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人間の心の成長を綴る。 『さよーならまたいつか!』 米津玄師 【MV考察】

2024年4月8日、米津玄師の新曲『さよーならまたいつか!』が配信リリースされた。同月12日にはMVも公開されている。

この楽曲は、日本史上初めて法曹の世界に飛び込んだ、一人の女性の実話に基づくオリジナルストーリー、NHK連続テレビ小説『虎に翼』の主題歌。主人公の猪爪寅子を伊藤沙莉が演じる。

ここでは『さよーならまたいつか!』の楽曲やMVの世界を考察していく。
今回はこのような順番でお送りしようと思う。



◉ MVをみた率直な感想

何度も映像が巻き戻るし、一発録りにみえて少しずつ場面が違っている。それに対して曲は流れ続けるのにリップシンクが合っている。
この「巻き戻し」は何を意味しているのか? 初見では呆気にとられたまま終わるであろう摩訶不思議なMVだった。

◉ MVをみて浮かんだ1つの仮説

繰り返しMVをみて思ったのが、
ここは「法律が消えた無秩序の世界」なのではないか? ということ。

今回はこの仮説を踏まえて、MVを考察してみたいと思う。あくまで個人の解釈なので、1つの考えとして読んでみてほしい。まずはMVで何が起きているのか、時系列順に確認していこう。


バリバリに割れた鏡で自分の姿を見つめる米津。

0:00〜
バリバリに割れた鏡で自分の姿を見つめる米津。場面が巻き戻るとアメリカンダイナーの店内で暴動が起きている。その渦中でも米津はひとり淡々と歌を口ずさむ。どうやら割れたあの鏡はこの暴徒たちによるものらしい。

暴動の中でひとり淡々と歌を口ずさんでいる。

00:10〜
暴動に巻き込まれるのでは…と心配していたが、誰も彼の存在を認識できていない。長身で三つ編みの全身真っ赤なスタイリング…どこか浮世離れしていて中道的にこの状況を俯瞰している。

バックには、暴動の現場を眺める野次馬たち。

01:00〜
さらに巻き戻ると、その現場を眺める野次馬がバックに映る。彼らも一線を越えることができないだけで、暴徒たちと同じような不満を抱えているのかもしれない。

ここまでの歌詞では、生きていれば誰しもが抱くであろう負の感情を見つめ共に毒を吐き嘆いている。

どこから春が巡り来るのか
知らず知らず大人になった
見上げた先には燕が飛んでいた 気のない顔で
もしもわたしに翼があれば
願う度に悲しみに暮れた
さよなら100年先でまた会いましょう
心配しないで

いつの間にか 花が落ちた
誰かがわたしに嘘をついた
土砂降りでも構わず飛んでいく
その力が欲しかった

誰かと恋に落ちて また砕けて やがて離れ離れ
口の中はたと血が滲んで 空に唾を吐く

茶目っ気たっぷりな横ピースの米津。

瞬け羽を広げ 気儘に飛べ どこまでもゆけ
100年先も憶えてるかな
知らねえけれど さよーならまたいつか!

01:30〜
この歌詞をあなたはどう受け取るだろうか?
冷たいと感じるだろうか?それとも温かいと感じるだろうか?
この一節の捉え方によって自分自身が孤独をどこまで受け入れ自由であるかが見えてくる。

場面は再び巻き戻り、店へ歩みを進める米津。

しぐるるやしぐるる町へ歩み入る
そこかしこで袖触れる

01:40〜
ここでは、俳人 種田山頭火の句である 「しぐるるやしぐるる山へ歩み入る」を本歌取りのように用いている。
「本歌取り」とは、古歌を素材にとり入れて新しく作歌する、和歌の修辞法の一つ。この句は、季節や他人の意見を気にせずに、自分が今感じている心の中を詠んだ自由律俳句だ。冷たい雨が降ったり止んだりする中、薄暗い山道をトボトボと進んで行く、山頭火の伸び伸びとしながら寂しげな姿がイメージされる。

バンに同乗し、不適な笑みを浮かべる米津。

見上げた先には何も居なかった  (ああ居なかった)

01:55〜
場面は更に巻き戻り、暴徒たちが乗り込むバンに同乗。
気儘に自由であろうとすれば必ず「孤独」の代償もついてくる。私たちは互いの全てを分かち合えないし、ずっと一緒にはいられない。
笑えてしまうほど辛く哀しい運命に対する「呆れ」「諦め」を感じさせる。

この楽曲が主題歌である朝ドラ『虎に翼』にて、世間が幸せだという結婚が地獄にしか思えない寅子。自ら法の道に進むが周りから白い目で見られる日々。しかし彼女はこの道に希望を感じている。世間の大きな流れから外れたとしても、己を貫こうとする寅子の強い意志や苦難な人生が重なる。

したり顔で 触らないで 背中を殴りつける的外れ
人が宣う地獄の先にこそ わたしは春を見る

2回目の鏡のシーン。

02:10〜
場面が再び巻き戻ると、冒頭の鏡の場面にいく。
しかし、前回よりもヒビ割れはなくなり修復されたかのようだ。

冒頭よりも嬉しそうに店内に向かう米津。暴徒や野次馬の姿はなくなっていた。

02:15~
共に毒を吐き悲しみ切ったとしても、なお苦しい日々はつづく。しかし以前とは違う。孤独を受け入れ自由に飛び立とうとする「あなた」にまた会いたいと力強く後押しする。

誰かを愛したくて でも痛くて いつしか雨霰
繋がれていた縄を握りしめて しかと噛みちぎる
貫け狙い定め 蓋し虎へ どこまでもゆけ
100年先のあなたに会いたい
消え失せるなよ さよーならまたいつか!
さよーならまたいつか!歌詞

冒頭とは違って平和な店内。

03:00~
店内へ入るとそこには食事を楽しみ賑わう人々の姿があった。ただ楽しんでいるのとは違い、孤独の痛みを知った上で心から自由を楽しんでいるように見える。

(今恋に落ちて また砕けて 離れ離れ)
口の中はたと血が滲んで 空に唾を吐く
(今羽を広げ 気儘に飛べ どこまでもゆけ)

3回目最後の鏡のシーン。

03:10〜
三回目の冒頭の場面。
傷ひとつなくなった鏡の自分にウインクする。
米津はこんな歌詞でMVを締めくくる。

生まれた日からわたしでいたんだ
知らなかっただろ さよーならまたいつか!


MVや歌詞の流れは以上だ。
ここからは私なりの解釈で考察していきたいと思う。

◉ 私たちに何を伝えようとしているのか?

作品を通して米津は人間の心の成長を表現していると考えた。それは4つの段階に分けることができる。

1. 自分ひとりでは主体的に行動できないなど、依存的な意識状態
2. 相手を信頼しておらず、自分でなんとかしようとする意識状態
3. 精神的に自立していて「自分」と「他人」を分けて考えられる意識状態
4. 自分だけでなく、相手のことも受け入れられる他者受容の意識状態

自分を浄化すると幸せになれる 人生のステージを高めれば全てうまくいく 著書:岩崎順子

これを意識しながら、MVの疑問点をみていこう。

◉「法律が消えた無秩序の世界」という仮説を立てたのはなぜか?

理由は2つある。

1つ目の理由は、単純に「暴動が起きている」という描写があるからだ。
よく見るとこの店内だけでなく、周囲のガソリンスタンドや車なども破壊された跡がある。法律が消えた理由はわからないが、暴徒たちの車の乗り方を見ても、やはりこの辺りは無法地帯なのだろう。

2つ目の理由は、現代人が抱える心の闇を表現するためだ。
作中の寅子から見ると今の世の中は、男女の社会的格差が無くなり一個人としての生き方が尊重される自由な時代に思える。
しかし、そうとは言いきれない。将来の選択肢が広がったからこそ、自分はなにがしたいのか迷ってしまう。毎日SNSで誰かの情報や意見、叩かれ吊し上げられる人を目にする。心持ちが出来ていなければ、嫌でも自分と他人を比べたり失敗を恐れて動けなくなってしまう。現代はそんな不自由で息苦しい時代なのだと思う。
そんな世の中で「法」が消えると、それまで抑えられてきた他人や社会への「不満」を解放する人々が現れる。その心の闇が「暴徒」や「野次馬」としてMVで表現されている。

以上2つの理由からこの仮説を立てた。

◉ MVの「鏡」の存在とは?

心理学において、鏡は「自己」を投影する象徴としてよく扱われる。
だとすると、暴徒たちは鏡を傷つけるように自分自身を傷つけている。
彼らは「法」の下、かろうじて自分を律している。極端に言えば、法に依存し自律できていない人たちだ。

自信がない情けない自分に目を背けて余所見ばかりの日々。他人を羨ましがって自暴自棄になっても結局自分は何も変わらなかった。だからこそ、米津は鏡に映る自分の姿をじっと見つめる。「何があろうとも、まずは自分自身に目を向けてほしい」という想いが冒頭から伝わってくる。

MVの中で鏡のシーンは3回。何度も巻き戻しているため同じシーンに思えるのだが、バラバラに割れた鏡が徐々に綺麗に修復される様子が見てとれる。それは傷ついた心の修復を意味し、前述した心の成長段階をたどる。つまり、ここでの「鏡」の役割は、人間の心の成長を示すバロメーターなのである。バリバリに割れた鏡では、自分の姿は歪んでよく見えない(わからない)が、様々な経験を通じて自分を知ることで、よく見える(わかるようになる)という喩えにも捉えられる。心なしか彼の表情も段々と明るくなっているように感じる。
なににせよ、同じようで少しずつ違うこの違和感は、言葉にせずとも受け手にとって「希望」としてイメージできるものなのかもしれない。

◉ MVの「巻き戻し」にはどんな意味があるのか?

しかし、まだ大きな疑問が残っている。
この「巻き戻し」にはどんな意味があるのか?ということだ。何度も巻き戻しているようで以前とは違う明るい未来に変わっていく…
それは「巻き返し」という感覚だった。

人は生きていると、過去味わったトラウマに似たような場面が再び訪れる。あの時は自信を失くして逃げた記憶、失敗した記憶、思い出したくない記憶、頭の中で人それぞれの過去がフラッシュバックして巻き戻される。
しかし、その間にあらゆることを経験し学んできたことで、勇気を持って立ち向かえる時がある。あの時の自分とは違う選択を選んで成長を実感できる時がある。
このMVの「巻き戻し」は、そんな逆境からの反撃を意味する「巻き返し」を表しているのではないだろうか。そしてそれは私たちが別々の孤独を歩む「勇気」とその道中での「失敗」を礼賛する。

◉『虎に翼』と考える 心の成長と自律。

とある離婚裁判を傍聴するヨネ(左)と寅子(右)

『虎に翼』にて、女子部法科同期の山田ヨネと寅子はある日、DV夫とその妻のとある離婚裁判を傍聴する。
その裁判は明らかに妻側に対して不当なものなのだが、「法」が思わぬ障壁となってしまう。憤りを感じながらもヨネは、「無理だ」と諦める一方で寅子は諦めず考え続ける。しかし、いくら考えても妻の正当性を証明する方法は見つからず「ここはもう裁判官の自由なる心証に任せるしかない」と自分なりの答えを絞り出した。

裁判の判決を言い渡す裁判長。

「自由なる心証」とは、裁判に必要な事実の認定について、証拠の評価を裁判官の判断にゆだねるという考え方。つまり、裁判官の良心に判決を任せるということ。寅子はそこに希望を託した。結果、見事な勝訴。言い渡された判決の主旨は「人間の権利は法で定められているが、それを濫用、悪用することがあってはならない」という、当時としては画期的で新しい視点に立った判決だった。

法律とは何か?について話す寅子(左)と優三(右)

この離婚裁判の最中、猪爪家に下宿しながら法律家を目指す優三に寅子は「じゃあ法律とは?の正解はなんなんですか?」と率直な疑問をぶつける。それに優三は「法律って、その…自分なりの解釈を得ていくものといいますか…」と彼なりの解釈を伝えていた。寅子が自分なりの答えを必死に絞り出し「自由なる心証」という新しい糸口を見つけられたのも、この優三の言葉があったからなのかもしれない。

これが本主題歌やドラマの重要なキーワードになる。
「法律でこう決められているからやってはいけない。だからやらない。」ではなく「なぜダメなのか?」を考えてみる。法律を鵜呑みにせず、まず自分で考え、自分で答えを出すということ。つまり「自問自答」だ。

法で自分を律するのではなく、
まずは自分で自分を律する。自律すること。

「法」に全てを委ねて依存するのではなく、自分なりの考えや解釈をもって「法」と関わっていくことが何よりも大切なのかもしれない。そしてこれは「法」だけでなく「他人」「教え」「情報」…あらゆる言葉に置き換えることができる。

物事に対して自問自答していくと、やがて自分と他人の違いが見えてくる。自分にできること、できないことを自覚し、他人に頼れるようになる。自分の問題と他人の問題を分けて考えられるようになる。すると自分は唯一無二の存在であると気づく。自分と他人の自由・幸せを悦ぶことができる。
こうして時にぶつかって「寂しさ」を感じ、時に共感して「幸せ」を感じながら、人は「自律」へと成長していくのだろう。

◉ まとめ 〜ひとりではないということ〜

この「自律」への道のりが心の成長の4段階だ。
まずは鏡に映る自分の姿を見るように自分を見つめるところからはじまる。
悩み、不満、トラウマ、自分の中にある暗闇。今まで向き合おうとしなかったものと向き合おうとするのだから怖いのは当たり前だ。
そしてこの作業は、誰にも頼ることができない孤独の時間でもある。心の中を探せるのは自分だけだからだ。
しかし、それは皆同じだということ。分かり合えない私たちは、唯一この痛みを分かち合うことができる。

三つ編みに真っ赤なスタイリングの米津玄師。

米津自身、音楽を通して自問自答を繰り返しながらこの成長を実感してきたのだと思う。ボカロP・ハチ時代から現在の活動に至るまで、彼の生み出した作品が数多くの共感を集めていることがその証だろう。彼のスタイリングの変遷をみても心の変化・成長が感じられる。

そんなことを考えながら改めてMVをみてみる。
心は痛くて苦しいけれど、それ以上の勇気と希望が込み上げる。『さよーならまたいつか!』を合言葉に、不思議と「春」の訪れを感じる。

writing : Ryu Ishii


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