形に結びつき、「現実の持続を持った生と、逸脱の可能性としての病とは、死の深く隠れた地点にその起源を発見する。」こととなる。
つまり、生から直接死に移行するのではなく、当然のことだが、健康体は徐々に衰弱し、病気を経て、死に至るものであり、「病」とは平均化された「生」からの逸脱であり、その終着点に「死」がある。ということだ。フーコーの論旨における「死」とは、解剖され、分析された死体のことを示す。もちろん、宗教的な意味も含まれてはいるだろうし、近代以降信仰が解体されていったことによる「精神病者」の生成というのも、一つの問題となっている。しかし、エリアスほど観念としての「死」に終始しないのは、医学的な視点から、身体と病気との関係性を内包しているからではないだろうか。
フーコーは、完全なる死体の内側を解体、分析してゆくことによって、あらゆる疾患、症状を解読してゆく、一つのテキストとして、「死」の概念を見つめている。だからこそ、死が三角形の頂点を成し、病と生を照らしだしている。分析された死は、病に対してある症状の原因、過程、結果を知らせ、生に対して治療の方向性と、予防を知らせる。
「病(時間)とは、徴候(認識)から、症状(解読)を経て、生きた主体(空間)に、その意味内容を語りかけてくるもの」としている。そうして、病が具体化され、個別化されたときにはじめて、各部に死を内包した主体(病人)が、表出されるのである。
この解剖学を通じて、症状や兆候とは個別差を有し、「個人的なもの」がそこではじめて見出されるのである。そして、この個体が主体であり(病人)、客体ともなるとき(症状の表出体)、有限性が無限性へと転換される。その主体は、閉じられた肉体であり、漱石だけではない誰もが、歯痛を解さない他者の中に放りこまれる、実存の孤独を有しているのだ。しかし、その「逸脱を経て、死に至る時、単調な生活や平均化から逃れ、再び自分自身へと戻ってゆくものである」としている。(7)
つまり、死(異常)の解剖によって、生(常態)の概念は生成されてゆくが、解剖という構造によって、生命は絶えず明るみに出されることになる。存在とは、閉じられているからこそ存在であり得たが、知や技術の発展によって、「存在」が共通化されてしまい、解体されてしまった。知において「人間」とは、状況や状態を表出するための媒介物へと、変化してゆく。
「死」や「病の状態」は視認や記述によって、共有できるものかもしれないが、個々の細かな病状の変化、環境の相違となると、やはり「病」は個人的な問題へと終始してゆく。漱石もまた、そのような主体と客体のまなざしの転倒を意識し、自己の解剖を行ってゆくことによって、「個人的なもの」を、獲得しようとしていた。それは、留学直後から思考し続けてきた、「自己本位」の思想の展開を、さらに推し進める形となっている。漱石は、この大患を通して自己の死に際し、ますます個別的なものに執着せざるを得なくなったのかもしれない。それは「自己喪失」という空虚さへの、漠然とした恐怖や、大患時の身体の不具合という、実際的な面からのアプローチとなったからではないだろうか。(8)
 だからと言って、漱石の個人主義は病後から意識されはじめたのか、というとそうではない。ロンドン留学前後から、「自己本位」なる思想態度は持っており、「症状」や「痛み」にのみ依拠して、個別性というものを、見出していた訳ではなかった。それは、『文学論』を書き残していることからも知れることである。しかし、大患以後の作品にある種の重さが出てきているのは、その「自己本位」に依拠せざるを得なくなった、病身漱石の孤独の表出からではないのだろうか。それにともなう、「病」と「作品」との関係は、次章でくわしく展開するので、ここでは触れない。



Ⅰ章の脚注
(1)江藤は、『決定版 夏目漱石』(昭和四十九年十一月 新潮社)において、「漱石の偉大さがあるとすれば、それは漱石が特別な大思想家だったからでも、「則天去私」に悟達したからでもなく、漱石の書いていたものが文学であり、その文学の中には、稀に見る鋭さで捉えられた日本の現実があるからである。」として、小宮らの漱石神話を批判している。
(2)夏目鏡子(一八七七年―一九六三年)明治二十八年、鏡子十九歳の時に見あいで知り合い、のち明治二十九年漱石と結婚。六月より新居にて共に暮らす。鏡子は、見あい当時貴族院書記官長だった中根重一の長女。
(3)F・M・ドストエフスキー(一八二一年―一八八一年)ロシアの小説家。信仰、神を中心に人間存在の根本問題を、独自の対話的方法で検討した。代表作は、『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』など。なお、ドストエフスキーは「てんかん病」を患っていたことで有名であり、『白痴』には彼のてんかん症状に入る前後が、鮮明に記述されている。おそらく漱石もそれに触れて、「神聖の疾」とされていたてんかん症状と、自分の病床時の恍惚状態を照らし合わせて、考察しているものと思われる。(『思い出す事など』二十節を参照)
(4)ウィリアム・ジェイムズ(一八四二年―一九一〇年)アメリカの思想家プラグマティズムの実践家であり、心理、宗教、哲学の各領域で多大な影響を及ぼした。漱石もジェイムズの影響を強く受けているとされる。主要著書は『心理学』『プラグマティズム』『純粋経験の哲学』など。なお、ここで記されている『多元的宇宙』(一九○六年)はジェイムズ晩年の作品の一つであり、漱石の入院前に発表されているものである。また、漱石の入院した年に亡くなったこともあり、命の救われた自分と比較しながら、不思議な感慨を抱いている。(『思い出す事など』三節を参照)
(5)ミシェル・フーコー(一九二六年―一九八四年)フランスの哲学・思想家。精神病院の医者として働いていたこともあり、『臨床医学の誕生』は当時の経験を元に書かれている。以降、狂気の歴史学を開拓し、人間科学の認識論を革新。知と権力の内在関係をも分析した。なお、同期思想家ドゥールーズとも交流があった。主要著書は『知の考古学』『狂気の歴史』『監獄の誕生』『言葉と物』『性の歴史』など。
(6)ノルベルト・エリアス(一八九七年―一九九〇年)ポーランド生まれのユダヤ系ドイツ人、社会学者。各大学で医学、哲学、心理学を収め、ヤスパース、フッサールなどから影響を受ける。以後、フランクフルト大学で教鞭をとる。主要著書は、『文明化の過程』『宮廷社会』『社会学とは何か』など。
ここでは、『死にゆく者の孤独』(草稿一九八三年・出版一九九○年)を参照している。「施設に追いやられる老いた肉体や、目前に死の迫っている病人は、みな等しく孤独を有しており、さらに広げて言及するなら死に向かって生きている人間存在とは、みな等しく孤独である」としている。さらに、「死を忘れることによって、生が成立し、その忘却を脅かすものが目の前にある場合、一種の不快感をともない、それによって病者や老人などの、死を内包している他者を、隠してしまおうとし、見ないようにする」と、している。
(7)これは補足になるが、フーコーは「死」の解体から現代の臨床医学がはじまっている、としている。それははじまりから、終わっていたことを意味している。この『臨床医学の誕生』が書かれてから、すぐ『言葉と物』(一九六六年)は書かれ、その中で「人間という概念は、すでに消滅している」とした。皮肉なことに、病を治すための行為、死の解剖、この閉じられた個人の肉体、「不可視なる可視」を解剖、分析、認識することのできる「まなざし」を、手に入れたことによってなのである。(『臨床医学の誕生』「九章 不可視なる可視」および訳者神谷美恵子解説)
(8)補足すると、「病の観察(診察)から、描写(分類し固定化してゆく)にいたって、症状や兆候を認識してゆく、医者と患者の関係性を、画家の描く肖像画と同じものだ」とした。また「治療の問題として、原因の中にしか結果は還元することはできないものだ」としている。(一九六三年『臨床医学の誕生』「第一章 空間と分類」「第二章 政治的意識」要約)漱石もまたこの長い療養期間においては、「肖像画」のような自己の死や身体の記述を、残している。おそらく「治療の問題として原因の中に結果を還元」させようとした行為の一つとして、「修善寺大患日記」や『思い出す事など』は、書かれているのかもしれない。つまり、自分で「病」を観察し、描写し、固定化していっているのである。

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